デザインに奉仕する人
原研哉『デザインのデザイン』岩波書店、2003
を読みはじめる。まだ読んでないんだが、あとがきに「僕はデザイナーであるが、この『ナー』の部分は優れた資質があるという意味ではなく、デザインという概念に『奉仕する人』という意味である。ちょうど庭師をガードナーと呼ぶように、デザインの庭を掃いたり手入れしたりする人」という一節があって、とても共感した。あとがきから読みはじめる正しい読者としては、これから頭から読むのが楽しみになった。
原研哉『デザインのデザイン』岩波書店、2003
を読みはじめる。まだ読んでないんだが、あとがきに「僕はデザイナーであるが、この『ナー』の部分は優れた資質があるという意味ではなく、デザインという概念に『奉仕する人』という意味である。ちょうど庭師をガードナーと呼ぶように、デザインの庭を掃いたり手入れしたりする人」という一節があって、とても共感した。あとがきから読みはじめる正しい読者としては、これから頭から読むのが楽しみになった。
佐藤雅彦『プチ哲学』マガジンハウス、2000
を読む。アフォーダンスの解説がとてもいいので、「空間と情報」の講義で使わせてもらいます。
を読む。
ポール・ヘニングセンのPHランプや大橋晃朗のハンナン・チェア,山中俊治のオリンパスO-productなど,主に日本のプロダクトデザインの名作を集める。デザイナーの解説,同業者の批評などはよく見られるが,制作に関わった人たちの意見が多く掲載されており,興味深く読める。図版は全部シロクロだけど,その分価格が安い。以前OZONEで開催された展覧会のカタログを増補したもの。
三原昌平編『プロダクトデザインの思想 vol.1』ラトルズ,2003
を読む。
小学6年生に携帯電話と包丁をデザインさせる課外授業。
プレゼンテーションでは,厳しく追い込んで新しいアイディアを出させる。
よく話すのは「橋をデザインするときに,橋をデザインしてくださいというふうな頼み方はしないでほしい」ということです。どういうことかというと,デザインとは,川を渡る方法論です。(中略)さまざまな角度から川を渡る手法を考える。それがデザインなんです。
(一回目のプレゼンを終えてのインタビューで)
やっぱりみんなはデザインのことを「工夫する」というふうに受け止めていた。
を読む。
近年,人気の古武術身体操法ものである。私もいくつか読んでいるが,有名になった桐朋高校バスケ部のコーチらによって直接書かれた本書は実践の事例集である。
いろいろ興味深い事例があがっており,私も来るべき第3回A-Cupへむけて身につけていきたいと思うのだが,なかでも簡単でかつなるほどと感じられたのは,p196にある「正しい前屈のやり方」だ。身体が硬い人は前屈の時に背中を丸めてしまう。これではダメで,正しくは股関節のところで折り曲げなくてはならないのだそうだ。このイメージをつかむためのトレーニング方法である。
まずしゃがんで足首をつかむ。そのままゆっくりと膝をのばしていく。腰があがるにつれて,股関節で折れ曲がるという感覚が体感される。私は身体が硬いので(脚も長いので)膝をのばしきることはできないのだけれど,それでもイメージはよくわかるようになった。
スポーツライターがまとめているのだけれども「肋骨を潰す」とか「膝を抜く」とか,読むだけでは全然イメージできない言葉遣いになってしまうのは類書と同じで,いたしかたないところか。写真は豊富だが,せめて動画ならもっとわかりやすいだろうに,とおもわれる。
本当は,ちゃんとしたコーチに教わるんでなくちゃダメだろうけどね。
『建築家たちの20代』 の中国語版が台湾で刊行されました。
を読む。
ブログの概要+ソフトウェア取扱説明書にすぎない類書とはまったく異なる,ウェブログという社会活動についての実践的考察。幻想ではないリアルな示唆に富む。
日本語なら「読者」であろう存在が「オーディエンス」と呼ばれていること,ブロガーのプライバシーに関して「子供達を守る」(p189)という視点が提示されていること,などが印象に残る。
レベッカ・ブラッド『ウェブログ・ハンドブック—ブログの作成と運営に関する実践的なアドバイス 』yomoyomo訳,毎日コミュニケーションズ,2003
を読む。
2003/12/28のエントリでも触れた,自宅を「記憶する住宅」として「ITリフォーム」した記録。リフォームのノウハウ本のような顔をしているが全然そうではない。
美崎が実行するひとつひとつの方法は素朴で単純だ。天井裏や床下,つまり建築の「ふところ」にケーブルや機材を埋設する。それだけといえばそれだけなのだが,それをひたすら愚直に徹底してやっている。その徹底ぶりに,ほとんど(いい意味で)不気味といってもいい迫力が生まれている。
建築家もまた,神経症的な過剰さをもって建築の仕上げにこだわることがある。だが,そのようにして作られた建築に,まったく無造作に諸機器が設置されてしまうこともよくある。台無しだ。台無しにするユーザも悪いけれども,それは当然予想されることなのだから,その程度で台無しにされる建築も脆弱にすぎるのである。責めを負うべきは建築であろう。
さらに驚嘆すべきなのは,巻末にわずかに示される「記憶する住宅」のコンテンツ作成プロセスである。「かつて筆者が見たことのある紙情報をすべて,いっさいの判断を行わず,小学校の教科書からノート,試験の答案用紙,ラブレター,雑誌,チラシに至るまで,なにもかもデジタルスキャニングして取り入れて」いるとこともなげにいい,それが刊行時には41万枚になっており,さらに「筆者がこれまでに眼にした紙の総数は,およそ200万枚程度になる」ことがわかってきたなどと,言うのであった。
これほどの規模の画像データベースを死蔵するのでなく有効に管理することは,もちろん容易ではない。美崎は,従来のコンピュータの方式ではだめで,必要なのは「もっと日常的な,カレンダーとか手触りとか書棚とかを意識した構造」だという。この「カレンダーとか手触りとか書棚とか」という一節に見られるカテゴリの混乱が興味深い。ツルツルのディスプレイ画面をにらむのとはまったく異なるインタフェイスデザインが現れてきそうな感じがする。
こんなのはどうですか,と私から言えたらいいんだけれど。
美崎薫『デジタル空間ハウス—夢が現実になった!電脳住宅 』ソフトマジック,2003
をテレビで見た。ふと付けたらちょうど始まるところで,なんとはなしに見はじめて最後まで。ここまでグロテスクになれるのか,ベティ・デイビス恐るべし。ジョーン・クロフォードも素晴らしい。
ステージあるいは銀幕の恍惚を忘れられない女,というのはよくあるモチーフ。
男だとこうはならないような……そうでもないか(苦笑)
ミシェル・フーコーはリベラルになるのをいやがるアイロニストであるのに対し、ユルゲン・ハーバーマスは、アイロニストになるのをいやがるリベラルであるリチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯—リベラル・ユートピアの可能性 』齋藤純一ほか訳
言い得て妙なんで,読んでいて吹き出しそうになった(笑)
竹田青嗣『現象学は思考の原理である 』ちくま新書393,2004で紹介されていた。引用元は未見。読みたくなった。
を読む。
矢田部氏は身体技法や姿勢の研究から,椅子の設計をはじめた人。その椅子は,氏のwebサイトCorpus | コルプスでも詳解されている。この椅子については,様々な「椅子本」で紹介されているのを読んだおり,姿勢の研究から入るアプローチのユニークさから注目していたが,単著にまとまったのを見つけて早速入手。人間工学と禅の姿勢理論の違い,服飾様式と姿勢の関係,とくに帯の姿勢保持機能など興味深い。
「正しい姿勢ひとつ取れないで,自分の身体を自由に使いこなす努力もしないで,どうして心地よい椅子など作ることができようか」
機会を作れず氏の椅子を試すことは未だかなわないでいるが,いつか試してみたいと改めて思う。
矢田部英正『椅子と日本人のからだ 』晶文社,2004
を読む。
津野海太郎だったと思うけれど,パソコンのアプリケーションソフトは書物と同じで,それを使うことで作者らの思想を読み解いていくのが面白いのだ,というような説を読んだ。言い回しは全然違うと思うけど,そんなようなことであった。
それまで毎日のように新着オンラインソフトをチェックし,ちょっと使ってはなるほどなぁと言ってハードディスクの肥やしにし,バージョンアップしたとあれば前回のテストから一度も起動していないにもかかわらずすかさずアップデートし,環境設定やらメニューやらいじり回してまた肥やしに戻す,というようなことを繰り返していた私は,この「アプリ=書物」説に完全に共感し,そうなのだ,俺は「本」を読んでいるのだ,これでいいのだと自信を深めたのであった。そして,いまでも同じように新しもの好きのダウンロ〜ドやらマック アップ サーチを飽かず日に何度もチェックしている。Macを使っているのは,こっちのほうが面白い「本」があるように思うからでもある。
さて,横尾のこの本は,いわゆる「LaTeX入門」とは全く違う。いうなればLaTeXというソフトウェアに対する「書評」である。そして,LaTeXに込められたクヌースの思想に共鳴しながら,返す刀でうすらぼんやりとした論文のようなものを書いてよこす学生たちを斬りつけている。こんなデタラメな書き方じゃダメだ,LaTeXを見てみろ,というわけである。
論文は明快な構造をもっていなければならないという著者であるが,錯綜した構成を与えられた本書はおそらくは論文ではないということなのだろう。
横尾英俊,LaTeXユーザのためのレポート・論文作成入門 ,共立出版,2002
を特集した建築文化2004年4月号が出ています。
建築文化WEB
山中新太郎さんの「現代の住宅とは「そもそも,住宅とは」と問わないことによって建築の可能性を拡張しているのだ」(p.97)とか,勝矢武之さんの「つくり手の提示する模範的な分かりやすさは,同時に住み手の可能性を摘み取る諸刃の剣にもなりえるのだ」(p.114)とか,どの記事もおもしろい。
本江も96ページに拙文「ケータイはリモコンであり,住宅はタイマーである」を寄稿しています。誤植がひとつ。p.96中段9行め。×「物置」→○「装置」。ちょっと笑った。
を読む。
石田英敬『記号の知/メディアの知—日常生活批判のためのレッスン』東京大学出版会,2003
著者自身による解題ビデオ:iiV Book Lounge
前半は記号論の教科書。パース,ソシュール,ヤコブソン,シャノン,マクルーハン。
中程は少々たるむけどケーススタディ。建築=場所,都市=?,欲望=広告,身体=権力,スペクタクル=象徴政治,いま=テレビ。(等号でむすぶのはあまりよい整理ではないかも)
最後,ヴァーチャルとサイバースペースの章はおもしろい。
ひたすら記号があるだけの世界。記号が二重に記号化されている世界。
「コンピュータを媒介手段としたコミュニケーション技術によって,世界の意味の経験が成立する条件は,大きく変化しつつある(石田p320)」
石田は,サイバースペースは〈ポスト・ヒューマンの問い〉をもたらすという。
「〈人間〉という形象において統合されていた,世界の経験とそれに意味を与える表象作用との関係が,もはや〈人間〉という統一体を経由しなくなっているのではないか」(石田p357)という問いである。カントの「経験的−先験的二重体」やハイデガーの「現−存在」としての人間が統一体としての〈人間〉だ。
本江は上記の問いには「ま,そうだろうな」と考える。
その時になお,身体性に立脚する建築の立場から環境情報デザインのようなことを問題にしようとするのは何故かと自問。
原理的にはポストヒューマンが開かれつつあるのだとしても,それでも身体はあるわけだし,身体性に立脚することで多くの合意が可能な環境をデザインできる。あくまでプラグマティックに有効。というのがさしあたりの回答か。ただ,その辺がビミョーだと思っているからこそ,煮え切らない環境情報デザインなどと口にしているのではある。
石田はまた,パースのアブダクション(abduction)=仮説形成という概念を重視する。
これは帰納(induction)とも演繹(deduction)とも違う推論形式である。アブダクションという推論形式とは,「事実から抽出できる一般則や前提としうる一般則をもたず,それ自体としては根拠を持つことはない仮説を立てることによって,前提にある事実を説明するような推論」であり,「それ自体は実定的根拠はないが,そのように仮設するとすべてがうまく説明でき,問題を解くことができるようなフレームを仮説として形成すること」である(石田p.354)。
パースが使っている例としては,内陸部で魚の化石が発見された時,この現象を説明するために昔はここは海だったのだと仮説をたてると,事態が了解される。これがアブダクションである。
「サイバースペースでは,ある世界がなぜ一定の規則的構造をもっているかということについては,その世界が,そのルールにもとづいて仮構されたからという以上の理由はない。いうならば,サイバースペースにおいては,すべての世界は仮説としての世界である」(石田p354)わけだ。サイバースペースは「アブダクションの絶えざる発展のプロセス」として展開していく。
だから,たとえばマイケル・ベネディクトが整理した「サイバースペースの空間原理」7か条(石田p348)もまた,アブダクティブなものにすぎない。このあたりなら皆が合意できるであろうという「ルール」がプラグマティックに設定されているにすぎない。
ちなみに,
マイケル・ベネディクト「サイバースペースの空間原理」
- 排他の原理 principle of Exclusion
- 最大排他の原理principle of Maximal Exclusion
- 不偏の原理principle of Indifference
- スケールの原理principle of Scale
- 交通の原理principle of Transit
- 個人の可視性の原理principle of personal Visibility
- 共通性の原理principle of Commonality
(石田p348から孫引き)
しかし,プラグマティックな設定にすぎないからといって,無効だということにはならない。
「〈意味経験の一般性〉の地平から問いかけるような一般学は依然として有効であり,かつ必要である」。なぜなら「人間にとって,意味はけっして一元的な事象ではなく,つねに複合的で多次元的な人間の活動であって,それについて私たちはつねに仮説的に漸近するしかない」からだ。(石田p361)
この時の石田の姿勢は,ほとんどデザイナーのそれといってもいいように思われる。デザインのプロセスは否応なくアブダクティブでプラグマティックであるからだ。
また,「意味環境としての人間の文明は,〈記号〉・〈社会〉・〈技術〉という三つの次元のトポロジカルな相互連関において理解される」として,「〈記号〉と〈技術〉が結びつき,そのことによって〈社会〉がたえず変動し続ける世界」として今日の文明の状況をとらえる(石田p361)。これは「情報社会」の定義としてはとてもよくできていると思う。
ただなにしろ4200円なので学生は買いにくいけど,これが教科書になっている講義はきっと面白いだろうなぁ。
を読んでる。
西垣通『基礎情報学—生命から社会へ 』NTT出版,2004
情報とは「生命体にとって意味作用を持つもの」だという西垣の基礎情報学は,意味を捨象するシャノンの理論とは違うところから始める。オートポイエーシス,ルーマンの理論社会学,ホフマイヤーの生命記号論,ドブレのメディオロジーなどが援用される。
西垣によれば「情報」はより厳密には,次のように定義される。
情報とは,「それによって生物がパターンをつくりだすパターン(a pattern by which a living thing generates patterns)」である。(西垣p27)
『記号の知/メディアの知』でも取り上げられていたけれども,パースの記号論がここでも重要だ。
を入手。なんともあっさりした本。2,200円。
西研『 哲学的思考—フッサール現象学の核心 』(筑摩書房,2001)のあとがき(まだ本編は読みはじめてもいないので)に書かれていたヘーゲルの「ニヒリズムへの対抗策」は,私が好きでよく人に話す西村佳哲の『自分の仕事をつくる 』(晶文社,2003)の冒頭にある「こんなものでいい」のエピソードとつながるものであった。
西村は,裏面を仕上げない安物の家具,ペラペラな建具の建売住宅,広告ばかりの雑誌,水増ししたテレビ番組のような「『こんなもんでいいでしょ』という,人を軽くあつかったメッセージを体現している」仕事に囲まれて我々は生きているが,「『こんなものでいい』と思いながらつくられたものは,それを手にする人の存在を否定する」と憂う。しかし「多くの人が『自分』を疎外して働いた結果,それを手にした人も疎外する非人間的な社会が出来上がるが,同じ構造で逆の成果を生みだすこともできる」点に希望を見いだす。(西村, 前掲書p6)
西研は,「ぼくが共有ということにこだわるのは,それが,私たちがいま経験しつつある“世界像の危機”に対抗する,唯一の可能性だと思っているからだ」と述べて,ヘーゲルの『精神現象学』にある〈事そのもの〉という節を取り上げる。
そこには,芸術作品も日用品もふくめた広義の「作品」をつくろうとする個人が登場するという。はじめは自分の作品でそこそこ満足しているのだが,なかなかイメージどおりにはできない不満や,他人の見事な作品に触れたりする経験から,彼の中に「もっといいもの」がつくりたいという欲求が生じ,そこからしだいに「自分が理想としそれをめざすもののイメージが,彼を含む多くの人々の中に結晶してくるのだ」という。ここに共有の契機が開かれる。
人間どうしが「よりよいもの」をつくろうとして互いに競い合い,互いに鑑賞し批評しあうなかで,「だめなもの」と「よいもの」が区別され確かめられる。そういう営みのなかで人間の生の目標となるような価値あるものが信じられる。しかもそこでは,「絶対」の真なるもの・善なるもの・美なるものを想定する必要がない。これがヘーゲルなりの,ニヒリズムへの対抗策だった。 思考の営みも,こうした〈事そのもの〉をめざす営みの一種である。どこかに存在する唯一の正解(大いなる真理)をめざすのではなく,より多くの人を説得しうるような深く原理的な考え方を,言葉の「作品」としてつくりだそうとする努力。哲学を含む思考の営みとは,そういうものだと思う。(西, 前掲書p390)
ちなみにヘーゲルが『精神現象学』を書いたのは約200年前,1807年だ。
ずっと僕らは仕事をして,作品をつくり,それを共有していくのだ。
を読む。
加藤昌治『考具—考えるための道具、持っていますか? 』晶文社,2003
考えるための道具が「考具」。いろんな発想法をとてもスマートに整理したカタログ。
カラーバスとフォトリーディングってのは知らなかった。
Color Bath。Busじゃない。色に浸る。
何か色を決めて,その色のものを探す。普通なら全然関係ないものどうしが,同じ色をしているという一点の脈絡でつながってくる。世界を串刺しにする。
フォトリーディングは,技芸化された斜め読み。全ページをスキャンするようにみる。見開き一秒。人間の認知能力の高さと,漢字仮名まじり文のビジュアル特性を活かす。
一通り読んだ後,「著者への質問を考える」というのはよいな。
積んである本を一気にフォトリーディングでクリアしておくだけでも,書架の価値は相当上がるであろう。(とりあえず書架と書いたが,持っている衣装の総体をワードローブというが,持っている本などの総体はなんというのだ?アーカイブか?)
「あなたにとって最大の問題は,『読んで,分かって,やらないこと』」だという指摘も切実。
公式ホームページ:考具
を読む。私はこういうノウハウ本が結構好きなのだ。
ポール・R・シーリィ『あなたもいままでの10倍速く本が読める 』神田昌典監訳, フォレスト社, 2001
『考具』で紹介されていたフォトリーディングの本である。
原題は"The PhotoReading Whole Mind System"とあって,フォトリーディングだけを取り上げるのは,妥当ではない。準備して,プレビューして,フォトリーディングして,(脳でねかせて,)アクティベーションして,高速リーディングする。これで一式だ。
最も重要なのは読書のパラダイムを変える,という点である。「一字一句ていねいに読む」ような小学生的読書をやめ,明瞭な目的意識をもって,本から情報を取り出すのだ,
そんな風にしか読んでもらえないのは,書き手としては少々寂しいけどな。
を読む。
渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ—筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち 』北海道新聞社,2003
生々しくて壮絶なルポルタージュ。障害者本人も,周囲のボランティアにとっても,普通であることは困難だ。ユニバーサルだとかノーマライズだとかバリアフリーだとか,やはりカンタンには言えないなぁと思ってしまうが,かといってことさらに困難さを強調することもまた,慇懃な差別の再生産ということになってしまうんだろう。
を読む。
西垣通『こころの情報学 』ちくま新書,1999
西垣の,『基礎情報学:生命から社会へ』に先立つ本。新書の簡便な体裁だが『基礎情報学』に通ずる道は示されている。
『基礎情報学』で,アフォーダンス=実体概念としての情報とオートポイエーシス=関係概念としての情報の矛盾について,
「しかし,実はこれは表面的・用語的な相違にすぎない。より深い次元では,アフォーダンス理論と基礎情報学とはむしろ共通点も大きく,相補うのである。詳しくは西垣通『こころの情報学』(ちくま新書,1999,pp150-164)を参照。(『基礎情報学』p61注12)
とあったので,これを読んでみた。(ていうかとりあえずフォトリーディングしてみた。こういう読書の場合は,目的がクリアなのでフォトリーディングむきなんだろう。)
を読む。
後藤繁雄『僕たちは編集しながら生きている 』マーブルトロン,2003
編集者・後藤繁雄(いちいち挙げないけど,聞けばああアレやった人なんだぁって人だ)の編集教室「スーパースクール」の講義録。具体的なワークショップのネタが回答例とともにいっぱい紹介されていておもしろい。
中西正司, 上野千鶴子『当事者主権 』岩波新書 新赤版(860), 2003
を読む。
これは,事業体として非常に大きな成果を挙げてきた障害者の自立生活センターの事業を具体的に紹介している。
この「自立」の意味,パラダイムを転換した点が重要である。普通考えられているように「だれにも迷惑をかけずに,ひとりで生きて行くこと(p7)」が「自立」なのではない。「自分のニーズは自分で決める」ことが「自立」であって,「そのニーズを満たすために他人の力を借りなければならないからといって「自立」していないとは言えない(p8)」というわけだ。だから,介助無しでは夜を越せない『こんな夜更けにバナナかよ』の鹿野氏であっても「自立」しているといっていいのだ。
さて,私的には,「当事者」という概念については,まちグラフィティ研究会でお世話になっている三菱総研の入江さんらの論文「当事者性を持ったコミュニケーション空間実現のための携帯電話・Web-GIS連携に関する一考察」(公開準備中のはず)のドラフトで読んで以来,環境内存在であるところの我々は,その内部から環境のデザインを行なうよりほかないということと関連づけて考えたいと思っているところ。環境デザインは否応なく当事者性と向き合わざるをえない。
「当事者」と対比されるのは「専門家」である。
を読む。
小林昌平・山本周嗣・水野敬也『ウケる技術 』オーエス出版,2003
「ライ麦畑の会話術−幸せになる話し方のためのブックガイド」の書評にあった「笑っていいというシグナルをどうやって構成するか」が書かれているという指摘に尽きている。
この作者の水野氏,次はこれ。
『オシャる技術』
ワードローブありきで次の服を買うために,人はダサさの悪循環「ダサイクル」から抜け出すことができない。この悪の連鎖を断ち切るために,手持ちの服を全部燃やしたという。
なるほどなぁ。たしかにそうかもなぁ。それはやってみてもいいかもなぁ。
を読む。
植田実『集合住宅物語』みすず書房,2004
同潤会から代官山まで,首都圏の代表的な集合住宅を訪ねた記録。『東京人』の連載をまとめたもの。集合住宅をキャスティングして語られる東京の歴史物語ってところだ。
写真は鬼海弘雄。これがとてもよい。住んでいる状態での家具やしつらいの写真(かなり片付けているようにも見えるが)が多くあり,いわゆる建築写真ではない。夕方の,低い色温度で撮影されていて,対象の濃密な気配を見て取れる迫力のある写真であって,それだけでも楽しめる。昨今建てられている建築が,このような気配を獲得することはないと思われる。もちろんまた違う気配を持つのだろうけれども,こういうのではないだろう。
同じ著者に『アパートメント—世界の夢の集合住宅 』(平凡社,2003)というのもあり,体裁は異なるが姉妹編といえる。こちらの写真は平地勲。鬼海に比すればさっぱりしているが,住民はじめ人が映った写真が多く,これはこれで隅々まで見られて楽しい。
住宅は人が住んでナンボなので,引き渡し後をフォローしたこういう仕事をもっともっとみてみたいと思う。住宅に限らず,公共建築やオフィスビルでも同じような試みができるのではないかなあ。
ところで,私はこの本を,仙台のダイエー泉店のむかいにある八文字屋で購入した。郊外型のわりと大きくて専門書も扱っているが,まぁ普通の書店である。しかし,ここになんと「みすず書房コーナー」があるのである。しかもかなり大きい。明らかに場違いな品揃えだといってよい。なぜこのようなものがここにあるのかわからないが,私は仙台市民として,この八文字屋の「みすず書房コーナー」をぜひ応援したいと思い,今後,みすず書房の本はなるべくここで買うことにしようと決めた。amazonにリンクしない由縁である。
を読む。
後藤武,佐々木正人,深澤直人『デザインの生態学』東京書籍,2004
豊富な話題,親切な用語集,過不足ないブックガイド。よくできた「教科書」だ。
アフォーダンスとはわかったりわからなかったりすることである。(佐々木,p247)とあり,おお佐々木先生もそうなんですかぁと嬉しく共感する。
p92に,「西山浩平さん」のエントリで触れた「オブザヴェーション」についての解説もある。
を読む。Passion For The Futureで絶賛されていたので手にとった。
樋口裕一『人の心を動かす文章術 』草思社, 2004
「私ほど下手な文章を大量に、しかもじっくり読み、たくさん添削指導した者はいないだろう」という筆者は,予備校や通信教育で20年以上にわたって6万編におよぶ小論文の添削指導を行なってきた人である。本書にはその添削の実例集が載っている。添削の前後で見事に文章がよくなっている。赤ペンの指摘も端的で的確だ。(私も職業柄こうした添削をやるが,こう鮮やかにはできない。添削術も学びたい。)
若者の驚くべき作文能力のなさを悲惨な実例をあげつつ憂い,「日常生活に支障があるほどに文章を書けない」人が多くいる現状を,日本の作文教育の問題だと指摘する。ろくな指導もなしに行事や読書の感想文を書かせておしまい。早稲田の第一文学部を皮切りに,作題や採点が難しい小論文入試の廃止が相次いでいる。教育の場において書くことの大事さが十分に理解されていないことにも問題があるが,それ以上に「作文をテクニックとして考えない態度」が問題だという。日本には,物事をテクニックとして捉えることを好まない風土があるというのだ。
こうして,書き方のテクニックを教えず,個性を出すためのテクニックも教えず,「作文はその人のありのままの姿を現すものだから,飾らずにありのままの自分を書け」という作文教育がなされることになる。文体を飾る,文章の遊びをおこなうという,まさしく文章のテクニックを習得させることを拒み,ある種,精神の修養として作文が位置づけられている。「遠足は楽しかった」「交通ルールを守ることがだいじだ」といった人間としての成長を書くのが作文だとみなされている。
その結果,「個性的に書け」という掛け声とは裏腹に,みんなが同じような道徳的な作文を書いてしまう。稚拙な文章が「子どもらしい」ということで評価されることになる。(p31)
問題の中心は,身もふたもないほどに「テクニック」である。トーンこそ全然違うけれども,その姿勢には『ウケる技術』と通じるものがある。属人的とされてきた技を体系化して列挙し,脱神秘化する。
たとえば,文章にはメリハリが必要であるとし,そのためには以下の五つのテクニックがあるという(p159)。
- 遠景と近景を使い分ける
- クローズアップとスローモーションを用いる
- 短い文と長い文を使い分ける
- 漢字・カタカナなどの使い分けで雰囲気を変える
- 会話で気分を変える
また,「読み手に雰囲気を感じさせるための,とっておきのテクニック」として,心理描写のかわりに,単に情景を描写する方法が示される。「わが家で14年間ともに暮らしてきた愛犬のタロウが死んだ。私はずっと庭にある犬小屋を見ていた。雨が庭の木をぬらして,犬小屋に伝わっていた」というように。「あまり多用すると嫌みになるが,ここぞという箇所でこの手法を使うと文章全体が生きてくることがある。上手に使ってほしい。」
「テクニック」は,それだけを取り出して人から示されると拍子抜けするようなものである。あからさまで身もふたもなく,簡単で,なんだか馬鹿みたいなんである。しかし,自然に「テクニック」が使えるようになるには地道な「練習」が必要だ。筆者は「自転車を練習するのと同じくらいの労力と辛抱を惜しみさえしなければ」文章は書けるようになるという。
だからちゃんと本書には各章末に練習問題がついている。でもこの問題だけじゃ自転車に乗れるようにはならない。もっともっと練習しなくちゃならない。その労力と辛抱を惜しまないようにするためにはどうすればいいんだろう。
自転車は乗れるとすごく楽しい。あ,乗れた,って自分でよくわかる。
文章も自転車と同じように,ある時ふいに,あ,書けた,って感じられるものなんだろうか。
私は大学でデザインを教えている。デザインに,あ,できた,って感じられる瞬間はあるか,と聞かれれば,そりゃあるさ,と答える。答えるけれど,その瞬間に到達するために,どれほど労力と辛抱が必要かを測定するのは本当に難しい。
問題はテクニックである。それにはまったく同意なのだが,テクニックを知ることと身に付けることとの間には大きな懸隔がある。テクニックを身につけさせたい教師として,自らもテクニックを身につけたい学習者として,その懸隔の深さと広さを思う。いつの間にか降り出した雨が,研究室の窓を濡らしていた。
休日出勤なのだ。
を読む。
西 研『哲学的思考—フッサール現象学の核心 』筑摩書房, 2001
この本はあとがきがおもしろくて,そのことだけはすでに「仕事,作品,共有」に書いた。仕事をして作品を作り,それを共有していく。
私にとっておもしろかったのは第6章「科学の成果をどう理解するか——生活世界と学問」だ。
フッサールは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』で,幾何学や物理学の成立過程を論じながら,「具体的な現実の日常的世界を基盤として学問が成り立つ」こと,つまり諸学問の生活世界への還元をおこなう。さらにもう一段「超越論的還元」によって「学問の客観性(信頼性,普遍妥当性)の意味と根拠とをできるかぎり深いところから理解しよう」とする(のだそうだ。私は読んでません。)
還元一段目にあたる,諸学問の生活世界への還元,はだいたい以下のようなことだ。
を読む。
瀧口範子『行動主義—レム・コールハースドキュメント 』TOTO出版, 2004
コールハースの追っかけ本。さくさく読めます。周囲の編集者や模型屋,研究者のインタビューもおもしろい。ブルース・マウも入ってればなおよかったな。
それにしても忙しいコールハース。アポが取れない筆者の苦悩が繰り返し吐露されます。とにかく忙しいのが好きで,そういうのに憧れている血圧の高い人は萌えるでしょう。私は正直ちょっと引きました。引きましたが,建築ってのはおもしろそうだぞ,と改めて思わされる本でありました。やっぱコールハースすげー。
以下,おもしろかったところの抜き書き。
を読む。
宣伝会議編『紙とコスト—COST:VALUE 』宣伝会議,2003
竹尾ペーパーショーのために作られた本。紙にむけてよせられた工夫の数々を紹介する。すぐれたパッケージデザインを紹介しつつ,そのパッケージが商品の上代価格の何%を占めているか(虎やの羊羹1.5%,MONO消しゴムのスリーブ6%),パッケージの面付けから紙の有効使用率はいかほどか(グリコカフェオーレ90%)なんてのもおもしろいし,特殊なプロダクトのために開発された紙(預金通帳専用紙,ダーマトグラフの巻紙)なども感心しながら読めた。文章が観光広告リード風で少々鼻につくが,述べられている事実は面白い。
さて,牛乳のパッケージ。直方体のは「ブリックパック」,四面体は「テトラパック」。
では,日本でもっとも一般的な,端部を開いてから中蓋をめくり出すタイプのは何パック?
を読む。
マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』高橋勇夫訳,ちくま学芸文庫,2003
新訳。佐藤敬三訳が定番だが,以前はうまく読めなかった記憶がある。訳が悪いというのではなく,そのころはまだ私にとっての機が熟していなかったのだろう。今度はわりとしっくりさっくり読めた。そういうことはよくある。でも無理してでも読むことが無駄ってことではない。
原題は"The Tacit Dimension"。暗黙のうちに知っていること。
われわれは顔をみれば誰かわかるが,どのようにしてその人だとわかるのかわからない。
「私たちは言葉にできることより多くのことを知ることができる。分かり切ったことを言っているようだが,その意味するところを厳密に言うのは容易ではない。(p18)」
本書は三部構成である。第一章 暗黙知,第二章 創発,第三章 探求者たちの社会。「探求者」とは科学者のことである。ポランニーは,暗黙知が,科学的探求の原動力となり,より高次の意味を志向するダイナミズムを生みだすという。
さて,私のゼミでも卒業研究にむけての研究テーマの検討がなされている。私のところでは研究室をあげてのシステマティックな研究をやっているわけではないので,私は,君はこれをやりたまえ,ということはいわない。学生が自分でどんなことを研究するか考えないといけない。
研究を行なうには,妥当な問題を立てることが必要である。しかも,独創的な問題を立てる必要がある。大学の研究指導教官はみな学生にそういうであろう。まず問いを立てよ,と。
を読む。
齋藤孝『座右のゲーテ:壁に突き当たったとき開く本』光文社新書,No.150, 2004
ゲーテってのは偉大であるな。
「宮廷生活は,音楽に似ている。めいめいが,拍子と休止を守らなければならない。
宮廷の人びとは,退屈のあまり死んでしまうにちがいない。もし,彼らが儀式によって時間をつぶすことができなければ。(p132)」
齋藤孝は,ゲーテについてアレコレ語る「近所のしゃべりたがりのおっさん」の役回りにすぎない。もちろん,わかってやっている。ありがとう齋藤さん。
だから本当に読むべきはこっちだ。
を読む。
西野嘉章『ミクロコスモグラフィア マーク・ダイオンの[驚異の部屋]講義録 』平凡社,2004
平成14年12月から翌3月にかけて,東京大学総合研究博物館小石川分館で開催された展覧会「ミクロコスモグラフィア」の記録である。
巻頭にカラー図版がある。東大にある学術標本の数々を,美術家マーク・ダイオンがインスタレーションを行なったのがこの展覧会だ。ひとつひとつの標本の説明はなく,8つに分割された部屋ごとのテーマに即した展示がなされている。実にすばらしい。この展覧会を見逃したのは一生の不覚だ。
を読む。
パトリシア・ウォレス『インターネットの心理学 』川浦康至訳,NTT出版,2001
Patricia Wallace, The Psychology of the Internet, Cmabridge University Press, 1999
いろんなところで,いろんなふうに語られていたような,ネットの心理学の教科書的総覧。スリリングな話は出てこないが,綿密に分かりやすく,事例を豊富にあげながら説明されている。訳者もあとがきで述べるように本書は「インターネット上でみられる人々の振る舞いを,心理学とりわけ社会心理学の基本的,すなわち評価が一定程度定まった概念で解き明かそうとする」ものであるから,「その意味で,インターネットを題材とした(社会)心理学のテキスト」でもある(p323)。新しいインターネット世界もまたこれまでの社会を作ってきたのと同じ人間の所産なのだから,両者は地続きであるというわけだ。
を読む。
佐々木正人,三嶋博之編訳『アフォーダンスの構想—知覚研究の生態心理学的デザイン 』東京大学出版会,2001
様々な研究対象をもったギブソニアンの論文アンソロジー。古いのは1933年のものから,1996年のものまで,6編が解説付きで載っている。訳者等による解説がそれぞれとてもいいので,まず解説から読むのがいい。
アフォーダンスってものが,いまだにすんなりと肚に納まらないので読んでいるのである。『デザインの生態学』を紹介したときにも書いたように,アフォーダンスは,わかったりわからなかったりする。これを読んで,わかるようになったかというとそうではない。読みながらも,わかってきた気がしたりさらにわからなくなったりした。しかし,アフォーダンスという概念の厚みは感じられた。
を読む。
佐々木正人『レイアウトの法則—アートとアフォーダンス 』春秋社,2003
アートやデザインの領域と,アフォーダンス理論の領域とが,どのようにラップしうるのかを,対談やエッセーを通じて比較的カジュアルに書いた本だ。だから,デザインのことを考えている人にはとっつきやすい。建築関係なら,塚本吉晴との対談などもなるほどうまいこというなあなどと感心しながらサクサク読めてしまう。けれども,さらにもう少し踏み込んで呑み込んで考えようとすると,とたんに分からなくなってしまう。そういう種類の本だ。少なくとも今のわたしにとっては読むのがとても難しい本だった。
いつか,こんなようなことが,もっとスンナリと私の肚に納まるようになって,「アフォーダンス」のことを書く機会があれば,この本にちりばめられているたくさんの気の利いたフレーズを引用することができるだろうと思う。線もたくさん引いておいたし。でも,まだ難しい。有り体に言えば,経験不足なのだな,オレは。
「相撲と無知」と題された章で,佐々木は次のように書く。
三年ほどかけて靴下と魚を見てきた。物と身体とでどれほどのことが生じているのかについて,少しは知った思いである。ここまで書いてきたようにまとめてしまうと,行為を知るために何か一つの方法が用意されているように思われるだろう。しかし,逆である。物と行為を見れば見るほど,それらで起こることを方法に定着させることの困難を知る。
何せ,物と行為がつくりだす組織は知りえないことを餌にしている。身体に分割されていく物にも,物に分割されていく行為にも,そしてそれらが作り出す組織にも,その一回の行為でしか扱われないことが常に現れる。それが知りえないことである。その知り得ないことを,「無知」とよぶことにする。無知に行為は頓着せずに,果敢に物に挑んでいる。行為はそのようにしなければどの物も扱うことができない。というか,行為のエンジンは無知を燃料にしている。おそらく行為が知っていることの中心のことは,物など十全に知ることはできないということである。(p.201)
「無知に行為は頓着せずに,果敢に物に挑んでいる。」
を読む。
境敦史,曾我重司,小松英海『ギブソン心理学の核心 』勁草書房,2002
吉橋昭夫さんに教えていただいた本。ギブソンの個人史と知覚心理学の学説史を重ねながら,ギブソンが提示した「アフォーダンス」という概念を厳密に理解しようとする。なかほどの学説史の部分は正直いって私には読みにくかったが,序のアフォーダンスに関する○×クイズや第5章「『アフォーダンス』とはどういうことか」などは,非常に端的に書かれており,なかなか呑み込めずモヤモヤしていた部分はかなりくっきりする。
ギブソンがわざわざ造語をしなければならなかった理由にこそ,アフォーダンスを理解する鍵がある。それは,
「生活体と環境との相互依存関係」を的確に言い表す言葉が存在しなかったからである。従って,「生活体と環境との相互依存関係」を問題にしない文脈で「アフォーダンス」の語を用いることは,不必要であるだけでなく誤りでもある。(p.165)
p.161からのドナルド・ノーマンによる「アフォーダンス」私説への批判は明快。
最も根本的な問題は,ノーマンが次のことを理解していない点である。即ち,アフォーダンスとは,"どのような可能性があるかということを教えてくれ"る「物」ではなく,「生活体との相互依存関係において事物(環境)が持つ可能性そのもの」だということである。(p.161)
とはいえ,ノーマンが『誰のためのデザイン?』で指摘したことの有用性が失われてしまうというものではない。吉橋さんのブログの「‘作る’前に大切な...」のコメントにも書いたのだが,学問的にそれは「アフォーダンス」ではない,と断ずるのはそれはそれで正しいけれど,一方で,こういう時に「アフォーダンス」という言葉を借りて言いたかったこと,アフォーダンスって概念を知って「それだ!」と思った何か,があるわけで,それに何か適当な名前を与えられないものだろうか,という新しい課題は残るのである。
を2冊続けて読む。3冊目も出たらきっと読むだろう。
パコ・アンダーヒル『なぜこの店で買ってしまうのか—ショッピングの科学 』鈴木主税訳,早川書房,2001
パコ・アンダーヒル『なぜ人はショッピングモールが大好きなのか 』鈴木主税訳,早川書房,2004
筆者は小売業のマーケティングコンサルタントである。彼らの基礎技術は,顧客行動の徹底的な観察だ。「小売りの人類学者」と呼ばれる由縁である。本書2冊は,ショッピングにおけるユーザ体験と,それをもたらすリテール環境のデザインの非常に優れた事例集になっている。
前著の第18章「店舗診断法」に,書店を例とした素人の店長にもできる観察のプロセスが8ステップにわたって書かれている。町並みと店構え,看板,ウィンドウ・ディスプレイ,カゴの置き方,放置されたカレンダー(「八月に来年のカレンダーを買う人がいるだろうか。」),告知のチラシ,会計/包装コーナー,平積みの仕方,書架の表示板,本棚の配置,低い段の本,椅子,ベストセラーや書評に取り上げられた本のリスト,等々。街路空間のレベルから店内のサイン,その空間的配置から待ち時間の処理まで,様々なスケールと時間と空間にまたがる視点から,お客さんのショッピング体験が観察され,問題点が記述され,改善が提案される。「ショッピング」という分かりやすい行為を軸として,環境情報デザインの諸問題が巻き取られているように思われた。
方法論的には,徹底的な観察の威力をあらためて感じた。調査結果を計測可能にするには,アンケートもいいのだが,その集計結果は仮説を裏付ける根拠とはなりえても,なかなか発見をすることはない。ユーザ体験の現場を虚心に観察することから発見がはじまるのだろう。
を読む。
パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座 』イーストプレス,2004
少年の凶悪犯罪が増えている。昔の日本人は勤勉だった。少子化のせいで年金制度が崩壊しそうだ。イギリス人は立派で日本人はふにゃふにゃだ。欧米の若者は自立していて,日本の若者はパラサイトしている。等々。
社会学が指摘し,いまや常識だと思われている話が,いかに飛躍した論理と根拠のない思い込みによってできあがっているかを笑いのめす。ゲラゲラ笑いながら読める。もちろん「社会学」は間違っていて「反社会学」が正しいのだ,という盲目的態度に陥ると同じ穴に落ちる。メディア・リテラシー論というわけだ。
筆者は「悲観主義者というのは,ひきょうなんです」という。悪いことが起きるぞーと騒ぎたて,それが本当になればそれ見たことかといい,実現しなくても備えあれば憂い無しだったなどという。どっちに転んでも傷つかない。「悲観主義者は常に逃げ道を確保しているズルい人たちなのです」。対して楽観論者は悪い結果の場合には指弾されることをまぬかれない。「楽観論者こそ自説に責任を持たざるをえない。(p.272)」
悲観主義はデザインを実践することができない。デザインの実践は楽観主義的に行われる。こうやるときっとイイはずさってふうに。その責任はことのほか重いので,筆者の提唱する「人間いいかげん史観(p95)」はとても魅力的に映る。
本書は,書き下ろしを含むものの,大半は「スタンダード 反社会学講座」ですでにオンライン公開されている。こちらには新作や「アフターサービス」もある。
新作の中でも,「反社会学講座 第24回 こどもが嫌いなオトナのための鎮魂曲」が面白かった。
「よいこのみんな、チンパンジーは、なにを食べるかわかるかなー?」 「バナナー!」 「ちがいまーす。チンパンジーは、サルを食べるのでーす」 「ちょっと。やめてくださいよ。こどもたち、ひいてるでしょ」本当です。五百部裕さんの「アカコロブス対チンパンジー」によると、アフリカの野生のチンパンジーは、1年に平均10kgの肉を食べていますが、その5〜8割はアカコロブスという中型のサルなのです。以前NHKで放送されたイギリスBBCテレビの『ほ乳類大自然の物語』でも、チンパンジーがサルを狩って肉を食らう、ちょっとショッキングな光景が映し出されていました。(前掲webページ)
考えてみれば雑食のチンパンジーが肉を食べるのは当然だし,ジャングルで捉えやすい小型のほ乳類はサルなんだろうけど,その光景を想像するとちょっとぞっとしてしまうな。
上記引用部に紹介されているのは五百部裕さんの「チンパンジーのホーム」。
を読む。
ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論—宇宙の意味と表象 』松野孝一郎+高原美規訳,青土社,1999
パースの三項図式の記号論を用いて,「記号過程のネットワーク(p.155)」としての生命を論ずる。西垣通の『基礎情報学:生命から社会へ』のネタ本のひとつ。
第9章の意識論が興味深い。
意識とは身体の実存的環世界を肉体が空間的物語的に解釈したものである。(p.196)
つまり,環世界:sign/意識:object/身体:interpretant という三項図式。
「環世界」はユクスキュルの用語。この意識論は,参考文献にも上がっているが,ノーレットランダーシュ『ユーザー・イリュージョン』(柴田裕之訳,紀伊国屋書店,2002)にも接続する。
やっぱり面白いのはパースだな。
パースは3の人。
を読む。
茂木健一郎『脳内現象 』NHKブックス1002, 日本放送出版協会,2004
「クオリア」の茂木健一郎の本。初めて読む。日記はときどき見たりしていた。
おもしろかったのは,p190ぐらいからの認知モデルの展開のところ。弁証法。
正:通常の認知モデル:観察主体と客体が分離している。
反:すべては自己のうちの擬似的主体による擬似的客体の「メタ認知」だとするモデル
合:「通常の認知のモデルは,このようなメタ認知において仮想的に立ち上がる「客体」(実際には自己の一部である)を,自己の外側に外挿して得られるに過ぎない(p192)」という「メタ認知ホムンクルス」モデル
「メタ認知」が全体のキーワードだが,他にも,「哲学的ゾンビ」や「感覚的クオリアと志向的クオリア」,錬金術ならぬ「錬心術」,「説明されるべき事実」と「事実それ自体」などなど,どれも明日の職場ですぐに使える(笑)キーワードばかりであった。
これを読むと,よくわからないということがよくわかる。よくわかったり,すぐできたり,サルにもわかったりするような,誰かに習えばすむようなことじゃなくて,こういう誰にもまるでわかってないことを悶々と考えるってのが,辛いけど楽しいのだな。
読後感に独特の既視感があり,なんだこれは?とずっと記憶をさぐっていたのだが,栗本慎一郎の『パンツを捨てるサル—「快感」は、ヒトをどこへ連れていくのか 』であると思いいたった。当時としてはそれなりに先駆的にドーパミンなどの脳内伝達物質について触れていた。けっこう興奮しながら読んだ覚えがある。薬学部の友人にドーパミンとかどうなの?って議論をふっかけたような気もする。
で,クオリアとかどうなの?
を読む。素晴らしい箴言集。箴言というと表現が凝っている感じだけど,これはストレートだ。
大橋禅太郎,倉園佳三『すごいやり方 』扶桑社,2004
僕にはとても難しいけれどやれたらきっとすごいと思えたのは,
あ,いま,ちょっとむかついた。だな。やってみるかなあなんていっていると,こういうのもある。
それやるんだ。いつ?
を読む。
平田オリザ『演技と演出 』講談社現代新書 No.1723,2004
演出論であり,コミュニケーション論である。素人向けの演劇ワークショップをなぞる形で展開する。ワークショップ論としても面白い。
「どうして俳優たちは,私の素晴らしい戯曲を,こんなに下手にしか言えないのだろう(p215)」という切実で臆面もない疑問から,平田は,演出家と俳優,そして観客の,気がつけば些細な「コンテクスト」のずれが問題の中心にあることに気づく。「演出家の仕事は,この関係のイメージ,コンテクストを明瞭にしめしていくことであり,俳優の仕事は,そのイメージを的確につかんで,他者との関係を織り上げていくこと(p114)」だという。本書が,コンテクストを摺り合わせること,イメージを共有することを軸とした,コミュニケーション論としての一般性をもつのはこのあたりにある。
演出家に要求される資質として,平田は次の5つをあげる。
世界観
方法論
構成力
説得力
リーダーシップ
(p13)
こんな資質がとりそろった人なんていねえだろ,スーパーマンかよ,と思いもする。
演出家というのは,いつも,簡単なことを難しそうに言って,自分をえらく見せようとする人種ですから,たいてい 「内面の掘り下げが弱い」 とか, 「戯曲の解釈が甘い」 と言って怒りだし,俳優を責めます。(p108)
あるある。ていうか,これって大学の研究指導の話だなあと,我が身を振り返る。建築家やデザイナーの仕事も,まったく同様の面があるだろう。「なんでこんなことがわかんねえんだよゴラァ」とか内心思ってるわけ。時には口にも出す。しかし,こういうときは,言う方も言われるほうも,どうしていいか全然わからないわけで,なかなか状況は打開されず,もう最悪なのである。
こういうとき,「演出家」の仕事は何なのか?
演出家の仕事は,大きく分けて,演劇作品を構成し観客に届けることと,その構成に沿って,俳優の演技を指導することの二つに大別されると考えるようになりました。そして,この二つは,時に一緒になるにしても,論理の筋道としては,混同しない方がいいことにも気がつきました。なぜなら,この混同が,演出家が俳優に対して権威的になる源泉となっているからです。 世界観,構成,戦略なしに,ただ闇雲に方法論だけをかざして,俳優の演技を指導していたのでは,俳優は,なんのための演技なのか,まったく理解できません。しかし一方で,構成や戦略だけを話されて,実際にそれをどう演じればいいのかという方法論や,それを説明する言葉がなければ,俳優は荒野に放たれた羊のように戸惑ってしまうでしょう。そのような集団では,その集団を導く方針がないために,逆に演出家はいたずらに,権威的にふるまいます。 おそらく,すぐれた演出家ほど,構成の力と,それを実現する演技指導の二つのバランス感覚をしっかりと持っているのです。それが演出家にとって,リーダーシップの源泉にもなります。(p216)
「演出家」として言うべきことがわからないとき,権威的に振る舞ってみてもどうにもならない。積極的に一歩引いて,コンテクストのずれがないかどうかを考えてみる。構成と戦略を,具体的な方法論とともに,言葉で説明しなくてはいけない。まったくそのとおりだと思うが,簡単じゃないなあ。
その点,さすが平田の話は具体的な事例と抽象的な議論がバランスよく進む。脱線も多いが,ちゃんとたくさんの情報を含んでいる。平田オリザの本は初めて読んだけど,他のも読む気になった。機会をつくって芝居も見てみたい。
を読む。
平田オリザ『演劇入門 』講談社現代新書 No.1422,1998
『演技と演出 』を読んだので,旧著にさかのぼってみた。両著では話がかなりかぶっているが,こちらは劇作のプロセスを腑分けして説明している。決定すべき事項の順序の指摘は面白い。
まず場所を決め,背景を決め,問題を決める。これは空間.状況,運命と言ってもいい(p80)。
でもって,テーマはあとまわしである。
私の講座(引用者注:平田が開催している戯曲執筆講座)では何を書くかは問題とされない。いかに書くかだけが問題とされる。
誤解されると困るのだが,書きたいこと=テーマ(主題)が要らないと言っているわけではない。書きたいことがあるのは当たり前で,ただ,それは戯曲を書くという技術の問題とは切り離すべきだということだ。
(中略)
おそらくテーマはすでに,あなたの精神にいくつも内在しているのだ。
(中略)
私たちは,先にテーマがあって,それを表現するために作品を創るのではなく,混沌とした自分の世界観に何らかの形を与えるための表現をするのだ。(p32)
テーマはすでに内在しているというくだりは,ポランニーの「暗黙知」に通ずるものがある。テーマは後から発見される。
ここで私が示そうとしているのは,戯曲を書くという手順のひとつのモデルであり,基本的な理念型だと思っていただきたい。 ただ,この理念型は,ある種の普遍性を持ったものであり,何か戯曲を書くときに迷いが生じた場合の,その迷いの原因を探るチェック機能を果たすことはできると思っている。 (中略。野村克也監督曰く「負けに不思議の負け無し」を引用。) おそらく,私のこの戯曲創作法も,「ダメな戯曲」の理由を検証するのには,適した方法なのだろうと思う。こうして,ダメな戯曲を書かないための基本的な概念を系統立てて学ぶことによって,「いい戯曲」を書ける確率を高めていこうちおうのが,私の講座の基本的な考え方だ。戯曲の書き方を教えるというのは,本質的にこのような方向でしか考えられないものではないだろうか。いい戯曲の書き方は教えられないかもしれないが,悪い戯曲を書かない方法は教えられるはずだ。(p81)
このあたりは「パターン・ライティング」で触れたことに通じる。方法論は「ルサンチマンのデザイン論」だと難波がいうのも,こうした構えへの不満からかもしれない。
p119の図「話し言葉の地図」もおもしろい。話し言葉の種類を,演説や談話などの公的で意識的なものから,叫びや独り言にいたる私的で無意識的なものへと並べたうえで,それぞれの特性を発話者,その数,相手,その数,聞く意志,知己か否か,場所,最初の言葉,長さ,結果,冗長性などの観点から整理したものだ。
これらの話し言葉のうち,平田は,演劇を支える一番大きな要素は「対話 dialogue」であるとし,特に「会話 conversation」との違いを重視する(p121)。「対話」は他人と交わす新たな情報交換や交流のことであり,「会話」はすでに知り合っているもの同士のおしゃべりのことである。「会話」では「自分たちが知っている情報については,わざわざ喋ることがない」という大原則がある(p47)から,戯曲においては,「会話」だけでは何の情報も共有していない観客には,まったく物語の状況を説明することができない。観客に近い存在である外部の人間を登場させ,「対話」を出現させることが必要だというわけである。
だが,日本語は対話に向いていない,と平田は指摘する。知らない人に話しかけるということがとても難しいというのである。近世以降の極端に流動性の低い社会の中で,人口の大半は他者とは出会うことなく一生を過ごしてきた。「村の中で,知り合い同士が,いかにうまく生活していくかだけを考えればいいのであって,そこから生まれる言語は,同化を促進する「会話」のためのものが発達し,差異を許容する「対話」が発達してこなかった(p128)」というわけだ。
日本語は対話の苦手な言語である。日本人は対話の苦手な民族である。だからこそ,私たちは,本書の中で,注意深く,対話の苦手な日本人が,それでも他者と出会い,話さざるを得ないような「場所」や「背景」を探してきたのではなかったか。
私がこれまで示してきた戯曲の手続きは,突き詰めれば「対話」を産み出すための手続きだったと言っても過言ではないだろう。(p140)
情報デザインの重要なテーマの一つが,インタラクションのデザインだ。これは対話のデザインにほかならない。そこでは見知らぬもの同士の新たな情報交換が行われるからだ。ダメな対話のデザインを日本語のせいにしてはいけないのだが,対話的な発話を,しかし慇懃になることなく自然に行うことの困難の理由が,日本語そのものの特性であるという指摘は覚えておいていい。日本語で行うインタラクション・デザイン。細野晴臣か(笑)
「対話」を描いた日本語文芸作品の希有な事例として,夏目漱石の『三四郎』が出てくる。そこでは,近代化が進んだ明治日本で,以前なら決して出会うことのなかった人たちが出会い,対話し,離れていく。しかし,その後日本語における「対話」の形式は深化されることなく,ファシズムの時代が戯曲の言葉を「演説」と「ひとり言」に二極分化させてしまうのだ。(p138)
そういや『三四郎』って読んでないなあと思って,手に取ってみた。かつて見知った景色がたくさん出てくるので,私には対話よりも景観描写が気になってしまうのだった。
を読む。
千住博『千住博の美術の授業 絵を描く悦び 』光文社新書 No.147,2004
「何を」と「いかに」を考えるシリーズ。これは平田オリザとは正反対に,ひたすら「何を」を問題にしている。
5つある章題はこうだ。
ひたすら「何を」を問題にしているのだけれど,それは「何を」と問い続けることの困難に「いかに」立ち向かい続けるかを述べているものだと思われた。
を読む。
ヘンリー・ペトロスキー『ゼムクリップから技術の世界が見える-アイデアが形になるまで 』朝日新聞社,朝日選書733,2003
ペトロスキーは,土木の専門家で技術史家。本書は,ゼムクリップから,鉛筆の芯,ジッパー,アルミ缶,ファクシミリ,航空機,水道,橋,高層建築などが,どのように設計され改良され製造されてきたかを蘊蓄たっぷりに語る。
『フォークの歯はなぜ四本になったか』(平凡社,1995)という本も書いている。こっちも同じように事例たっぷりの本であるが,より方法論的な構えになっており,「形は失敗にしたがう」とか「道具が道具をつくる」「つねに改良の余地がある」などといった箴言めいた章題をもつ。
さて,工学とは失敗の歴史である。
削りたての鉛筆の芯はよく先が折れる。その折れた芯先の大きさや形がどれもほとんど同じであることに気づいたエンジニアが,その破断のメカニズムをモデル化し,大きさと形が同じになる仕組みを説明した。しかし,彼のモデルでは,その破断面が芯の軸に対して垂直ではなく,常に一定の角度でわずかに傾くことを説明できなかった。約10年後,別のエンジニアが同じ問題に取り組み,より詳細なモデルをたてて,折れた芯先の微妙な形の違いを説明することに成功したが,やはり破断面が傾くことは説明できなかった。
彼らがともに失敗したのは,「「破断が起こるのは,最大引っぱり応力が,ある特定の平面全域の臨界値に達したときである」という前提のもとにすべての分析をし,その平面に平行にはたらいて亀裂の進路をそらすかもしれない剪断力をすっかり無視していたから(p.80)」だった。鉛筆はただ上から紙に押し付けられている(=曲げ応力を受ける)だけではなく,文字を書くために常に横滑りをしており,剪断力(せんだんりょく)を受けているのだ。
BOPP(引用者注:折れた芯先のこと。Broken-Off Pencil Point )の問題が例証しているのは,工学的な分析結果を吟味し解釈するさい,根本的な前提を忘れずにいて,そこに立ち戻ることがいかに重要かということである。基本的な前提の妥当性に疑問を抱いて,その制約を意識しないかぎり,自分がそれらに縛られて結果を解釈しているという事実を見落とす恐れがある。(p.83)
失敗を克服するためには,前提を疑わねばならない。
つねにラジカルに考えたい。
を読む。
松岡正剛監修,宮之原立久,山田仁,伊東雄三,倉田慎一,立岡茂,丸山玄『直伝!プランニング編集術 』東洋経済出版社,2003
松岡正剛が主宰する「ISIS編集学校」での教育プログラムをまとめたもの。類書との違いは独特の言葉づかい。「要素・機能・属性」「らしさ」「言い替え」「見立て」「発想習慣病」「ルル3条」「よもがせわほり」「モダリティ」「編集思考素」などなど。
序文だけ松岡正剛が書いているのだが,世に山とある企画術やプランニングの本がなぜ役に立たないかを書いている。「理由は簡単,多くがあまりに広告代理店的で,そこそこ商売が成り立っている大手プロダクションふうの用途様式になってばかりいるということです。(p.12)」こうしたところでは,営業力を総動員して仕事をとり,アウトソースをいっぱい使ってプレゼンをするわけで,「企画術の川上と川下ばかりがやたらに濃くて,いったいぜんたい「ぴったり企画のところ」とはどこなのか,どうもそこが曖昧になっているのです。(p.12)」そういう意味なら,本書は真ん中のところをちゃんと書いてある。テイストはずいぶん違うけど『考具』にも近いかな。
文脈にあわせて,「編集エクササイズ」と称する練習問題が頻繁にはさみこまれているので,それぞれ考えながら読む。どれもよくできた問題だと思った。今考えていることをよりよく理解してもらうための練習問題を考える,というのは非常に難しい。大学では課題を出す側になってしまったが,いつも課題を出すという課題を科せられているのである。
を読む。
下条信輔『まなざしの誕生—赤ちゃん学革命 』新曜社,1988
心理学者による「赤ちゃん学」の紹介。赤ちゃんの研究や,障害者の研究が,既存の人間像とせめぎあう新しい人間観を切り開いていく。
「モリヌークスの問題」が紹介されている(p.113)。
先天的な盲人がいた。経験によって,触覚だけの手掛かりから,立方体と球を区別して言えるようになっていた。この盲人が,肝がん手術を受けた結果,正常な視覚機能を得たとする。さて,この人は手術直後に,触らずに見ただけで,目の前の立方体と球とを正しく区別して言い当てることができるか?
これは「モリヌークスの問題」と呼ばれる問題で,空間認識の発生についての問題をよく示す例として知られる。
この問題は17世紀末の英国で作られた。出題したのが法律家兼哲学者のモリヌークス氏。回答を迫られたのが,当時の代表的な哲学者ジョン・ロックなのだそうだ。
経験論のジョン・ロックは当然「ノー」と答えた。しかしこれが先見論のカントなら「イエス」と答えるであろう。これは哲学的・理論的な回答である。
当然,盲人の開眼手術を通じて実験をしてみた人は少なからずいたようだ。しかし,結果は芳しくない。先天盲人が正常な視力を獲得することは不可能なようなのだ。したがって,モリヌークスの問題は前提に無理があることになる。つまり,モリヌークスの問題は,手術直後に見えるか,という問題と,物体を区別できるか,というふたつの問題に分けられるのだが,第一の問題がそもそも無理であって,したがって第二の問題については答えることができないというのである。
そこで,赤ちゃんの実験でモリヌークスの問題に取り組んだ人たちがいる。メルツォフらは,赤ちゃんに暗闇でツルツルのおしゃぶりあるいはイボイボのおしゃぶりを使わせてから,ふたつのおしゃぶりを見せて,どっちをよく見るか,を調べた。すると,なじみのあるほうをよく見るのだそうだ。その実験が伝えるのは,触ったときに感じられるものの形と,目で見たときのものの形とを関係づける能力は,赤ちゃんにもすでにあるということだ。実験結果はカントを支持する。
これって知覚システム論じゃん,と思っていたら,「ギブソン夫妻」もちゃんと出てきた。「ギブソン夫妻」という書き方はあまり見たことが無かったので,ちょっと新鮮。イームズ夫妻みたいだ。
視覚や触覚の感覚の区別を越えて結びつける能力をいかに説明するか,には大きく三つの仮説があるという(p.135)。第一は,ヘルムホルツらの「経験による連合」説。繰り返しているうちに「空間」として共通の意味を帯びてくるというもの。第二は,ピアジェら。赤ちゃんが積極的に行動し,刺激→反応を同化・調節するうちにシェマを獲得するというような話。第三が,ギブソン夫妻の知覚論。変化する世界の中から,不変項を探索する。不変項は特定の感覚に依存しないから,そもそも視覚と触覚を区別する必要がない。
こうした議論は,知覚に関する還元主義的な我々の常識をゆさぶるものであろう。
わたしたちおとなは,五官の区別を当たり前のこととして受け入れているし,また生理学を土台とする自然科学的な人間観からしても「はじめに視覚や聴覚,触覚などの区別ができるようになり,次にそれらの関係に注目し,組み合わせたり結びつけたりすることによってものごとの概念が成り立つ」という考え方は,いかにももっともらしい。
けれども,このような「生理学の積木」式の考え方は,いってみればおとなの観点,自然科学の観点からの議論のさかだちである。(p140)
これは15年以上前の本なので,赤ちゃん学はきっともっと進んでいることだろう。
を読む。
美崎薫『ユビキタスがわかる本 』オーム社,2004
「記憶する住宅」の美崎薫さんの本である。今度札幌で開催される日本建築学会大会の研究協議会「 ユビキタス社会における建築と情報の新しいかたち−ユビキタス社会における建築と情報の新しいかたち」のパネルにお招きしている。あらためて,美崎さんのユビキタス観を確認しておこうというつもりだったが,それ以上におもしろく読めた。
「ユビキタスコンピューティング」という言葉の意味が立場と文脈によって,相当の振れ幅があり,混乱して用いられていることは皆承知のとおりである。美崎の説明を乱暴にまとめると,お前らまずはマーク・ワイザー読んどけよ,ってことだ。(美崎はこんな乱暴な言葉遣いではないが。)
特に,流通にみられるような実業としてのユビキタスコンピューティングにおいては,ワイザーの「森を散歩するようにリラックスしながら使用する」というような,ユーザにとってのメリットがほどんどなくなってしまっているという。(p.XIV)
オープンアーキテクチャーの説明あたりから,様々なユビキタス系技術を論じていくうちに話が拡散していくのであるが,美崎の視点は一貫して,それってユーザにメリットがあんのかよ?ってことだ。(こんな乱暴な言葉遣いではないが。)
ユビキタスな社会を考えることにリアリティが与えられるかどうかは,ユビキタス社会のおける自分自身をどれほど鮮明に想像することができるかにかかっている。ところが,実業システムの発想の多くが,システムにとってのメリットだけを追求して暴走しがちである。個々のユーザを原理的な危険にさらすにもかかわらず,システムの機能によって回避できると言ったりする。我々は当事者としてのユビキタスコンピューティング論を構想しなければならない。
を読む。
ポール・ヴィリリオ『瞬間の君臨—リアルタイム世界の構造と人間社会の行方 』土屋進訳,新評論,2003
原題は L'inertie Polaire,直訳すると『極の不動』。
このタイトルからして撞着語法で,全編ヴィリリオ節爆発。相対性理論や不確定性原理後の技術と社会に内在する問題を扱う。土屋訳は丁寧な解説付きで理解を助ける。いちいち注でひっかかるのはヴィリリオっぽくないじゃんという向きは表面を滑走してもよろしい。
びゅんびゅん突っ走るヴィリリオのいうことも分からないではないのだが,本当にそうなのかなあ,ついていけねえぞおという気がしてしまうのもいつもの通り。突っ走る部分と動かないでいる部分との間で,強い剪断力を受けながら引き裂かれそうになっている部分にこそ,問題があるように思われる。
フッサールの現象学に大きな役割が与えられているのが,意外だったが興味深いところだ。
を読む。
ジュリエット B.ショア『浪費するアメリカ人—なぜ要らないものまで欲しがるか 』森岡孝二監訳,岩波書店,2000
たんなる快適さより富裕さを求める普遍的な願望を特徴とする「競争的消費」傾向をもった「新しい消費主義」について論ずる。
浪費のための競争的消費にのめり込むあまり,アメリカ人は,長時間働き,借金は増え,クレジットカードの残高は増え,貯蓄はなくなり,ストレスは多く,満足感は得られない。こうした働き過ぎと浪費の悪循環は,環境への負荷を増大させ,税負担忌避を通じて公共財を貧弱化させ,家族やコミュニティを危うくしている。
を読む。
ポール・ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン—速度と知覚の変容 』丸岡高弘訳,産業図書,2003
訳出は最近だが,原著は1984年の刊行。
丸岡が訳者あとがきで書いているとおり,最近あいついで訳書が刊行され再評価がなされているヴィリリオの魅力は「速度による世界の縮小・老化・貧弱化というかれの基本的テーマが情報科学技術の発達で現実味のある危機として実感されるようになった」ことと,「地政学的戦争から時政学的戦争への転換というヴィリリオの指摘が冷戦以降の政治状況と奇妙に符合していると感じられるため」だろう。(p.304)
たとえば,次のような指摘。書かれたのは20年前である。
核兵器・通常兵器一式が完璧にそろって以来,いかなる武器も,いかなる軍隊も,国家間紛争を解決する力をもたない。ただ,政治的不安定さの領域をひらくことができるだけである。それはおわることがない戦争に似ている。ただその戦争がおわらないのはなにかの権力への意志のためではなく,だれもおわらせることができないからである。(中略)あたらしい兵器の破壊力があまりにも絶大なために「全面戦争」でさえ空間的にひろがることができなくなったが,その退化形態である局地紛争なら無際限に時間のなかに展開することができる。こうして偉大なる平和の時代が到来した。しかしそれはひとびとが主張しているように「通常兵器による戦争」が実現する平和ではなく,非通常的超犯罪による平和である。つまり(国内的にも外交的にも)あらゆる政治的形態をこえた国家テロによって平和が実現される。国家テロは外国人も自国民も区別なく抑圧する。「現実の戦争」はブロックされ,ただ戦争的傾向のみが発展し,統計学的虐殺が日常化する。世界大戦は不可能になる,偶発的事故でもおこらないかぎりは。こうして,実際に戦争をおこすことはできないからひたすら包括的兵站術が準備され,それが本当の世界戦争のかわりになる。(pp.275-276)
ここでいうヴィリリオの「平和」は普通の意味での平和ではない。
徹底抗戦の名のもとに敵の民間人を犠牲にし,敵による自国の民間人の犠牲を容認することはやめる。そのかわり,徹底平和(国家の安全)の名のもとにますますおおくの自国民をみずから犠牲にすることを決定するのである。核抑止の現代,軍人はもう民間人にたいしてしか宣戦布告しない。軍人にとって,直接軍隊に関与していないものすべてが国家の内的安定のための潜在的脅威である。(p.240)
というような意味での「平和」である。戦争と平和は反対概念ではない。同じことなのだ。
を読む。
西村佳哲,杉浦裕樹,前田邦宏,森川千鶴,辻信一,渡辺保史+せんだいメディアテーク編『共有のデザインを考える/スタジオ・トークセッション記録』, メディアアシスト編集局,2003
ISBNはついているが,普通の書籍流通とは違う経路で頒布される。せんだいメディアテークアーカイブからダウンロードできるPDFで読むか,オンデマンド印刷で入手するか,だ。PDFは無料である。
私はてっとりばやくPDFで読んだ。170ページからの本をまるまるPDFで画面上で読んだのははじめてだったが,けっこういけるもんだな。PDFでもフォトリーディングはできるとわかった。
これは2002年から2003年にかけて,せんだいメディアテークでおこなわれた連続トークセッションの記録書だ。このイベントのコーディネータは渡辺保史。ゲストは,著者の面々である。
なんだかんだと都合がつかなくて,気にはかけながらも,この一連のイベントに一度も出かけることがなかったのだが,それがとっても悔やまれてしまった。トークセッションを原稿に起こしてあるのだが,とても臨場感があるのだ。それだけに,その場に居あわせることができなかったのが残念。
読んで印象的なのは,会場との質疑応答がすばらしいことである。うまくまとめて書きおこしたということもあろうけれど,たとえば「自分たち事」のようなたくさんの新しい言葉が,質疑の場から生まれてきている。そういうことって滅多にないのだけれど,「共有のデザインを考える」ってやつを地でやろうとするとこうなるぜ,というような,主催者だけでない参加者全部の矜持みたいなものを感じた。
追記:
…と書いたら,smtから書籍版をお送りいただいた。本書の企画を継続して,来る9月16日に行われるスタジオ・トークセッションに出ることになったからである。
期せずして,オンライン版とPDF版の両方と向き合うことになったが,企画の成果を「本にしておく」ことの意味を考えるよいサンプルだと思われた。
を読む。
内田樹『街場の現代思想 』NTT出版, 2004
原稿の半分くらいはwebの「内田樹の研究室」にあるものなので,すでに読んでいたが,独特の節回しをまとめて読むとまた違う味わいがある。
冒頭の文化資本論は,『浪費するアメリカ人』の話とぴったり繋がる。ショアはダウンシフターを引き合いに出したが,社会の階層化を回避しようとする内田の戦略は甚だ屈折しており逆説的だ。
文化が「資本」になると聞くと,目端の利いたガキは「おっとこれからは教養で勝負だぜ」と算盤をはじく。「これからは読書量が出世のカギらしい」と聞かされれば,『世界文学全集』の読破を企て,ぐいぐい読み進む。ぐいぐい読み進むうちに,うっかりサドとかニーチェとかバタイユとかを読み出し,気がついたら出世なんかどうでもよくなってしまった……というような逆説は文化資本主義ならではの味わいである。 文化資本へのアクセスは「文化を資本として利用しようとする発想そのもの」を懐疑させる。 必ずそうなる。 そうでなければ,それはそもそも「文化」と呼ぶに値しない代物である。(p.47)
内田は大学のセンセイでもあるので,教育論というか大学論も多く書いている。たとえば新都立大学が検討しているという語学の授業の英会話学校へのアウトソーシングは,「「英会話のスキルの習得」という短期的な教育目標に限って言えば合理的な判断かもしれない。だが,「知的センターとしての大学」の幻想性を取り返しのつかない仕方で毀損するという点で,きわめて不利な経営判断である(p194)」と批判していう。
高等教育においていちばんたいせつなのは,学生が「すでに知っている知識」を量的に拡大することではなく,学生に「そんなものがこの世に存在することさえ知らなかったような学術的知見やスキル」に不意に出くわす場を保障するということなのである。
(中略)
いま行われているあちこちの大学の教育改革のほとんどは「受験生がそれをほしがっていることがすでに自明であるところの,実定的な資格や能力」の提供を前面に押し出している。しかし私はほんとうの教育改革は「受験生たちがその名を知らず,その漠然たる『オーラ』だけを感知し欲望しているような知見やスキル」に焦点しなければ奏功しないであろうと思っている。(p.197-199)
これにはまったく同感だ。
受験生が暗黙のうちに「漠然たる『オーラ』を感知し欲望している」かどうかを入試判定の基準とすることできればよいのだが。大学に限らず,学ぶ場ってのはみな知への欲望によって駆動する空間であるから,その原動力を持っていないと来ても意味がないのだ。技術的にどうやるかが難しいのだけれど。
を読む。
和田哲哉『文房具を楽しく使う 〈ノート・手帳編〉 』早川書房, 2004
生産性向上のためのバリバリ本とも,蘊蓄満載のマニア本とも違う,微妙な間合い。元ネタは著者のホームページ「ステーショナリープログラム」に掲載されているものである。
これに紹介されているクオバディスとモールスキンはまさに私が使っているのと同じなので,ちょっと悔しい(笑)紫のグリッドが色が濃すぎると思うので,ロディアには手を出さずにいるけど。
を読む。
美崎薫『ユビキタスコンピューティング—未来型コンピュータ環境 夢が現実になった!ユビキタス時代のコンピュータ 』ソフトマジック,2003
この間読んだ『ユビキタスがわかる本』の一年ほど前に刊行されている。『わかる本』は解説モードなのに対し,こちらはよりスピーディーである。「月刊美崎薫の第二弾」と名乗るだけのことはある。
2003年6月の発刊だが,すでに「ユビキタスは流行語になり,死語に向かっている(p76)」と宣告されている。だが,「ユビキ」も案外死に損なっているってのが現状(2004年9月)かもしれない。なぜ死にきれないかというと,新たな見舞客がボチボチと訪れ続けているからだろう。建築学会みたいにね。
日本のものがほとんどであるが,たくさんのユビキ系プロジェクトの事例が紹介されている。ああ,こういうのもあったなぁとなんだか懐かしく読めてしまった。当然失われていくプロジェクトも多いはずで,こうした記録は歴史的価値があろうというものだ。
せっかく生まれた概念を,簡単に死なせてしまうのはもったいないから,ちゃんとお墓をつくっておく。存命中なら時々はお見舞いに行ってみる。テクノロジーは死屍累々の上に花咲く。開発者は皆,死して屍拾うもの無しと心得ている。
最近はこの「ツルピカ真っ白」がトレードマークになっている原研哉。
『デザインのデザイン』の別冊図版としても重宝。
を読む。
ウヴェ・フリック『質的研究入門—「人間の科学」のための方法論 』小田博志,山本則子,春日常,宮地尚子訳,春秋社,2002
質的研究とは次のような傾向の学問的立場だといえる——質的研究とは具体的な事例を重視して,それを時間的,地域的な特殊性の中で捉えようとし,また人々自身の表現や行為を立脚点として,それを人々が生きている地域的な文脈と結びつけて理解しようとする分野である。(p.19)
都市だとかデザインの研究ってのはまさにそういうものじゃん,と読み進むのだが,これはちっとも「入門書」じゃないのであった。Qualitative Research についての網羅的なガイドブックという趣向で,理路が整然としていることはわかるのだが,ちっともすんなり呑み込めず,しかもその責任が著者でも訳者でもなく自分にあることを感じながら紙面に視線を滑らせつづけるってのはなかなかにしんどい。きっと自分で痛い経験を積んでから,この本に帰ってくると,その価値がよくわかるのであろう。ま,教科書というのはそういうものだ。
そして,教科書をいくら読んでも,それで論文が書けるというものではないのだった(涙)
訳者による巻末の用語集はコンパクトで役に立つ。学生に説明するのによさそうだ。「厚い記述 thick discription」の項に,「いくらページ数が多くて量的に「分厚い」エスノグラフィーであっても,ギアーツ的な意味では「薄い記述」でしかない場合もあり得る」とあって笑った。あるある。
を読む。
五十嵐太郎『過防備都市 』中公新書ラクレ,No.140,2004
「セキュリティ」を要求して,ドラスティックに変貌していく都市の様相を豊富な事例で紹介する。横たわることを許さないベンチ,無数の監視カメラ,準警察としての自警団,要塞化する学校などなど。
そのありようは「過剰」なのか。
過剰であると,五十嵐はナイーブに宣言する。
だが,即効性のある具体的な対策は提示されない。むしろ対症療法ではダメで,不平等の拡散をさせないような社会構造そのものの変革をともなう根本的な解決策が必要だという。もっともだが,なんともナイーブな話である。
当然,アマゾンの書評でhiromoriminami氏が述べているように,「もはや、そういうナイーブなセキュリティ意識では立ち行かなくなっているのが、「かつて安全だった」日本である 」という批判があろう。今ここで不安に震えている俺たちに,そんな悠長な話は意味がないというわけだ。
だが,セキュリティ意識のエスカレーションが進めば進むほどに,人々の不安は消えるどころかますます増大し,世界は「私はあなたを信じない」というメッセージに満ち,どんどん荒んだ場所になっていく。そこには悪循環しかおこらない。
たとえナイーブであっても,こういうのは嫌だなあ,という感覚を共有することから始めるよりほかない。
だから私は五十嵐のナイーブさを支持したいと思う。
信じていないと,信じてもらえない。
信じることができるようになるためには,信じてもらえたという体験が必要である。
それを最初に子どもに与えるのは,大人の務めだろう。(その大人がもうダメだってわけなんだけど)
を読む。
三原昌平編『プロダクトデザインの思想〈Vol.2〉 』ラトルズ, 2004
『プロダクトデザインの思想』の第二弾。
表紙は売れっ子深澤直人の作品だが,セレクションは全体としてはかなり渋いと思う。
名前だけ見てもピンと来なくても,写真をみると「ああこれか」ときっと誰もが思うものが並ぶ。森正洋の「G型醤油差し」や,三原昌平のメラミン製の「ホテル用品」,マリオ・ベリーニの「電気ポット」などがそういうものだろう。
こうした時代を越えた古典のようなものと同時に,食器「Adam & Eve」のロゴや,照明器具「サツールノ」のクロムの質感などは,バリバリ70年代ワンスアンドオンリー。その時代精神と密着していたがゆえに,いまや歴史的風格を帯びているというものだ。アール・ヌーボーやアール・デコと同じように,サイケデリックやポップが美的様式として論じられるようになってひさしい。
文章の調子が執筆者によってかなりバラバラで,なかには読みにくいのもあるけれども,それもまた前作同様に,プロダクトデザインをめぐる思考の現実的な状況をよく映しているのだと思えばうなずけるものだ。
編者でもある三原昌平が「天下分け目の闘い」と題して,戦後の「工業デザイン」が,生産と消費への適合性を重視し作品性を拒否する大手企業インハウスデザイナーを中心とした「インダストリアルデザイン」派と,理想を謳う「プロダクトデザイン」派との対立の歴史をまとめている。この闘いは「インダストリアルデザイン」派の量的勝利で決着したかに思われたが,「ミッドセンチュリーデザイン・ブーム」を契機として「デザインを正面から邪心なく取り組んだ清々しさ」への評価が一般消費者の間にも高まり,これは「プロダクトデザイナー派」の「無言の勝利を勝ち誇っているような現象」だと指摘する。(pp.50-53)
私などは,こうした現象を,マスメディアがデザインの遺産を根こそぎ消費してしまう過程のようにも思っていたから,なるほど当事者はそう考えているのか,と新鮮に感じた。
もうひとつ,Vol.2のセレクションで印象に残ったのは,ヴィクター・パパネックの著書『生き残るためのデザイン』が取り上げられていることである。若造の私は1974年の邦訳発売当時の本書へのネガティブなインパクト(批判,とりわけ無視)については知らないが,パパネックの問題意識が,サスティナビリティやアクセシビリティ,ユーザビリティなどの現代的なデザインの課題を30年も前に先取していたことは間違いない。わたしは数年前に読んで,なんだか当たり前のことばかり書いてあると思った記憶がある。まぬけだ。あらためて読んでみよう。
を読む。
上大岡トメ『キッパリ!—たった5分間で自分を変える方法 』幻冬舎,2004
『すごいやり方』もそうだが,こういう生活向上心得みたいな本はけっこう好きで手に取る。この本も表紙の「テンコブポーズ」がとてもいい。
私は,腕をグルグルまわすってのをよくやる。端から見るとかなり危ないらしい。
を読む。
株式会社竹尾編,原研哉+日本デザインセンター原デザイン研究所 企画構成『HAPTIC —五感の覚醒 』朝日新聞社,2004
最近精力的に出版している原研哉の仕事。
Hapticとは,英語の形容詞で,「触覚の,触覚を喜ばせる」という意味。喜ばせる,が入っているところがミソ。触ってうれしいのが,haptic。
このHapticをテーマにした作品を,さまざまなデザイナーが提案している。
普段はダラリと昼寝していて握ると固くなる,パナソニックデザインの「ジェル・リモコン」がエロくていい。携帯電話もこれで作ってくれないかしら。
深澤直人の「ジュースの皮」もおもしろい。バナナとか,本当によくできている。
全体的に静かでミニマルな印象のものが多いのは,原研哉のテイストか。
を読む。
米盛裕二『パースの記号学』勁草書房,1981
C.S.パースの記号学を解説する。パースは晩年不遇で,遺稿を編んだ『論文集』があるばかりで,彼自身によるまとまった著作はない。米盛はプラグマティズム研究者の立場からと断ってはいるが,パースの記号学の体系を非常に明快に整理している。とはいえ,もともとのパースの議論が非常にくどい(笑)ので,米盛の整理を経てもなおくどくどしてはいるが,論理学というのはそういうものだ。まとめてパースの記号学の体系を解説した日本語で読める研究書は他にはないようなのに,本書は入手が難しくなっている。
パースの記号論は,数学的な手順にしたがって66種類!のクラスに記号を分類するような,ガチガチにフォーマルな論理学的構築物であるけれども,にもかからわず,それは決して静的で不動のものではなく,「しばしば現象を弁証法的生々発展の過程においてとらえる(p.64)」むしろダイナミックなものである。
パースは"3"の人である。シニフィアン/シニフィエの二者の構図で記号を考えるソシュールに対して,パースの記号は,記号,対象,解釈内容の三項関係である。またパースは現象の基本的なカテゴリーをfirstness, sedondness, thirdnessの三者に分類する。常に"3"を軸に議論が展開するところが,パースの議論に弁証法的なダイナミズムを生んでいる。
ホフマイヤーの『生命記号論』も,パースを下敷きにして,ダイナミックな記号過程としての生命を構想するものであった。メディア研究の水島久光『閉じつつ開かれる世界』を読みはじめたところだが,ここでもパースの記号過程が下敷きにされている。
"3"を導入すること。動かせ。
追記:水島久光の『閉じつつ開かれる世界』の序章は,ほとんど「環境情報デザイン宣言」として読んでよいもののように思われる。
を読む。
ジョルジュ・アガンベン『開かれ—人間と動物 』岡田温司,多賀健太郎
政治哲学のアガンベン。初めて読む。
これなら薄いし,ベンヤミン,ユクスキュル,バタイユと知らないではない名前が出てくるので,おつきあいできるかも,と思って恐る恐る近づいたのだが,いや正直,全然歯が立たなかった。
そもそも,なぜ人間と動物の境界を問題にするのかがピンとこないし。
アガンベンの文脈をわかってないからだろうけど。
を読む。
松谷明彦『「人口減少経済」の新しい公式—「縮む世界」の発想とシステム 』日本経済新聞社,2004
著者は元大蔵官僚で,現在は政策研究大学院大学教授。
この30年ほどの間に,団塊の世代がどっといなくなることで,日本の人口が急激に減少することは受け入れざるをえない事実である。超長期的には少子化のほうが深刻かもしれないが,30年から50年のレベルでは,急激な高齢化とその直後におきる人口急減が問題である。
これを悲観するばかりでなく,経済規模の割には貧しい国民生活という問題を解消する好機と,ポジティブに,かなり楽観的に,考えるのが本書の立場だ。
「日本は「極大値」に達したのである。極大値後の世界においては,経済も社会も巨大な構造変化を強いられる(p.23)」と松谷はいう。そりゃそうだろうと思うが,改めて見せつけられると,かなり厳しい変化である。俺たちは本当にこの転換を受け入れて違う国になれるのだろうか,と心配になってしまった。私は今38歳なのだが,まさにちょうど,この大波を乗り切らねばならない世代にあたる。「第2図 主要先進国の年齢階級別人口構造(p.5)」の日本を見ると,フタコブラクダの人口のまさに谷間じゃん。荷が重いよママン。
熱狂的な省力化への投資,が日本の経済の特徴だという。だが,過剰な省力化投資はかえって資本の限界生産力低下をもたらし,成長率を低下させる。資本装備率の上昇につれて生産コストは直線的に上昇するが,生産量は徐々にその拡大幅が減少し頭打ちになっていく。資本装備率を二倍にしても生産量は二倍にならないのだ。だから,本当は,付加価値が最大化される時点で,省力化投資を打ち切り,そして生産を打ち切らねばならない。(p.69)
「鉄鋼,窯業,化学,重電・重機械産業,建設業など,日本の名だたる大企業は,その大部分が投資財産業である(p.76)」ことが,「投資主導の経済」という性格を強めることになっている。マッチポンプだってことだ。今日より明日のために投資して,さらに投資する。わかってないのかもしれないし,わかったとしてもやめられない。
ひたすら売り上げの拡大だけを経営目標としてきた俺たちに,効率が一番いいところであとは止めて,そこそこで生産を打ち切り,適切な賃金水準を維持する,なんてことができるんだろうか(p.73)。そんな投資主導の経済から,消費主導の経済へ変わるなんてことがおこりうるのか?
松谷は,そうなるしかないという。なぜなら,「人口の高齢化による国民貯蓄率の低下によって,必然的に投資に上限が画されるからである。それ以上の投資をしようにも,そのための資源が国内にはない(p.80)」からだ。
この,貯蓄余力の低下が,われわれ投資財産業たる建設業界にディープなインパクトをもたらす。結論を先にいえば,公共投資は半減される。
設備投資,公共投資,住宅投資および純輸出の合計である「総投資」が急速に減少する(p.142)。これまでは貯蓄余力の面から投資が制限されることはなかったのだが,もうそうはいかない。投資できる資源には上限が画されるのである。公共投資と設備投資はパイを奪い合う。これを「クラウディング・アウト」というのだそうだが,公共投資が増加すると,その分,設備投資が減る。設備投資は生産力を向上させるが,公共投資は基本的には生産力とは無関係だから,公共投資を増やしすぎて,設備投資が十分になされないことになれば,日本経済全体が縮小することになる。社会資本にだって生産力効果もないことはないけれども,現在の日本ほどのレベルであればそれもさほどではない。
そこで,公共事業の規模限度はいかほどか,という話になる。松谷は「公共事業許容量」を推定する。結論は「今後の30年間で公共事業を現在の約半分の水準にまで縮小しなければ」実質国民所得を維持できない,である。
さらに,既存の社会資本の維持・更新の費用がふくらんでくる。90年代では,全公共事業費の35%が更新・維持費である。これが,2010年には公共事業許容量の57.2%,2020年には90.7%になり,2023年には更新・維持費が公共事業許容量を上回るという。つまり,新規投資はできなくなり,既存の社会資本も維持できなくなるのである。(p.148)
公共事業にあたっては「既存社会資本への厳格な再点検(p.150)」と「人口の減少と高齢化を見据えた長期計画(p.152)」が必要である。それは国にはできない。地方自治体にファシリティマネジメントの思想がどうしても必要な理由がここにある。
公共投資の話のほかにも,低賃金単純労働力として外国人労働者に頼るのは,国債と同じで後世代に負担を強いることになること,人口減少と高齢化のインパクトは大都市圏にこそ激烈に作用すること,都市部と地方との格差はむしろ縮小すること,現金を支給する年金制度にはどうしたって無理があるので公共賃貸住宅やリバースモーゲージなど社会的ストックを供給することで高齢者の生活を支えるべきであること,どうせ返せないんだから国債は永久公債にすりゃいいんだってこと,スペシャリティ別の雇用体系下では上昇志向の人々と「働かない自由」を謳歌する人々が分かれていくであろうこと,などなど,へえーと思う話がいっぱい出てくる。
これはマクロ経済の話だから,具体的にどう行動すればいいかは各々考えよ,ってことになるわけだが,精度はともかくとして,なにするにしてもこのくらいのことは念頭においておかないといかんだろうなぁと思った。1900円だし,読むべし。
を読む。
小倉利丸編『路上に自由を—監視カメラ徹底批判 』インパクト出版会,2003
監視カメラを批判する議論を編んでいる。いずれも,監視カメラへのほとんど生理的な不快感から議論がスタートしているために,監視カメラの何が悪いのか全然ピンと来てない人には話がまるで伝わらないのではないかと感じた。あえて悪く言えば,煽り調の文章が多いから,引く人はますます引くんじゃないだろうか。
具体的なエピソードは豊富である。国会の請願窓口をおとずれる人を全部監視カメラで録画しているというのは知らなかった。
国交省情報企画課の担当者は九・一一以降,日本国内の空港で登場者の氏名の確認や荷物検査を厳しくしているが,「それもあまり効率的とはいえない」と言った。
「要するに,例えばですが三菱商事の社長さんとか,朝日新聞の記者さんとか,身元のはっきり分かっている人を厳重にチェックしても仕方ないですよね。そういう人には検査は迷惑だし,先を急いでいるかもしれないから早く通ってもらって,イラクとか北朝鮮の人を厳しく調べた方が有益ですよね。」(p.72)
なんという開けっぴろげの差別発言であろうか。まさしく「セキュリティの効率化とは,現にある偏見と格差をますます広げていく(p.72)」のだ。
問題は想像力である。次にこうやって差別されるのは私かもしれない,と想像することができるだろうか。
われわれの行うべきは,「プライバシー」「自由」といったような,「安全」以外の価値観を対置することによって監視カメラの存在を批判することでは必ずしもない。むしろ監視カメラは必ずしも「安全」を守ってくれはしないし,あなたの考えているような,監視の対象となる「悪いこと」の境界線はあなたが知らないうちに移動させられることがありますよ,あなたも知らないうちに「危険人物」の方に入れられていることがありますよ,という事実を指摘していくことではないか。人々はこういうことを知って初めて,実は自分にも守るべき「プライバシー」があった,行使すべき「自由」があった,ということに気づくであろう。(p.124)
を読む。といっても「第一部 物語と時間性の循環」だけ。特に「第三章 時間と物語 三重のミメーシス」に集中。
ポール・リクール『時間と物語〈1〉物語と時間性の循環/歴史と物語 』新装版,久米博訳,新曜社,2004
全三巻の大部と知り,いったんは萎えていたリクールだが,書店で新装版を見かけ,私が読むべきは第一部のみとわかったので着手。
荒っぽい読みだが,
さて,リクールの「解釈学」は,「テクストの記号論」と対立するものとして語られている。
テクストの記号論は「テクストの前過程や後続過程を顧慮せずに,文学作品の内的法則だけを考察することができる,とする」ものであり,「唯一の操作的概念は,文学テクストの操作的概念だけ」であるという。この時,テクストは閉じた静的な構造として了解されている (p101) 。
こうしたスタンスをもった「テクストの記号論」に対し,リクールの「解釈学」は,中心的な過程の前と後にある過程を加え,三つの段階,すなわちミメーシスI,ミメーシスII,ミメーシスIIIを導入する。テクストの記号論が扱うのは,ミメーシスIIだけだという。
を読む。
ジョージ・マイアソン『ハイデガーとハバーマスと携帯電話 』武田ちあき訳,岩波書店,2004
こんなタイトルの本があるのかあ!とまずおどろいて手にとった。
ハードカバーだが,とても小さな本である。
内容は図式的といってよいほどクリアである。モバイル化はコミュニケーションを再定義しようとするが,それは二人の哲学者,ハイデガーとハバーマスが考えてきたコミュニケーションとはかけ離れたものであるという主張である。
解説で大沢真幸が整理しているとおり,マイアソンの議論は,ハバーマスの行為の二類型,すなわち「コミュニケーション的行為」と「戦略的行為」の二者の対比にもとづいている。
大沢によるマイアソンの議論の整理を一覧表にすれば次のとおりである。[pp.107-108]
を読む。
三砂ちづる『オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す 』光文社新書,No.166,2004
女性を解放するはずのいろいろなことが,実は女性を閉じ込めているのではないか,女性の身体性をとりもどして幸せになろう,という話。僕は男で,月経やセックスや出産のときの体感がいまいちピンと来ないけれども,共感できるところは多々あった。
たとえば,排卵が起きたことを自分で体感できれば,いつ妊娠するかはわかる。(私には驚くべきことなのかどうかもよくわからないのだが)それがわかる女性も少なくないのだという。
「避妊」ということを考えるとき,私たちの頭には「コンドーム」「ピル」など,外部から何かを使って避妊をする,いわゆる近代避妊法しか思い浮かばなくなっています。「オギノ式」という,基礎体温を付けることによって排卵を知る方法をありますが,これも「体温を測る」というからだの外からの測定方法に頼っています。[p.43]
われわれは自らの身体を,オブジェクトとして外部から操作しようとする。医療なんかその典型だけど,避妊もそうだ。人間と環境のセッティングの問題だと思う。
を読む。
日本IBM,山崎和彦,松田美奈子,吉武良治編著『使いやすさのためのデザイン—ユーザーセンタード・デザイン 』丸善,2004
日本IBMのUCD(User Centered Design)チームの活動のまとめ。ThnikPad s30や,ホームページビルダー2001の開発・設計プロセスを紹介しつつ,UCDってものについて解説する。
解説はよく整理されており,なるほどこういう手順でやったのか,へぇ〜と思わされる。
p.46の図2-2にあるように,「ユーザの声を聞く」部分と「イノベーションでリードする」の部分の間に,ユーザーシナリオとプロトタイプがあって,それを要にしてビジネス戦略と前二者がリンクしているという図式は,言われてみればその通りだが,うまくバランスさせるのが難しいところだろう。
私の場合は,イノベーション(本人はそのつもり)一本やりで,結果すっかり空回りするという経験が多いので(涙),デザインプロジェクトにかぎらず人生全般においてそうなので(号泣),なんだかしみじみ身に染みた。
でもね,全体としては,やっぱりこの本に紹介されているUCDは,結局のところ,ダメじゃないデザインをする=マイナスをなくす方法論なのだ。それはもちろん重要で価値がある。UCDは非常に大切な考え方だ。それすらできてないのが多すぎる。UCDにみんなが気を使えば,世界はずっとよくなるだろう。
でもさ,それだけじゃ,鳥肌が立つようなものは作れないんだよベイビー。
を読む。
北田暁大『広告都市・東京—その誕生と死』廣済堂出版,廣済堂ライブラリー018,2002
一章が,映画『トゥルーマン・ショー』をネタにした広告論。
二章は,80年代渋谷の話。広告=都市。
三章が,広告=都市が失効したあとの現代の話。
三章が面白い。建築と都市のデザインに関わる人には重い問題提起がある。 答えは書かれていない。
アマゾンの書評で「著者との共通環境(世代、東京への距離感 etc.)が、内容理解および評価にあたってある程度必須になっているような気がしてならない」とあるけど,確かにそうかもしれない。私が東京にいた学生時代が,まさに二章の時期なので,オレ的な壷にピッタリはまるんだけどね。
を読む。
木田元『ハイデガーの思想 』岩波新書, No.268, 1993
正直に告白するとハイデガーの著作はほとんど読んだことがない。取りつく島がないのである。何がわからないかというと,なぜ「存在とは何か」などという問いを立てるのかがわからない。問いに共感できない本など,付き合うのは無理というものだ。しかも文体が晦渋だし。
でも,私の今の関心空間のいたるところでハイデガーの名を聞くようになり,シラネではすまされないようなことになってきているぞと思うので,手に取った入門書である。で,幸せなことに嵌まってすっきり読めた。うれしい。
冒頭に,ハイデガーのナチス加担をめぐる論争の話が書かれている。木田は,この論争はうまく噛み合ないものだったという。「もともとハイデガーに関しては,信奉者と批判者とが実に截然と分かれていて,話のまったく通じないところがある(p.15)」からである。ハイデガー信奉者は,とにかくハイデガーをありがたがる「崇拝者ないし信者」なので,なんとか免責しようとするし,一方「ハイデガーの批判者は,ほとんどその著作を読んでいない。多少は読んだと言うかもしれないが,おそらくそれは,読まないですます理由を探すために多少は読むといった読み方であろう(p.15)」というのだ。
最近読んだ内田樹の日記の一節が思い出され,つい笑ってしまった。
内田樹の研究室: 神戸牛にはもってこいの日
学術論文のスタイルには「アングロサクソン型」と「大陸型」の二種類がある。 社会科学系の論文は(理科系の論文に準じて)アングロサクソン型で書かれるのが普通であるが、宗教や哲学や文学などについて論じる場合は、論文を書きつつある主体自身の思考や文体そのものの被投性を遡及的に問うという面倒な作業を伴うために「大陸型」(フーコーやデリダやレヴィナスやラカンのような書き方)で書かれるのが普通である、ということをご説明する。 「大陸型」の書き手は「アングロサクソン型」の書き物をすらすら読めるが(だってわかりやすいんだもん)、「アングロサクソン型」の書き手は「大陸型」の書き物を理解しようとする努力を惜しむ傾向にある。
内容はとても平明にすっきりと書かれているので,いくらか哲学的な文章に慣れてさえいればとても読みやすいものだ。
を読む。リーフレットだけど,アマゾンで買える。
太田浩史,伊藤香織著,東京ピクニッククラブ編『Picnic Papers 0 』新風舎,2003
14か条の「ピクニックの心得」がよい。
「ラグに上がりこむのではなく,ラグを囲んで座るべし。ラグは集まりの象徴であるから。」とあって,なるほどと思う。ラグは極めて低い「テーブル」なのだな。
ではピクニックではどこに座るのか。
靴を履いたまま地べたに座るのである。
これが日本人にはひっかかるのではないか。
靴を脱いで敷物に上がって座る。これが日本の作法である。
ラグはテーブルだが,ゴザは「御座」だから座る場所である。
座にはテーブルはない。人と料理と酒杯とは同一平面上に置かれる。座はテーブルを含み込んでいる。我々は自身がすでにテーブルの上にいるのである。
彼らが靴を脱ぐのはベッドに入るときである。
我々は床に寝る。床は地面ではない。そこでは靴を脱いでいる。我々は自身がすでにベッドの上にいるのである。
を読む。
竹田青嗣,西研『よみがえれ、哲学 』日本放送出版協会,NHKブックス1003,2004
ポストモダン思想でダメを出されていたかにみえる近代哲学——デカルト,ルソー,カント,ヘーゲル,フッサールなんか——の再評価。ポストモダン思想は批判はしてきたけど,それじゃどうすればいいかってことについては何も提示できていない。社会のありようを変えることを原理的に考え始めるとすれば,近代哲学からいくしかないじゃないか,という話。
ハイデガーはあんまり出てこない。パースがプラグマティスト扱いでひとくくりにされてるので,ちょっと不満。ま,文脈からすればしかたないけど。
対談ってこともあって,共感するところは多々あるものの,なんとなく消化不良のところも多く,中間発表的な感じをうけた。
たとえダメダメだとしても,われわれにはこの世界しかないので,いくらかずつでもマシなものにしていくよりほかないもんな。
を読む。
北田暁大『広告の誕生—近代メディア文化の歴史社会学 』岩波書店,2000
『広告都市・東京—その誕生と死 』に先立つ著作。これに繋がる芽の多くがすでに出ている。
大げさな広告分析——文化記号論的であれ消費社会論的であれ——に対する率直な違和感から,問いが立てられる。
かくも精密に広告の分析を施していくのはいい。しかし,われわれは広告をそんなにマジメに見て/意味解釈しているだろうか? むしろ,全然マジメに見て/解釈しているわけでもないのに,ふと思い起こしてみると何となく総体としての広告が醸し出す世界に巻き込まれてしまっている,というのが実情ではないだろうか?[p.9]
こうした,ゆるい受容のしかた,広告を「見る」のではなく,それが身体に「飛び込んでくる」ような状態を,北田はベンヤミンにならって,〈気散じ〉の受容空間とよぶ[p.15]。これは,「われわれの空間へのコミットメント」のありようの問題である。
※ちなみに,「気散じ」は「きさんじ」と読む。気晴らしと同義。
広告の《起源》は,「現代の広告に類似した物理的対象の登場にではなく,送り手/受け手の双方で,《……は広告である》という状況定義にかんするコミュニケーションが可能になる——《広告である/ない》という差異化コードが誕生する——契機にこそ求められなくてはなるまい[p.28]」という。それは「広告主が所定のひとびとを対象にし,広告目的を達成するために行う商品・サービス・アイディア(考え方,方針,意見などを意味する)についての情報伝播活動」というような定義によって捉えられる「広告」とは全く異なっている。
を読む。
ドナルド・A・ノーマン『エモーショナル・デザイン—微笑を誘うモノたちのために 』新曜社,2004
デザイン業界にアフォーダンスの概念を導入し,「機能」とは違う「使いやすさ」の重要性を説いた古典『誰のためのデザイン?—認知科学者のデザイン原論 』の著者による最新刊。今度は情動(emotion)を問題にしている。
デザインは情動に訴えかけることが重要である。それ自体はそりゃそうだって話だけど,ノーマンは,認知と情動のシステムを,三つのレベルに整理したフレームワークによって整合的に把握しようとする。本能(visceral)レベル,行動(behavior)レベル,内省(reflective)レベルの三つだ。
上位のレベルが下位のレベルを促進したり抑制したりする。例えばジェットコースターに乗ることは,本能的には不安だが,それを克服することは内省的には喜ばしい。だから,我々はあえてジェットコースターに乗る。「かわいい」は本能レベル,「美」は内省レベルからくる。グロテスクなものは美たりうるが,決してかわいくはない。
デザインには人に何かを「あえて」させる力がある。機能主義やユーザビリティの議論はもっぱら行動レベルと内省レベルだけを語ってきたが,これだけでは,デザインの「あえて」させる力を説明できない。本能レベルもふまえた,情動に訴えるデザイン,エモーショナル・デザインが必要である。鳥肌が立つデザインは,本能レベルに訴えているわけだ。
理論的なのは,この三レベルの枠組みの話だけ。
あとは事例。事例はどれもおもしろいが,ロボットの話は長すぎ。
どうすればエモーショナルなデザインができるようになるのか,は語られない。訳者あとがきによれば,ノーマンはこうした質問に「第8章を読んでください」と答えるという。ご想像のとおり,本書は第7章までしかない。でもこの枠組みは内省的な認識論だから,これをいじっても方法論にはならないと思われ。
巻末の「個人的回想と謝辞」にJ.J.ギブソンのことが出てくる。
人間情報処理研究センターでは,夏の期間だけ数年間,知覚心理学者J.J.ギブソンを招聘していた。その長期の滞在の間に彼と多くの議論をすることができたが,意見はずっと違ったままだった。この意見の不一致は我々ふたりにとって楽しいもので,とても実りある,科学的で,学ぶことの多いものだった。私はエラーへの興味と,ギブソンのアフォーダンスの概念への理解を組み合わせて『誰のためのデザイン?』を書いたのである。(ギブソンが生きていたら,彼は私との議論を続けていただろうし,彼の概念に対する私の解釈に異議を唱えていただろう。私の反論など聞きたくないとばかりに,これ見よがしに補聴器を外して,だけどその時間を楽しんで密かに笑みを浮かべながら)。[p.308]
ノーマンの「アフォーダンス」の使い方が,ギブソンのそれとはかなり違うことは,知られつつある。ギブソンの死後,ギブソニアンが異議を唱えているのだ。本書の索引には「アフォーダンス」の項はない。
を読む。
日本建築家協会間等甲信越支部建築交流部会監修『建築家のメモ—メモが語る100人の建築術 』丸善,2004
見開きで,左ページにスケッチの写真,右にメモについてのエッセーとプロフィールという構成。
人のスケッチというのはおもしろくって,見飽きない。エッセーも印象的なのがいくつもある。
ただ全体を通じて,建築家特有のカッコツケに満ちているので,それが苦手な人には虫酸が走るかもしれない(笑)
そう思いながら読んでいくと,隈研吾が「スケッチの最も大事なことは,自分の描いた線にうっとりしない事である」と書いていて爆笑した。
本書は全編かかる自己陶酔に満ちており,アイロニカルな態度もまた屈折した自己陶酔にほかならない。
もちろん私はそれを否定するものではない。自己陶酔が原動力であってもいいじゃないの。
208ページ全部カラーで2400円。
どうしてこの値段でフルカラーにできるんだろう。そんなに売れるのかな,これ。
を読む。
日本建築学会編『建築を拓く—建築・都市・環境を学ぶ次世代オリエンテーション 』鹿島出版会,2004
建築学会の建築教育の情報化小委員会による編集で,「建築」という領域の拡張についての様々な意見を集めている。
インタビュー集がおもしろい。身もふたもないことだが,共通しているのは,みな運がいいということだな(笑)
拙文「建築学科を出ると何になれるか」もご参照あれ。
を読む。
岡部篤行『空間情報科学の挑戦 』岩波書店,岩波科学ライブラリーNo.81, 2001
GIS入門書としては好適な小冊子。
内容は筆者が開設している本書のサイトに詳しい。
http://ua.t.u-tokyo.ac.jp/okabelab/atsu/c-sis.html
を読む。
野矢茂樹『哲学の謎』講談社現代新書 No.1286, 1996
哲学が難しいのは,まず哲学者が何を問題にしているのかがわからないからだ。この本は,哲学史思潮解説とは全く違うかたちで,哲学が問題にしてきた問題について述べる。意識,実在,時間,言語,他者等々,何を問題にしているのかは,これを読めば分かるだろう。
次の難しさは,なぜこのようなことを問うのかがわからないことだ。どうでもいいことだといえばそうだし,まして答えがひとつに定まるわけでもない。問うことと答えることとはセットであって,解答によって世界の不可解さが減少するはずだ,という期待は裏切られる。ますますわからなくなるばかりなのだ。
を読む。
Bruce Mau, Jennifer Leonard, Massive Change , Phaidon, New York, 2004
レム・コールハースの"S,M,L,XL"の共著者でもあるカナダのデザイナー,ブルース・マウの新刊。激変する世界についてのリサーチ。「デザインの世界についてではなく。世界のデザインについて」の本である。
巻頭のマニフェストをはじめ素晴らしい写真が多数あり,眺めるだけでも驚ける。わずか2グラムのエアロジェルが2.5kgのレンガを支えている写真なんか地味だけどすごいし,北京の世界最小のスターバックスというのもなんだか不思議だ。熱帯でも飼育できるようにつくられた羽毛のない鶏は妙に気持ち悪い。
全体は11のセクションに分かれている。都市,交通,エネルギー,情報,イメージ,市場,マテリアル,軍事,工業生産,生命,富と政治。それぞれの分野でエキスパートにインタビューしながら,どんな変化が起きているのかをレポートする。画期的な発明もあれば,出口のなさそうな暗い話題もある。
「すべてが一枚のバランスシートに載っている。良いことも,悪いことも,すべてがカウントされる。(裏見返し)」ひとつひとつの領域における変化は個別でユニークな事象に見えるけれども,当然それらは全部つながっている。「バランスシート」感覚を備えつつ,自分のできる「デザイン」をやろう。
webサイトでも野心的展開。
Massive Change: The Future of Global Design
を読む。
松原隆一郎『失われた景観—戦後日本が築いたもの 』PHP新書No.227, 2002
郊外,神戸,真鶴,電線地中化。四つの事例を題材としつつ,歴史的な遺産としての景観ではなく,日常的に生きられる景観に注目し,その喪失への怒りを示す。
私も,その違和感と怒りには共感するものであるが,こういう時の怒りの示しかたは難しい。松原がそうだというのではないが,倫理的に断罪してわめくだけでは誰にも怒りは届かない。それはちょうど松原も指摘する,乱暴だが実効性のあったチャールズ皇太子の異議申し立てと,デュープロセスは妥当だが効果の薄い真鶴「美の条例」との対比(p.151)に則していえば,乱暴なうえに効果が薄いやりかただ。
「日常景観は,それを有する「場所」の「内側」に長年定住する住民によってこそ,存在意義を確認されるものであろう」ことから,「その場所の「内」に住んだ時間によって,評価する資格に差があるはず」である。現行法では都市計画審議会に提出される住民の意見書へ応答する義務はないが,「たとえば在住歴十年を超える住民が提出した意見書には,審議会は応答義務があるだろう」という見解(p.90-93)には,なんだか考えさせられた。
私は子どものときから引っ越してばかりいるので,景観を評価する資格を有する場所をもたないってことになるのかなあ。ま,そうかもしれん。
をパラパラみる。文房具のムック。LAMYの特集など。
一番興味を引いたのは、p.76右下のLAMY2000-4BPに関するコラム。
LAMY純正のM21がネットリした太めのものであることはよく知られている。私はこれが好ましいと思うが、かすれやすいのは確かで、嫌がる人も多い。LAMYの製品は独自規格が多いのだが、このレフィルは他社製品と互換性がある。私もあれこれ試してみたいとかねてより思っていたのだったが、同じことをすでに試された先達がおられたのである。
コラム筆者の石川氏は、赤はペリカンマルチペン、青はロットリング、緑はゼブラを推奨しておられる。なるほど。ロットリングが赤でなく、ペリカンが緑でないところに、面白さがあるような。ゼブラは前に試したが、私にはちと細い。ゼブラはともかく他の舶来BPレフィルが仙台で入手できるかどうかも問題である。
を読む。
産業総合技術研究所 サイバーアシスト研究センター,デジタルヒューマン研究ラボ編『デジタル・サイバー・リアル—人間中心の情報技術 』丸善,2002
産総研の一般むけ研究報告シリーズ第一弾。
さて,サイバーアシストというのは,文字通り「人間支援技術」であって,具体的には状況依存のサポートとプライバシーの保護を同時に実現することを目標として,そのために「知的コンテンツ」と「位置に基づく通信」というふたつのアプローチを取っている。でもって,さらに具体の研究課題は目標とアプローチのマトリクスにしめされている。(p.78)
テーマ\アプローチ | 位置に基づく通信 | 知的コンテンツ |
---|---|---|
状況依存支援 | 位置情報 | 意味構造 |
プライバシー | 非ID通信 | 割符方式 |
全体の技術的キーワードは「グラウンディング」。IT化は必ずしも人間の快適性にむすびつかない状況を作ってしまっている。なぜか。「技術的に容易なことを優先し,真に人間にとって必要な,しかし実現困難な技術開発を後回しにしてきたからである。その結果,デジタルな世界と我々の住むリアルな世界を結びつける技術がない,あるいは少ない」からである(p.71)。この「結びつける技術」がグラウンディングだ。グラウンディングは,人工知能研究の分野で「シンボルを実世界にグラウンディングする」という意味で使われてきたものであるそうだが,サイバーアシスト研究センターでは,自動的なグラウンディングはまだまだ難しいので,「人工知能的なアプローチではなく,人間との協調による手法を探りたい」としている。
グラウンディングをさせるための具体的な情報技術の開発研究が上記のマトリクスの中身だ。本書にはその内容がコンパクトに紹介されている。
思うに,環境情報デザインというのは,グラウンディングがなされてデジタル情報が実世界に結びつく,まさにその環境をいかにデザインするのか,という課題に答えようとするものだ,といえそうだ。
もうひとつの「デジタルヒューマン」というのは,コンピュータの中に再現された人間のモデルのことである。機能や構造,形状などを目的にあわせて構築し,エンターテイメントや,医学,人間工学的設計などで使う。もちろん,全面的なデジタル・フランケンシュタインを作ろうというのではなくて,「遺伝子構造から脳内神経活動まで,その仕組みのすべてをコンピュータモデルで再現しようということではない。むしろ「人間の機能」のモデル化をめざす(p.121)」としている。だから,「人間の外郭形態を持たないモデル」もまたデジタル・ヒューマンである。この「人間の外郭形態」という言葉遣いが妙に生々しくて実によいな。
冒頭の年寄りの自慢話大会みたいな鼎談は野暮だと思いましたがね。
を読む。
金出武雄『素人のように考え、玄人として実行する—問題解決のメタ技術 』PHP文庫,2004
これはeXtreme Readingを要しない。さくっと読める。
随所におもしろい挿話があるので楽しめる。p.155からのフォン・ノイマンのエピソード,p.160の論理学者,数学者,物理学者,技術者の笑い話,p.82の厳しい手を打たれた棋士が思わず「いたた」という話,なんかがあたしは好き。
ワワーッとひとりでしゃべって,話し終わると帰ってしまう人っているじゃないですか。頭いいなあとは思うけど。そういう感じ(笑)
↓こちらも参照されたし。
【レポート】アイデアをいかにかたちにするか - FIT2004・CMU金出教授講演 (1) 「Lunaticだ」と言われたアイビジョン (MYCOM PC WEB)
を読む。地味だ(笑)
ヘンリー・ペトロスキー『本棚の歴史 』池田栄一訳,白水社,2004
本の歴史じゃなくて,本棚の歴史。中世にあっては,本は本棚に鎖でつながれていた,とか。人はモノとしての書物をいかに取り扱ってきたか,という問題。モノに即したナレッジマネジメント論(とかいうと軽薄にすぎるか。)
この人の本で翻訳されているのは大抵読んでいる。題材はどれも非常に興味深く,博覧強記調査綿密で感心しきり。ただ,文章はダルダルで読みにくいことこのうえない。本書は中でも最高に読みにくかった。
筆者は絵画資料などから往時の書斎の様子などを探っていくわけだが,ここで紹介されているデューラーの版画「ライオンを治療する聖ヒエロニムス」(1492)[p.123]と,同じ作家の「小部屋の聖ヒエロニムス」(1511)[p.124]とでは,まったく別人といってよいほど絵が違う。20年の歳月をへた個人的な技量向上はもちろんあろうが,それ以上に透視図法という新しいテクノロジーの威力と見てよいのではないか。
を読む。絵本。こどもにせがまれて読みきかせる。
声に出して読むとよくわかるが,訳がほんとうにすばらしい。
文 メアリー・リン レイ,絵 バーバラ クーニー『満月をまって』掛川恭子訳,あすなろ書房,2000
山奥でかごをつくって暮らす人たちがいた。満月の日ごとに,父はかごを町へ売りにいく。満月の日なら帰りの夜道も明るいからだ。少年はいつもかごづくりを見ている。よいトネリコの木を選び,削いでリボンにし,丁寧にかごを編む様子を見ている。少しは手伝いもする。父と一緒に町へ行きたいが,なかなか連れていってもらえぬまま,満月をまつ日がつづく。
9歳になった少年は,はじめて町へ連れていってもらう。はじめての町は色彩に満ちており,心が躍る。しかし,町は少し腐った匂いもしていた。かごを売り,母から頼まれた買い物を終えて帰ろうとするふたりに,町の男が罵声を浴びせる。山奥での生活をあざけり,かごを侮辱する。まわりの男たちもわらっている。父はしらんぷりしろという。なかなか連れてきてくれなかったのはこのためだった。
少年は傷つき,かごづくりへのプライドを失う。母は気にするなというが,そうはいかない。いらだちが募り,少年は納屋に積み上げられていたかごを蹴り倒して崩してしまう。だが,かごは壊れなかった。そこへかごづくりの仲間が入ってきて言う。
「風からまなんだことばを、音にしてうたいあげる人がいる。詩をつくる人もいる。風はおれたちには、かごをつくることをおしえてくれたんだ」オークの葉が1まい,風にのって,納屋にとびこんできた。
「風はみている」ビッグ・ジョーはいった。「だれを信用できるか、ちゃんとしっているんだ」
それを聞いて,少年は,自分も「風がえらんでくれた人になりたい」と思う。
月の下,かごを編みながら,少年はついに風の声を聞く。
ぼくにはもうわかっていた。いつまでたってもつかえるかご。ぼくのつくるかごは、そういうかごだ。
風が、ぼくのなまえをよんでくれたんだ。
を読む。
ヒューバート・ドレイファスの『インターネットについて』の第4章で参照されていたので,読んでみのだが実に面白かった。キルケゴールってのは結婚できなかった婚約者のことをグズグズ思い悩み続けた軟弱な青白い哲学者だという偏見(それがいつどのように形成されたのかわからない)があったのだが,すっかりイメージが変わった。戦う実存主義者なのであった。
キルケゴール『死にいたる病・現代の批判』桝田啓三郎訳,中公クラシックスW31,中央公論新社,2003
以下はおおむねドレイファスの第4章の展開にそって,私の関心のあるところを増補しつつ書いてみたものだ。
キルケゴールは1846年にデンマークの「現代」社会を批判する「現代の批判」という論文を発表した。キルケゴールによれば,彼の時代は「無関心な反省と,身分と価値のあらゆる差異を水平化する好奇心」いわば「傍観的な反省」によって「すべての質的な区別を水平化」してしまう。あらゆるものは同等であり,そのために命を賭するような重要な意味を持つものは何もない(p.98,ドレイファス)。「束の間の感動に沸き立っても,やがて抜け目なく無感動の状態におさまってしまう」のだ(p.259,キルケゴール)。
を読む。
早坂隆『世界反米ジョーク集 』中公新書ラクレ,No. 164, 2004
シャレのめすというスタンスは悪くないが,すごく単純にブッシュがバカだというのが多かった。もちっとひねったらどうなんだってのも少なくない。
僕が好きなのは「各学会の結論」(p.88)と「あるアンケートの失敗」(p.27)だな。
今度会ったときに話します。
を読む。
池澤夏樹『世界文学を読みほどく 』新潮選書,新潮社,2005
京都大学文学部での集中講義の講義録。以下の作品を午前と午後にひとつずつ扱う濃密な講義。
スタンダール「パルムの僧院」
トルストイ「アンナ・カレーニナ」
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」
メルヴィル「白鯨」
ジョイス「ユリシーズ」
マン「魔の山」
フォークナー「アブサロム、アブサロム!」
トウェイン「ハックルベリ・フィンの冒険」
ガルシア=マルケス「百年の孤独」
ピンチョン「競売ナンバー49の叫び」
恥ずかしながら『魔の山』と『百年の孤独』しか読んでいないけど「読んでなくても講義に出てよい」とあるので安心してとりかかる。名作を現代といかに接続するか,について「世界」「場」「舞台」などをキーに見ていく。あらすじも紹介されるので,読んだ気になる。これはまずいかも。
「魔の山」は第一次大戦の戦敗国ドイツにむけて行われた「ヨーロッパのプレゼンテーション」だという指摘はおもしろかった。でも,そんな話だっけなぁ。(やや,こんなニュースが。「独シンボル「魔の山」舞台サナトリウムを売却 財政穴埋めに」)
ピンチョンもおっかなくて手のでない作家だったが,暖かく安定していて閉じている「温室」と,雑然としてワイルドで何が起こるか分からない「街路」という対比的な空間モデルは魅力的なので『V.』を読んでみようと思った。
さて,一週間の講義の全体の軸となっているのは,「羅列的」ということだ。
を読む。
山本柚実『〈五感〉再生へ—感覚は警告する 』岩波書店,2004
身体と社会の関わり。五感の衰え。偽物の感覚の拡大。そんなことのノンフィクション事例集。アフリカのマサイ族の視力は有名だけど,ものすごく遠くのジッとしている牛を見つけるのは得意だけど,手元で早く動くボールなんかは実は日本人のほうがよく見えているそうで,なるほど感覚は環境が鍛えるのであった。
握手してジャンケンをするゲームというのが出てくる。こどもとやってみたが盛り上がった。アイスブレーキングにはよさそうだ。恋愛じゃないキスやハグの習慣にとぼしい日本人は,他人に触る機会がすごく少ないものな。満員電車ってのもあるが。
事例はどれも面白いのだが,なんとなくものたらない感じはある。いろんな事例を読んで,「やっぱりな」「たしかにな」「そこまできたか」「たいへんだな」とは思うが,思いもよらないことは書いてない。それがそこと繋がるのか!キョーガク!みたいな展開はない。もっとも,私がそもそもお門違いの期待をして,それが外れたと言っているだけであるから,この本の価値はまったく下がらないけど。
著者のウェブサイト:山下柚実 | Yuzu Journal 2002
写真がよい。
が出た。
青木茂『まちをリファインしよう—平成の大合併を考える 』建築資料研究社,2005
2003年8月に大分県蒲江町で行われた「蒲江町 環境・建築・再生ワークショップ」の記録を核に,平成の大合併で大きく様相を変えることになる地方の町についての対談などをまとめたもの。ワークショップから一年半たっているけれど,本にするってのは大事なことだ。
私もファシリテータとして一週間,海にこもっていた当事者なのだが,地方をめぐる今日のいろいろな深刻な問題が,しかし陽気なかたちで,現れていたのだなあと改めて思う。
本江チームの面々は元気でしょうか。どうしてる?
を読む。遅ればせながら,ナレッジマネジメントの古典。
野中郁次郎,竹内弘高『知識創造企業 』梅本勝博訳,東洋経済新報社,1996
暗黙知と形式知,個人と組織で,2×2。
SECIモデル。
コミットメント。
のっけは西洋哲学と経営学における知識論のレビュー。
人名になじみがなければサクっと飛ばしてもいい。
アフォーダンスのギブソンやノーマンも注に出てくる。
日本対西洋という対比が強調されているのに違和感がないではないが。
家庭用パン焼き機や,日産のプリメーラ開発など「プロジェクトX」みたいな日本企業のモノグラフもおもしろく読めるが,やはり前半のSECIモデルの完成度の高さがすごいところ。経験者が,たしかにそうだったと思わされるモデルになっているのが評価の高い理由だろう。
ナレッジマネジメント関係にはひどい本も多い。分類のための分類というか,形式的な分類だけ延々とやっててダルダルというのが多いパターンだけど,これは違う。
も読む。
野中郁次郎,紺野登『知識創造の方法論—ナレッジワーカーの作法 』東洋経済新報社,2003
知識に関わる古今東西の諸理論をSECIモデルで切りぬくという体の本である。『知識創造企業』の前半分の理論編を丁寧に説明しなおして,後半の「プロジェクトX」部分をカットしたというような形。
基本的には,『知識創造企業』と同じようなことが書いてあるわけだが,「方法論」で切り分けてあるところが違う。SECIモデルの各局面に,西田幾多郎,プラトン,デカルト,デューイがあてこんである(p.60)のは,まあわからんではないが,さすがにアナロジーの行き過ぎという感じがした。
が出ました。
阿部仁史,小野田泰明,本江正茂,堀口徹編著
『プロジェクト・ブック』
彰国社,2005
ISBN: 4395241018
定価2,500円。
を読む。
大澤真幸『現実の向こう 』春秋社,2005
大澤が書店で行った講演をもとに書かれている。
現代社会の諸問題に対するいくつかの「実践的」で具体的な「提言」をふくむ,という。
たとえば,北朝鮮の民主化について。
北朝鮮の民主化は夢のように思われるが,むしろかのような非民主的な政治体制がいまも残っていることのほうが不自然である。
「だから,北朝鮮には,「お前はすでに死んでいる」ということを教えてやればよいわけです。[p.49]」
北朝鮮でなぜ革命がおきないかといえば,外に逃げられないからである。
1989年の東欧民主化のときに決定的だったのは「汎ヨーロッパ・ピクニック作戦」に見られるように「西側ヨーロッパが,東側から流れてくる大量の難民を受け入れる覚悟をした」ことだった[p.49]。
そこで,「日本と中国と韓国とが,北朝鮮からの難民を誘発し,そして彼らをいくらでも受け入れる覚悟を決めるのです。[p.51]」
これによって,北朝鮮の現体制が内側から崩壊し,民主化する可能性が出てくる。「いざとなったら難民になって外へと逃げられる。亡命できる。そうなると,内側で民主化運動の種が撒かれるのです。[p.51]」
日本としては,中国や韓国のことは決められないので,まず率先して,「日本は,北朝鮮からの難民をいくらでも受け入れる用意がある。何千人だろうが何万人だろうが,受け入れる用意がある[p.51]」と宣言する。中国政府を説得して,中朝国境を越えてきた難民を北朝鮮ではなく日本に送ってもらう。
こんな宣言をしたら本当に日本に何万人も難民が来てしまって困ったことにならないか。
そうはならない,と大澤はいう。なぜなら,「日本が難民受け入れを宣言すれば,絶対に韓国も受け入れることになるから」だ。日本が難民を受け入れているのに,韓国が,「では,日本が頑張ってください」とはいえない。北朝鮮難民だって日本ではなく韓国に行きたい。結果的に難民の多くは日本ではなく韓国に行くことになる。
韓国の負担は大きい。しかし,それでも東欧民主化の時と同様に覚悟を今しなければならない。そして,このとき韓国に生じる負担に対して,日本が経済援助を行う。朝鮮半島分断の原因は日本の植民地化にあるのだから,統一のコストを日本が負担するのは合理である。
この計画のミソは,アメリカの助けなしで実行できることである。「これがうまくいけば,僕たちが日米安保に対して持つ,いわれない依存感から解放される可能性がある。[p.53]」
大澤の議論には,具体的に想定される人数や金額が出てこない。ロジックだけが提示される。
提示されるロジックはどれも興味深い。荒唐無稽ではないかという批判もあるだろうが,そうきたか,というのが次々くる。その面白さを紹介しようとすると全文を書き写すようなことになりそうなので,読んでもらうしかない。上記の「北朝鮮民主化計画」にしたって,その前と後ろに,日本とアメリカの関係,国連安保理のあり方,平和憲法の存在意義などなどが綿密に織り込まれたロジックが提示されているので,とても全貌を示せてはいない。
内容とは別に,論理展開の「息の長さ」ということを思いながら読んだ。あるいは「バッファの容量」とでもいうべきか。いわゆる難しい本というのは,息の長い議論が続く。とりくんでいる問題が複雑で難しいからである。簡単に結論がでるような議論は,最初から問題が簡単だったか,あるいは,簡略化された偽の問題を解いているのではないかと疑ってよい。
息を長く考える,または息の長い議論につきあうということの練習として,本書での大澤の議論のステップは,ちょうどいい長さなのではないかと思った。そういう意味ではおすすめ。薄いし。
を読む。渡辺保志さんが紹介しておられたものだ。
フレドリック・ヘレーン『スウェーデン式 アイデア・ブック』中妻美奈子監訳,鍋野和美訳,ダイアモンド社,2005
固定された考え方をゆさぶって,新しいアイデアを出しましょうという話が,やわらかな語り口と,イラストで,絵本のようにまとめられている。よくある話といえばそうだけれども,エピソードも楽しいものがもりこまれている。
大きなナンバーを打ってキーフレーズを並べる手法は,我々の『プロジェクト・ブック 』と通じるものがあるけど,我々の本にはこういう可愛らしさはないな(笑)。
「囚人用ベビーフード」という話。
フロリダでは,春休みになると学生が羽目を外して大騒ぎをするので,警察は対応に追われていた。捉えて留置しても,それがかえってマッチョでクールとされるような風潮もあって,罰を厳しくしてもまるで効果がなかった。そこで署長は留置した学生にベビーフードを食べさせることにした。「留置場帰り」は,もうマッチョでもクールでもなくなった。
「アイデアメーション」というのは,アイデアとインフォメーションをあわせた筆者の造語。誰でも最初に思いつくアイデア,というほどの意味。レンガ一個の使いみちを5通り考えよ,という問題を出すと,「武器」「本立て」「グリル」「ペン立て」「建築材料」のうち二つが必ず答えに含まれているという。そういうものはアイデアとは言わない。「問題は,多くの人がアイデアメーションにすぎないものを素晴らしいアイデアだと勘違いすることです。[p.53]」ああ,耳が痛い。
一度も読んだことのない雑誌を買って読む,というのもよいトレーニングになりそうだ。
を読む。
吾妻ひでお『失踪日記 』イーストプレス,2005
アマゾンで売り上げ5位であるから,大変なヒットだろう。それだけのことはあって,確かに猛烈におもしろい。「がきデカ」と「マカロニ」とともにあった絶頂期少年チャンピオンの「ふたりと5人」のあづまひでお(この作品は吾妻にとってあまり楽しい仕事ではなかったことをこの本で知る)が,89年に突如仕事を放り出して失踪し,「コジキ」になり,ガス配管工になり,再び漫画を描くが,アル中となって強制入院させられ……という実話の顛末を,自身を題材とした漫画に仕上げている。アンチヒーロー気取りではなく自虐的でもなく,絶妙の距離感で客観化した自分を笑っている。そこが共感を呼ぶんじゃないか。明日は我が身と感じつつ,でもそれが悲惨なばかりでもないようにも思われ,そういうのもアリなのでは,と。
巻末の対談で,とりみきが絵,特に背景を誉めている。「こういうデフォルメされていて,でも何を描いているかはっきりわかって,しかもまるっこくてかわいい,それでいてちょっと心理的不安まで表現されているようなタッチのある絵[p.197]」だというのだが,それは本当にそうだと思った。とりみきが指摘しているp.50の雪景色は読んでいても感嘆したところだったし,コジキとして残飯やシケモクをあさって歩き回るところの都市空間の描写なんかもとてもいい。p.30の夜中の住宅街で「静かだなァ」とつぶやくコマや,p.76の花見の情景を俯瞰するコマなんかすごくうまいなあ。
手に取って,絵が好ましいと感じられるなら,ストーリーは絶対面白いのでおすすめ。
を読む。
諏訪哲二『オレ様化する子どもたち 』中公新書ラクレ No.171,2005
学校はそれほど変わっていない。社会が変わったのである。
子どもは,社会の影響をモロに受ける。社会が変われば,子どもは変わる。
諏訪は,「共同体的な子ども」から「市民社会的な子ども」に変わったのだという。
教育は,共同体においては「贈与」としてイメージされるが,市民社会においては「商品交換」として考えられる。
教師たちの意識では教育活動(行為)は「贈与」である。教師の主観からいうと「教え」に見合うだけの勉強(成果)が返ってくることは絶対にないから「商品交換」(等価交換)であるはずがない。「贈与」は実感にぴったりくる。そして,「贈与」は基本的に与える側からの一方向的なものであり,与えられる側に「負債」の意識を与える。[p.80]
学校において社会的な「私」になるより先に,すでに「消費社会」における「消費主体」として自己を確立してしまっているのが「オレ様」である。にも関わらず,学校においては,絶えざる自己変革を求められる「教育の客体」として遇される。このことに耐えるのは難しい。
「市民社会的な子ども」は一方的に「贈与」されることの負債感に耐えかねて,「等価交換」を求め「オレ様」を立ち上げる。
幼児的な全能感に満ちた「この私」から,社会のうちに相対化された「私」への移行は,ある種の挫折として経験されるよりほかない。学校はその場となる。「この私」=「オレ様」が強固なものであればあるほど,この移行は困難である。
極端に言うと,家庭(の親たち)に教養や文化力があって子どもを〔ママ〕「消費主体」の自信を持たせると危険であることを知っていて,なおかつ,人が生きるということは単に経済的な自立を意味するわけではないということを「教える」ことのできる家の子どもたちは,「学び」に向かっていける。家にそういう「文化資本」のない子ども(若者)たちは,経済にただ翻弄されるだけである。もちろん,ここでの「教える」とは,すべての「教える」と同様に,必ずしも「言葉で教える」ことではない。教えるというと,すぐに言葉を想像してしまう人は,あまりにも深く教育の内部に囚われている。[p.222]
宮台真司や上野千鶴子らの教育論を批判する第二部は,取り上げられている論者の議論をあらかじめ知っていないと読みにくいだろう。
内田樹の書評が明快。
内田樹の研究室: オレ様化する子どもたち
を読む。
増田聡,谷口文和『音楽未来形—デジタル時代の音楽文化のゆくえ 』洋泉社,2005
すごく面白い。
書名に反して,音楽産業のここしばらくの動向を予測するようなものでは全然ない。そのつもりで読むと,アマゾンの星一つの書評のような感想を持つことになるかもしれないが,そういう本ではそもそもない。
「本書は,20世紀以降の音楽テクノロジーが,生産や流通,対象,聴取といった音楽を取り巻くコンテクストを,どのように変えていったのかを包括的に検討する試み[p.46]」だと自らいうだけあって,音楽とテクノロジーの関係についてのもっとずっと原初的な議論が展開される。
音楽はもともとは身体的に記憶されるしかないものであった。それが15世紀の楽譜,20世紀の録音,そしてデジタルデータへと,音楽の記録テクノロジーが変化してきた。
録音テクノロジーの歴史は,従来の音楽文化をとらえる基本的な概念枠であった「作曲と演奏」「録音と聴取」「複製と編集」それぞれのあいだの区別を曖昧にする方向に進んできた。[p.92]
このことが,音楽という「作品」のありかたを変え,「音楽を聴くこと」の意味を変え,DJのような新しい音楽行為を生み出し,著作権ビジネスの構造に軋轢を生じさせている。
たとえば,オーディオマニアとクラバーの音楽の聴取のしかたは全然違う。オーディオマニアが,アウラをもった「生の音楽」と,それを消失した「レコード音楽」を二項対立的に考えてしまうかぎり,どんなにオーディオシステムを改良しても,構造的に音楽のアウラは失われ続け,「自分は音楽を聴いていないかもしれない」というジレンマにとらわれ続けることになる。一方のクラバーは,「原音」などというものをそもそも想定していないからこそ,PAから出力されるアンセムにアウラを体験することができる。
アウラを失わせているのは,レコードという複製物ではなく,レコードを通じて音楽を聴こうとする人間の想像力の方である。[p.214]
音楽という客体化されたオブジェクトがあるのではなくて,人間と環境との相互作用のうちに音楽が立ち上がるのだと考えれば,納得のいく話である。ところで,完全を追求する趣味はなんでもそうなんだろうけど,オーディオマニアが構造的に音楽のアウラを取り損ね続けるという指摘はせつないものがあるな。
文化とテクノロジーの関係は,かねてから関心のある領域なので,大変面白く読んだ。
使い慣れたテクノロジーを使い慣れたやり方で用いた音楽を「当たり前」なものととらえ,逆に自分にとって自然化されていない(=なじみのない)テクノロジーの用い方に依存した音楽を「人工的」なもの,あるいは「ニセモノの音楽」と見なしてしまうのだ。[p.98]
なんていう指摘は,「音楽」を別の何かに置き換えても通用しそうだ。
ものをつくるってことの枠組みが変わってきている。
音楽も例外じゃないのだった。
(それが安定していたことなんてない,というのが正しいのかもしれない。)
を読む。
Jane Fulton Suri + IDEO, Thoughtless Acts?: Observations On Intuitive Design , Chronicle Books, San Francisco, 2005
人々が「何気なくやってしまう行動」をとらえた写真集。
巻末に簡単な解説があるだけで,ほとんどが写真だけ。小さな本である。
つい,舗道の目地に歩幅をあわせて歩いてしまう…
ひょっと,ベビーカーのハンドルにレジ袋をぶらさげる…
ささっと,紙皿を折って熱いピザを掴む…
こういう何気ない行動は,人間が環境と直感的に関わり合うなかで,それとは意識されることなく,生まれてくる。そこにデザインのヒントがある。だからリアルな世界を観察せよ,そして見たものを説明せよ,と著者はいう。
各頁の写真にはキャプションがない。
だから,なんでこの写真が載ってるのか,すぐにはわからないものもある。
見たとたんに,そうそうあるあるオレもやる,とニヤけてしまうのもある。
答えは,なぞなぞの本のように巻末にまとめられている。
デザイナーとそのたまごにとって,本書は「観察」の問題集として使える。
「実際の生活の中からインスピレーションを得ようとすること。これは実にわかりやすいアイデアだ。なのに,あっさり見落としてしまう。我々は伝統的な業界における既成のプロセスをふんだ職業的な役割にすっかり染められているのだ。(p.178,引用者訳)」
IDEOの新刊。
著者はIDEOのヒューマンファクター部門のディレクター。
を読む。
株式会社竹尾編,織咲誠・原研哉+日本デザインセンター原デザイン研究所企画構成,『FILING—混沌のマネージメント 』宣伝会議,2005
『HAPTIC』と同じ,竹尾+原研哉のシリーズ。
老子の言葉が引かれる。
「知識を獲得すれば,日々ものが増え,智慧に達すれば日々ものが減る」
……我が身のあさましい毎日を反省させられる。
著者は,フルコースのカトラリーではなく箸のような,十徳ナイフではなく鉈のような,ファイリングをしようという。
それって「驚異の部屋」だな,と思っていたら,ちゃんと対談に西野嘉章さんが出てきた。
文字にできる情報は,形式知としてデジタル・アーカイブに格納されていくであろう。暗黙知はモノにも宿っているから,モノとして投げ出されておくよりほかない情報の在り方がある。そういう情報のファイリングについての本である。
暗黙知を扱っているので,ファイルを「共有」することについての知見は少ないように思った。それを期待して読むと,日常の普通の意味での「ファイリング」の実践との間にギャップを感じてしまうことになるだろう。
を読む。
野矢茂樹 文,植田真 絵,『はじめて考えるときのように—「わかる」ための哲学的道案内 』PHP文庫,2004
『論理トレーニング 』の野矢茂樹の本。哲学入門である。哲学史入門ではない。
考えるってどういうことかを考える。
「8年間ずっと」フェルマーの予想について「考えて」いた数学者がいる。恋人のことをいつも「考えて」いる人がいる。「ずっと」考え続けているというとき,「考える」ってのは何をすることなのか。
「考える」というのは「スキップする」というような特定の行為の型とは違う,と野矢は言う。だから,考えているときは,何をしていてもいい。何もしてなくてもいい。ただ「問題をかかえ,ヘウレーカ(ユリイカ)の声に耳を澄ますこと,研ぎ済ますこと」が考えることなのだ。
p.121に面白い絵がある。なんでもないガランとした部屋の絵。
この絵のタイトルは「この部屋にはパンダがいない」だという。たしかにパンダはいない(笑)
ないものがある,と我々はいう。何の関心もなく世界をみわたせば,そこにはただあるものだけがある。「パンダがいない」ということができるのは,パンダがいる可能性をつかんでいる者だけだ。「否定というのは,可能性と現実のギャップに生じる。」そして,「現実ベッタリで可能性の世界がないならば,考えるということもない。」(p,150)
プーにイーヨーがいう。
考えるってのは,「つめこんで,ゆさぶって,空っぽにする」ことだ。
を読む。
佐藤優『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて 』新潮社,2005
「鈴木宗男事件」で背任と偽計業務妨害で有罪判決をうけた外交官の手記。
風邪引いて床に臥せりながら一気に読む。おもしろい。ディテールから全体構造まで,ノンフィクションとは思われない完成度。
なにしろおそろしく冷静に書かれている。タフであるとはこういうことなのだろう。『失踪日記』もそうだけど,あまりに体験が凄いと,人はスッと冷静になってしまうものなのかもしれない。かといって,漫画にせよ文章にせよ,それをキチンと表現できるかどうかは別だが。
関連情報が下記にまとめられていて参考になる。
チラシのウラ
なお,どんな顔の人だったかなとグーグルのイメージ検索をすると,同名(読みは違う)のAV女優が多数ヒットするので注意。いろんな意味で。
を読む。
イームズ・デミトリオス『イームズ入門—チャールズ&レイ・イームズのデザイン原風景 』泉川真紀監修,助川晃自訳,日本文教出版,2005
孫が書いたチャールズ&レイ・イームズの伝記。
「パッと見チャラいが実はイイ!」と中西泰人さんが誉めていたので買ったのだが,積んであった。西村佳哲さんがこの本に出てくる壁の使い方をすごく面白がっていたのが面白くて,ひさしぶりに手に取り一気に読む。
ふたりを知る人々の言葉を多く集めた労作。図版もたっぷりある。文章はやや冗長で,もっとすっきり書けるんじゃないかとも思った。
たくさんのエピソードが紹介される。
新婚のふたりはノイトラの設計したアパートに住んだ。転居するとき,ノイトラに手紙を書いた。「私たちはあなたが創造したアパートに住みながら,まるで自分の家の庭でのびのびと暮らしているように感じ,そして,住まいを育む喜びを知りました。(p.103)」彼らの「住まいを育む」という感覚は,映画「House: After Five Years of Living」を見ればよく分かる。
イームズは映画をたくさんつくったが,プロジェクトを議員団に説明するには映画を用いるが最適だという。「照明が消えて映画がはじまってしまえば,議員さんたちも席を離れたり,『失礼だが私は賛成できないね』といったりしなくなる」からだ(p.213)。この手は教授会でも使えるかもしれないねえ。
p.78のバナナの葉の話もいいな。
インドでは,下層階級の人はバナナの葉からごはんを食べる。少し上のカーストの人は皿から食べる。さらに上になっていくにつれて,ますます美しく立派な皿を使って食べるようになる。「でも,お金だけでなく経験も知恵もある人は,もう一歩先に進んで,バナナの葉からご飯を食べるのです。」
でも,読めば読むほど,ふたりが神格化されていくような印象がある。それがちょっと不満だ。チャールズは「驚くほど私的な人間(p.219)」であり,プライベートを見せるのを非常に嫌ったというから,そのせいかもしれない。
を読む。
フリードリッヒ・ニーチェ,『キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』』適菜収訳,講談社+α新書,2005
ニーチェが精神錯乱に陥る前に最後に書いた『アンチクリスト』の「超訳」版。
言葉遣いがあざとい所もあるが,こういうニーチェもあるのかあと思い,感心しつつ読む。なにしろスラスラ読めて,何を言ってるかもよくわかる。どんなに学術的に正しくても,読んでもわけがわからないのでは,批判を始めることもできないもんな。
こういう哲学書「超訳」はもっとあってもいい。
ニーチェ初挑戦の方にもおすすめ。
を,中西泰人さんの紹介で読む。
水越 伸,『メディア・ビオトープ―メディアの生態系をデザインする』紀伊国屋書店,2005
生物生態系をメディアの生態系と置き換え,具体的な人工物やそれが組み合わさった景観をメディアとそれを支える技術システムとして考えてみると,メディアイロンの重要な課題とその解決の糸口をよりうまく見出すことができるのではないだろうか。(p.79)
というわけで,メディアとコミュニケーションに関する問題を,「ビオトープ」のアナロジーの体系で網羅的に説明しようという試みである。なるほど高い整合性でアナロジーの体系が構築されている。しかし,これは壮麗な理論構築物の完成を愛でる種類の本ではない。
比喩の体系がいくら整合していても,わかったようなわからないような感じ,なんだかうまく丸め込まれてしまったような感じはどうしても残ってしまうのである。
しかし,たぶん,すっきりしてしまってはいけないのだ。「これからの情報社会のなかでメディアに対して批判的になり,情報は注意深く選択していかなければならないと痛感しました」などというようなステレオタイプの感想には筆者自身も苛立っている(p.108)。本書での議論が,ずっしりと腑に落ち,血肉化されるためには,自らのコミットメントが必要なのだろう。これは読者に行動せよと促す本なのである。
p.97からのメディア・リテラシーの説明はとてもよいと思った。紹介されている「媒体素養」という訳語もいい。
を見る。
「ピタゴラスイッチ」のおどろおどろしい版。燃え上がる炎や液体の化学反応や接着剤のベトベトなど,子供が真似するといけないアイテム満載。床の汚れが,途方もない時間を費やしたであろう試行錯誤を偲ばせる。
音楽もオチもないアンチクライマックスな構成。30分ぐらい延々と続くので正直飽きてくるかも。むしろダラダラとループさせて見るのもいいかもしれません。
ホンダ アコードのCMでも似たようなのがありますね。「COG」とかいうタイトル。
こっちは床が汚れてませんw
リージョンコードの関係?で,Macの純正DVDプレーヤーでは再生できませんでしたが,VLCでなら見られます。
VLCでならいけるだろうと高をくくって買ったリージョン1の「コヤニスカッツィ」と「ポワカッツィ」は再生できず。ショック。変な規制は早くやめてもらいたい。
Godfrey Reggio『Koyaanisqatsi & Powaqqatsi (2pc) / (Dol Dts Btb)』
※引退して出番のないPismoの余生をリージョン1プレイヤーとして過ごさせるというのはどうか。
をパラパラと眺め,ところどころ読む。
Michael Sheridan, Arne Jacobsen,『Room 606: The Sas House and the Work of Arne Jacobsen』,PHAIDON, New York, 2003
アルネ・ヤコブセンの作品集。タイトルにあるように,代表作「SASハウス」の,さらにオリジナルの状態のまま保存利用されている「606号室」にとくに焦点をあてている。
ヤコブセンは家具デザイナーとして知られているが,建築に関わるものをなんでもデザインしていた。SASハウスはその集大成ともいえるものだった。本書で紹介されているとおり,SASハウスにおいては,ボリュームスタディから,プランニング,カーテンウォール,室内の造作,照明,テキスタイル,もちろん家具,その他にもカトラリーから食器にいたるまで,終止一貫したテイストを貫きながら,文字通り隅々までデザインしている。
竣工当時の写真,図面,スケッチなどを集成した充実した作品集。フリーハンドの展開図のスタディ図面などは汲めど尽きぬ味がある。きわめてオーソドックスながら端正な造本も美しい。
専門の高度化が細分化を招き,ひとりひとりのデザイナーが手を出せる範囲が狭められている今日においては,このような仕事はほとんど不可能なように思え,縁遠く感じられるかもしれない。しかし,今日がコラボレーションの時代であるからこそ逆に,こうした徹頭徹尾一人称が貫かれた仕事をひとつの参照点として理解しておくことには意味があるのではないか。建物の設計にとどまらず,いろんなものをデザインしてみたいと思うのなら,自分の仕事へのスタンスとヤコブセンのそれとの距離を測ってみておくことには,たくさんの発見があるだろう。
を読む。
34人の現代思想家をパロディにした漫画。詳細な注付き。
ハイデガーとフッサール,デリダとハーバーマスのかけあいなんかをゲラゲラ笑いながら読む。漫画にしてみると強力なのは断然ヴィトゲンシュタインだな。
こういう建築家の本を作れるといいなあ。
を読む。
藤森 照信,『人類と建築の歴史』ちくまプリマー新書 No.012,2005
延々と新石器時代の話が続く。これは〈建築〉の誕生の物語だからだ。
藤森は,人類が農耕をはじめたことによって,従来の採集狩猟文化をベースとする地母信仰にくわえて,太陽信仰がはじまったという。
地母信仰が建物の内部というものをもたらしたことはすでに記した。では,太陽信仰は何をもたらしたんだろう。 外観である。大きく高い外観をもたらした。正面の外観のことをファサードというが,ファサードを出現させた。 地母芯が人をやさしく包む母のような内部を,太陽神が人の眼前にそびえる父のような外観をもたらし,ここに内外二つそろって,ついに人類は〈建築〉を手に入れた。(p.63)
木を伐ることのできる磨製石器の登場もまた建築を可能ならしめた。その後,青銅器や鉄器へと技術が整うことによって,建築の構法が確立されていく。
それから,一万年ぐらいの間,世界中で多彩な建築の展開があったのだが,モダニズムで収束してしまったと藤森はいう。
モダニズムの建築は,アールヌーボーを皮切りに30年ほどをかけて世界中で同時多発的におきた,いわば「祭り」であった。それは「科学技術時代の人間の,建築的総意のたまものといってかまわない。(p.158)」
青銅器文明の四大文明にはじまり二千年近くつづいた多彩な建築の歩みは,その歴史と文化を完全に否定されて終わった。 ここにくれぐれも注意してほしいが,バウハウスのデザインをヨーロッパとつないで考えてはならない。(中略)この六歩目の帰着はそれまでの四歩五歩をリードしたヨーロッパ自身にとっても意外なもので,エジプトにはじまりギリシャ,ローマをへてつづいたヨーロッパの建築の歴史を自己否定してしまったのである。バウハウスのデザインの背後にヨーロッパの歴史や文化の陰を見つけることはできない。あるのは幾何学という数学。数学に国籍はない。(p.156)
かくして,人類の建築の歴史は振り出しに戻る。
二十世紀をもって歴史がおわり,二十一世紀初頭現在の,日本をはじめ世界のモダニズムデザインの先端は,そういう漸近線状態にある。より軽く,より透明に,どこまで行きつけるのか。 (中略) 二十一世紀の建築は,より軽くより透明にを目ざす一団が世界の中心にあり,その周りには物としての存在感の回復を夢想する,バラバラでクセの強い少数者が散らばって叫んでいる。そういう光景になるのかもしれない。(p.168)
さて,そうした精緻を極めるマニエリスム指向のレースは,なるほどありえそうな構図だとは思うけど,その怒濤の漸近競争が何をもたらすのか,正直よくわからん。そう感じる時点で,私などは「世界の中心」にはいないってことだろう。しかし,そういう建築の「世界」が,より上位の「世界」とどのような関係にあるのかってことは,別に考えておかねばならないだろうけど。
藤森は「初めての建築の本」としてこれを書いたというが,むしろ大学院の受験勉強なんかで,断片的な建築史の知識だけがバラバラに放り込まれた状態で読むほうが,強引ながらもクリアな見取り図が得られるので効果があるように思う。
もちろん大学院レベルであれば,その「見取り図」を鵜呑みにせず,きちんと疑うことができるかどうかが問われるわけだ。この本のよいところは,なるほどって感じる部分と,そりゃ強引だろと感じる部分とがないまぜになっているところなのだから。
ジャケ買いならぬタイトル買い。とても楽しみ。
クラフト・エヴィング商會,『アナ・トレントの鞄』新潮社,2005
アナ・トレント ?
→ビクトル・エリセ,『ミツバチのささやき』
……んー,品切れで中古にプレミアムがついてしまっているなあ。再販すべき。
追記:届いた。さっそく読む。
この映画と同じように、この本もまた、これが終景だと実感できるラストシーンをもっていた。
を読む。
川崎 和男,『プレゼンテーションの極意』ソフトバンクパブリッシング,2005
いつもながらの川崎和男節。嫌いな人には受け付けにくい文体かもしれないが,私は慣れている。
服装を慎重に選ぼう,音楽を使おう,印象的な最終場面を用意しよう,などといった,普通の「プレゼンノウハウ本」とは違うアプローチから様々な議論が展開される。スマートにプレゼンをこなそうという了見のとは違う川崎のプレゼンテーションにかける気合いが感じられる。
一番関心をもったのは,「AとかけてBと説く,その心はC」という「謎掛け」のフォーマット(書中では「表現ルール」)を提示していることである。「どんなに長いプレゼンテーションでも,伝えたいポイントは,結局のところ,このAとBとCの3つでしかない(p.113)」という。
川崎はABCの順序は入れ替え可能だとする。——謎掛けとしては,AとBは交換可能だが,Cが先になると謎掛けにはならないのではあるが——このABCによって,「かけて,解いて,その心」を示すのだ。プレゼンテーションの中で,ABCを自在に入れ替えていくことで,ダイナミックでありながらポイントを外さないプレゼンテーションをすることができるというのだ。
「AはBである」という言明の形式によって議論をすすめようとすると,往々にして硬直的となり,議論のダイナミズムは失われがちとなる。謎掛けフォーマットによって,三者の関係を相互に置換しつつ議論を柔軟にすすめようという姿勢は,「デザイン」的なものだと思われる。
ここまで書いて気づいたが,謎掛けとはアブダクションにほかならないのだな。なるほどそうか。
さて,この本では繰り返し,「この本を信じるな」というメッセージが発せられる。型を身につけていないままに型破りであることはできないから,まずは型を身につけるべきだとは思うが,型通りではいけないこともまた同時に認識していなくてはならない。何かを学ぶためには,まずこのダブルバインドに耐えなくてはならない。
を読む。
Passion For The Futureで紹介されていたもの。
パトリック・G. ライリー,『鉄則!企画書は「1枚」にまとめよ』阪急コミュニケーションズ,2003
企画書を読んで意思決定する人たちは例外なく忙しい。長たらしい企画書は長いというだけで読まれることがない。企画書は密度と精度を高めて,簡潔に,明確に,具体的に,断固1枚にまとめるべし。
書かれるべきは下記の8つ。内容によってバランスが変わることがあっても,順序は変わらない。
1. タイトル
2. サブタイトル
3. 目的
4. サブ目的
5. 理由
6. 予算
7. 現状
8. 要望
十分なリサーチを経て集めた情報を吟味して濃縮し,冗漫な言葉を刈り込み,一枚に圧縮する。
本書にはそうして作った企画書の例がたくさん載っている。「1ページ企画書本」,つまり本書自体の企画書も掲載されているし,クフ王にピラミッド建設を促す企画書なんてのもある。確かに1分で読める。最後の「要望」がグッと来る。
今や忙しいのは経営者や投資家だけではない。原題は"The One-Page Proposal"であるから,「企画書」だとイメージが限定されすぎで,「申し込み」とか「依頼」とか,とにかく誰かに行動を求めるための言葉全般に適応されてよい議論だ。たとえば,メールで頼んだつもりなのに相手がちっとも何もしてくれない時には,相手の怠慢のせいにするばかりでなく,自分のプロポーザルが悪かったのではないかと反省してみるべきだろう。
「どんな用紙と活字を選ぶ?」という章が立てられているのが私には印象的だった。飾りのない白い紙に標準的なフォントを用いて黒一色でレーザープリンタで出力せよ,とある。それを折らずに渡す。送るときは大判の封筒で。川崎和男が『プレゼンテーションの極意』で「服装を慎重に選ぼう」と指摘するのと同様に,形をきちんとすることの大切さが指摘されているのだ。
邦題はカジュアルだし薄くて気楽な感じに見えるが,なかなかにインパクトのある本だ。
を読む。
小倉 孝誠,『『感情教育』歴史・パリ・恋愛』みすず書房,2005
フロベールの『感情教育』の読解である。様々な分野の古典的名作を高校生にもわかりやすく3回の講義録の形式でまとめる,みすず書房の「理想の教室」シリーズのひとつ。ほかにも『白鯨』や『こころ』などの小説,映画ではヒチコックの『裏窓』なんてのもある。他のも読んでみたい。
フロベールの『感情教育』は,1840年代のパリを舞台として,青年フレデリックの生活を通して「同世代の人々の精神史」を描こうとした風俗小説。本書はこれを,二月革命に関わる歴史,舞台となる都市空間パリ,アルヌー夫人や娼婦ロザネットらとの恋愛の3つの視点から読解しようとする。各章のはじめに関連する部分の抜粋が掲載されており,おってその部分が詳しく論じられるという形式。これらの引用部分は『感情教育』のハイライトでもあるから,元の本を読んだことがなくても楽しめるだろう。
を読む。
セシル・バルモンド,『インフォーマル』金田充弘監修, 山形浩生訳, TOTO出版, 2005
コールハースのボルドーのヴィラ,クンストハル,コングレキスポ
クルカ&ケーニッヒのケムニッツ
リベスキンのスパイラル
シザのエキスポ98ポルトガル館
ファン・ベルケルのアンヘルム中央駅
本書にとりあげられた上記作品の他にも
スターリングのシュトゥットガルト美術館
コールハースのシアトル図書館
リベスキンのユダヤ博物館
などなど
これらの構造デザインを行ったのが,構造家のセシル・バルモンドだ。
彼は,建築家との対話を通じ,きわめて合理的論理的なプロセスをへて,結果,グラグラしたインフォーマルなものをつくりだす。これらの作品が,なにほどか現代的で新鮮な形態に到達・提示し得たのは,建築家のビジョンもさることながら,セシル・バルモンドの卓抜な構想力の力によるものが大きいということがよくわかる。
こうしたインフォーマルな構造に対しては,構造と力の関係が直観的でなく捉えにくい,結果を見ても成立するのかどうか理解できず,コンピュータの計算結果を鵜呑みにするしかなくなる,などという批判がある。だが,本書を読めば,直観そのものにも「貧富の差」があることは明らかだ。合理的であることと複雑であることとは矛盾しないのである。
本書はこれらの建築の構造決定プロセスのケーススタディと,「インフォーマル」な構造に関する数学を話題にしたエッセーからなる。文中にちりばめられた小さなダイアグラム・スケッチが,いちいち的確であることにあらためて驚く。数学的な知識も前提とはされていない(もちろんそれがあればもっと楽しめるのだろうけれど)。
ユクスキュル, クリサート,『生物から見た世界』日高敏隆, 羽田節子訳,岩波文庫,2005
環境世界論の古典。手に入りにくくなっていたが,文庫になった。必読。
ジョン・L.カスティ,『プリンストン高等研究所物語』寺嶋 英志訳,青土社,2004
1946年,すなわち終戦直後でソ連への恐怖が高まるアメリカ,そのプリンストンにあるIAS(Institute for Advanced Study)を舞台に,そこに集まった数学者や物理学者がなした「コンピュータ時代の夜明けに伴って生じた知的論争のいくつかを部分的に虚構として,部分的に事実として伝える試み(p.7)」である。実在の人物を登場させ,いかにも彼らが言いそうなことを言わせ,そうすることで架空の論争を行うという一種のSF,つまり科学的フィクションとして書かれている。
フォン・ノイマン,ゲーデル,オッペンハイマー,アインシュタインら,本書の登場人物たちが議論する中心的な問題は,科学的知識の限界はどこにあるか?,である。
ゲーデルの不完全性定理,アインシュタインの特殊相対性理論,くわえてハイゼルベルクの不確定性原理。これらはいずれも20世紀の偉大な理論的達成であるが,共通するトーンがある。これら三つの理論はすべて「本質において,それらのおのおのは,論理分析と数学という道具を用いることによって,私たちの周りの世界について私たちが知りうることには限界があるということを主張」している(p.55)。科学的知識には限界があることが証明されてしまったのである。
この限界感,閉塞感を打ち破ろうとするのが,フォン・ノイマンである。ノイマンは,膨大な計算能力,すなわちコンピュータを製作し科学に用いることで,かつて望遠鏡や顕微鏡が科学にもたらしたような新たな知識の地平を切り開こうとする。
しかし,アインシュタインもふくめて多くの科学者は,その意義を理解しようとしない。IASは伝統的に純粋な理論的研究のみにフォーカスし,実験室や実験的研究部門は持たないことになっていた。計算機のような「工学的」なものは他所でやればいい。
フォン・ノイマンは,コンピュータ製作への許可を求める評議会でのプレゼンテーションで次のように語る。
このコンピュータは,非常にたくさんの電気スイッチを収容するための物理的装置です。これらスイッチのおのおのは,ある瞬間に二つの位置のひとつ,オン(入)またはオフ(切)をとることができます。コンピュータがいま何を計算しているかを決定するのは,このスイッチのオン−オフのパターンであり,そのパターンがどのように瞬間から瞬間へと変化するかなのです。パターンと,そのパターンを変えるための規則は,物質でもエネルギーでもありません。それらは純粋な情報なのです。その意味で,コンピュータのオン−オフのパターンは,私が黒板に記号xを書くのと完全に類似しています。このxは現実世界における何かを表すものと思ってください。それはまさしく記号であって,現実のものではありません。ちょうど地図が物理的な領土でないのと同じです。しかし,私たちはそのような記号と規則を用いて一方の記号のセットを他方のセットに変換し,現実世界の関係を表すことができます。このコンピュータはさまざまな記号のセットを処理することができるだけでなく,人類の歴史におけるどのような装置よりも早くそして確実にパターンをつくったりこわしたりすることができます。そのことがこの機会がIASで製作されるべき理由なのです!それが前衛的な工学の一部だからというのではなく,それが科学の焦点として,情報が物質とエネルギーに取って代わることの始まりだからです。(強調は引用者による。pp147-148)
我々はなんのためにコンピュータをつくったのか。
その原初のビジョンはどのようなものであったのか。
そういうことを考え始めるにはよい一冊。
著者のジョン・カスティは,自身「複雑系」研究で名高いサンタフェ研究所のメンバーであり,ウィーン工科大学の数学教授。多くの科学読み物を書いている。『ケンブリッジ・クインテット 』は以前に読んだが,この本とよく似た趣向で楽しめる。こちらの登場人物は,遺伝学者J・B・S・ホールデイン、物理学者アーウィン・シュレーディンガー、数学者アラン・チューリング、そして哲学者ルードヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン。で,論題は人工知能。激闘!チューリング vs ヴィトゲンシュタイン!!!
を読む。
砂田 光紀, 国土交通省九州運輸局, 九州産業・生活遺産調査委員会,『九州遺産―近現代遺産編101』弦書房,2005
九州の建築についての仕事をすることになって,高木正三郎さんの紹介でこの本を知った。
鎖国時代の長崎や独自外交の薩摩藩の時代から,富国強兵政策下における採炭・製鉄・造船と,九州は日本の近代化の先駆の土地として,様々な産業遺産が集積している地域だ。本書は九州に残るこれら近現代の産業遺産を取りおろしの美しい写真と簡潔な文章とともに,101箇所紹介している。
たとえば最初に紹介されているのは大分の「白水溜池・堰堤」。溜池を支える高さ14mの石造りの堰堤には,あふれ落ちる水の流速を制御するための三次曲面と段状の造形が凝らされている。この凝灰岩の石段を跳ね落ちる流れの姿を捉える涼しげな写真が目を奪う。
ダムや橋,鉄道などの産業遺産,要塞や滑走路などの軍事遺産,庁舎や学校,教会などの建築を中心とする公共・生活遺産,旅館や銀行など商業遺産,これら4つのカテゴリーに整理されている。幕末から昭和30年代までに築かれたこれらは,いずれも素晴らしく魅力的に見える。
その魅力は,あとがきに端的に整理されている。
何がこれほど心を惹き付けるのか。つぶさに観察すると,現代の構造物からは感じ取れない熱を帯びている。新しい技術に果敢に挑戦する情熱。素材をしっかりと選び,職人たちが腕を競い合った末に生まれた威厳と誇り。海外からの技術導入でもたらされた美的感性と融合する日本古来の伝統美。こうした「あたりまえのこと」が積み重なって,遺産と呼ばれるにふさわしい風格を身に纏っている。時には暗い陰を背負う遺産もある。悲しい戦争や強制労働の歴史。それらを包み込み,未来へのメッッセージを発する「時の旅人」がそこにいる。(p.270)
全頁フルカラーで,なんと2000円。
読者は本書のスポンサーに感謝せねばならない。
を読む。力作。恐れ入りました。
ばるぼら,『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』翔泳社,2005
私が20年ぐらいかけて体験してきたものと,シンクロしたりしなかったり。自分がいくらかは知っているものについて書かれた「歴史」を読むと,「歴史」ってのはなんのことなのかを考える契機になるな。
を読む。
博報堂パコ・アンダーヒル研究会『ついこの店で買ってしまう理由(わけ)』日本経済新聞社,2005
パコ・アンダーヒルのものは2冊出ているが,その活動を日本に適用して整理したのが本書。前2書が読み物的であったのに比して,本書は非常に整理してあって,見開きのリストになっている。わかりやすいといえばわかりやすいのだが,整理されすぎていて勢いがないようにも思えた。マニュアル化されているというか,パワーポイント化されているというか。本書をチェックリストのようにして,自分の店を反省してみることはできるだろうが,そのあと,どうしたらいいのかを考え始めるためには,前書にあたる必要があるんじゃないか。
を読む。
森 健,『インターネットは「僕ら」を幸せにしたか?―情報化がもたらした「リスクヘッジ社会」の行方』アスペクト,2005
「利便性と引き換えに失ったものは何か?」と帯にあるように,インターネットのネガティブな側面を日本国内の事例に即して整理している。結論からいうと,「失ったもの」は「プライバシー」「自由」「民主主義」「多様性」「主体性」等々なのだが,類書にありがちな徒に扇動的な調子はないので,落ち着いて,でもすらすらと読める。
スパムに破綻寸前の電子メール,即レスしなきゃならない携帯メール,グーグルにヒットしないものは存在しないのと同じ,ブログとジャーナリズム,EPIC2014が示すようなパーソナリゼーションと集団分極化やサイバーカスケード,ICタグとICカードがリンクして個人情報が大規模かつ徹底的に収奪される超管理社会——そこでは,政治と商業が手を携えており,消費者も自ら管理を望む——,リスクヘッジのつもりがかえって不信の連鎖による悪循環を生み出してしまう監視社会,などなど。
徒に扇動的になっていないのは,著者自身がITの恩恵をたっぷり享受しており,しかも,そうした新しい技術に強いシンパシーをもっているからこそ感じてしまう「居心地の悪さ」という矛盾に自覚的だからだ。
必ずしも斬新な視点や画期的な理路が提示されるわけではないけれども,情報社会のビジョンを議論するならば,たとえば卒業論文で「情報化社会が……」などと口にするつもりならば,本書の議論くらいは常識的な共通認識としておさえたうえでなければならないだろう。
インターネットの社会的ダークサイドを一覧する入門書として本書は好適。もちろんダークサイドであるからして,さらに掘り下げようとすれば底なしではあろうが。
あと,松江泰治の写真を使った装丁がすごく良い。
もとになったオンラインの記事:デジタル特捜隊:ITは人を幸せにするか
著者のウェブサイト www.moriken.org
を読む。森美術館での大規模な展覧会を前に,BRUTUSでも特集されている,水平線や映画館のスクリーンなどの長時間露光の写真で知られる美術家杉本博司の随筆集。雑誌『和楽』での連載を主とする。代表的な写真も多く収録。
杉本 博司,『苔のむすまで』新潮社,2005
ニューヨークの骨董商として,「古美術の販売および現代美術の製造販売」をおこなってもいたという杉本は,平安美術を中心とする古美術にも造詣が深く,日本趣味の雑誌連載ということもあって,仏像や書などの日本美術史……にとどまらず日本史に関わるエッセーが多い。天皇が出てくると敬語なのが妙に新鮮であった。これまで私には,直島の護王神社のような仕事をなぜ「写真家」の杉本博司がやっているのかと疑問だったのだが,まずもって杉本は「美術家」なのだと知る。そう思ってみなおすと,一貫性が見えてくる。長時間露光で撮影される「海景」や「劇場」がそうであるように,本書のタイトルが示しているように,一貫するテーマは持続する時間だ。杉本の写真は,否応なく,そこに封じ込められた時間を意識させる。
比較的新しい写真の連作「建築」は,まったくのピンぼけ写真にみえる。
——私のカメラの焦点の無限大の倍という点に,無理やり機械的に設定したことによってボケたのだ。この世にはないはずの,無限よりも倍も遠い所を覗こうとして,ボケをかまされたとでも言っておこう。(中略)
理想が現実と妥協した結果が,建築物なのだ。どれくらい現実との妥協に抵抗できるかが,一流の建築家であることの証となる。言い換えれば,建築物は建築の墓なのだ。その建築の墓に,無限の倍の焦点を当ててみると,死んでも死にきれなかった建築の魂が写っていることがある。(p.15-16)
文章はいたって読みやすい。が,話題はドンドン展開して,ふっと終わるので,もたもたしていると置いていかれる感じもある。
同時期に出た『BRUTUS』の杉本博司特集も作品制作の様子や細かいバイオグラフィなどもあって楽しめる。額縁の作り方も興味深い。合わせて読めば展覧会の予習としては十分だろう。
さあ,展覧会に期待。
を読む。
ドナルド ショーン,『専門家の知恵―反省的実践家は行為しながら考える』佐藤学,秋田喜代美訳,ゆみる出版,2001
邦題が内容とフィットしていないので損をしていると思う。これは「専門家」のありかたをラジカルに再検討している本だ。
Donald Schön, The Reflective Practitioner: How Professional Think in Action, Basic Books, 1983 の「第二章 技術的合理性から行為の中の省察へ」と「結論 専門職とその社会的地位への示唆」の三分の二を翻訳したものである。原著は様々な事例研究を含む膨大なもののようだが,その中核部分だけを抜き出して訳出したものが本書だ。
なので,議論はいきなり非常に抽象度の高い水準ですすんでいく。それが読みにくい印象を与えることは否めない。が,訳者らによる「序文」と「解説」が,端的に議論の構図を整理しており,まずはここを読んでおくのがよい。
きちんと整理して紹介したいところがだ,とりあえず,裏表紙の紹介文を抜き書きしてお茶を濁す。
専門家の資質や能力を疑う事件が続出している。専門家と社会との関係が厳しく問われ,その知識と技術と見識の相対にわたるパラダイムの転換がもとめられている。ショーンは本書で,「技術的合理性 technical rationality」に基づく「技術的熟達者 technical expert」から「行為の中の省察 reflection in action」を中心概念とする「反省的実践家 reflective practitioner」という新しい専門家像への転換と,その実践的思考のスタイルを鮮やかに描き出している。それは専門家教育のカリキュラム改革や専門値の構造の変革を迫るとともに,基礎科学や応用技術の「厳密性」において劣るために「マイナーな専門職」とされてきた教師や看護婦や福祉士などの実践を活気づける起爆剤となった。
本書で提示される「反省的実践家」および「行為の中の反省」の概念,そして『枠組みの省察』においてさらにショーンが展開させた「デザイン合理性 design rationality」と「枠組みの省察 frame reflection」の概念は,デザイン行為を理解するうえで非常に重要な概念だ。きっちりまとめて,なんかの講義で話すつもり。
を読む。
菅谷 明子,『メディア・リテラシー―世界の現場から』岩波新書,No.680,2000
このテーマを扱ったものの中ではよく知られたもの。イギリス,カナダ,アメリカでの現地取材をもとに,メディア・リテラシー教育の現場をレポートしている。
ふたつの点が印象的だった。ひとつは,メディア・リテラシー教育が,「国語」の問題として位置づけられていること。もうひとつは,リテラシー教育は批判的な分析だけでは不十分で,自らのコンテンツ制作体験を通じて理解することが必要であると考えられていること。
が,11月4日配本となります。
建築家たちが自らの卒業設計を振り返り,何を考えたのか,それは今とどうつながっているかを語る企画。実にあざといタイミング(笑)で,悩める建築4年生には必読の一冊かと。
登場するのは以下の10名。
青木淳、阿部仁史、乾久美子、佐藤光彦、塚本由晴、西沢立衛、藤本壮介、藤森照信、古谷誠章、山本理顕
卒業設計作品そのものの図版も多数掲載。
いずれも今のキャラが既に出てておもしろいです。
本江も巻末で編者の五十嵐太郎さんと対談しております。
五十嵐太郎編『卒業設計で考えたこと。そしていま』彰国社,2005,2000円(税込)
『プロジェクト・ブック』と併せて読もう!
西林 克彦,『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』光文社新書, No.222, 2005
わからないかぎりは読みを深める努力がなされるが,中途半端に「わかったつもり」になってしまうことが,よりよい読みを阻害するという話。豊富な事例や練習問題によって,なるほど私は「わかったつもり」になってましたと反省することしきりだった。
本書は読みを深めることをねらって書かれているのだが,これは「言ったつもり」「書いたつもり」になってしまうことに対する警句として読むことができるだろう。筆者の述べる「いろいろ」や「善きもの」,「無難」などの「わかったつもり」を作り出す「魔物」の類型は,そのまま自ら行う発言や作文にもあてはまる。
「わかったつもり」になってしまう最初の読者は常に書き手自身なのだから。
を読む。前著『反社会学講座』のような切れ味は感じられない。切っ先が誰に向いているのかわからなくて,あまり笑えないのであった。続編というのは難しいものだな。
パオロ・マッツァリーノ,『反社会学の不埒な研究報告』二見書房,2005
についての本を二冊読む。
石川 九楊,『縦に書け!―横書きが日本人を壊している』祥伝社,2005
和田 哲哉,『文房具を楽しく使う (筆記具篇)』早川書房, 2005
現代社会の汎的情報化を危惧する書家によって書かれた前者は,コンピュータに近しい者からすると言いがかりだと言いたくなるような話の運びも散見されるものの,縦書きを前提として文字を作り言葉を鍛えてきた日本語の重みをあらためて考えさせられるものであった。
文房具のネット通販業を営む筆者による後者は,パソコンとケータイの時代であるからこそ,あらためて手で書く筆記具の意味について考えようとするものだ。最近の文房具ブームに便乗した「ブランド文房具紹介本」とは一線を画するアプローチで書かれている。シャープペンシルを「削られの筆記具」とよぶ感覚は,石川と遠く響き合うものだと感じられた。
コンピュータは極めて純粋な記号処理機構であるからこそ,言葉に敏感な人々に憧憬され,憎悪されもする。コンピュータの本質的な可能性の豊かさに比して,あまりにも貧しいその「身体」のありよう——キーボードやディスプレイにとどまり続けるインタフェイスの極端な乏しさ——に,我々は苛立たずにはいられないのだ。
だが,コンピュータの「身体」が新たな文字や発話のスタイルを作り出す契機となることは原理的にはありえるはずである。反動でも逆ギレでもない方法で,それを考えたいと思う。
このことは,菊地 成孔, 大谷 能生,『憂鬱と官能を教えた学校』(河出書房新社, 2004)にある「音響と音韻」の対概念とも関わるように思う。まだ読み始めたところなのだけれど。
を読む。
桂 米朝,『落語と私』ポプラ社,2005年新装改訂版(1975年刊行)
上方落語の桂米朝が,中学生以上の少年向けのシリーズの一冊として昭和50年に書いた落語の入門書。あとがきに小沢昭一が「この本は,数多(あまた)落語論のある中で,もうこれ一冊で十分と言いたいほどの決定版」と書いているけれども,これにはまったく同感だ。平易で流暢な語り口ながら,落語の形式,内容,構造,歴史,環境,状況,展望が,ぴっちりと描ききられている。落語っておもしろいなあと思ったら最初に読むべき入門書としてはパーフェクト。
建築系読者には,寄席の成立以前にさかのぼるその上演環境と,落語の形式がどのような関係にあったのかなどが興味深く読めるだろう。
たとえば,上方落語で見台を構え,張扇や拍子木で調子を取ることが多いのは,騒がしい野天で行われることが多かったからで,文人の趣味と結びついて最初から座敷で行われることが多かった江戸落語とは,育った環境が違うのだ,というような歴史。
あるいは,マイクロホンの音量はなるべく小さく絞り込むべきだとか,高座は後方の席の人からも演者の膝が見えるよう十分に高くなくてはならない,というような極めて具体的実践的な指摘がなされ,その指摘が落語という形式の本質と分ちがたく結びついていることが述べられるくだり。
私の関心に引きつけた言い方をすれば,本書は,行為と環境の関係性のデザインに関する極めてすぐれた考察に富んでいる。
クリアな構造,涼しい蘊蓄,深い洞察。
ことは落語に限らず,テーマがなんであれ,およそ入門書あるいは教科書は,この本のように書くのがよいのではないかと思われた。すぐれた本を読むといつも,いつかこういう本を私も書きたいと思うのだけれど,本書はまさにそう思わされるものだった。
を読む。『キッパリ!』の続き。おばあさんにやさしく諭されているような心持ちで読み終えた後,著者が年下だと知る。
「一人でも,行儀よく食べる」
五十嵐太郎+リノベーション・スタディーズ編『リノベーションの現場―協働で広げるアイデアとプロジェクト戦略』(彰国社,2005)が出ました。
連続シンポジウムの記録本。
私も阿部仁史さんと卸町のまちづくりについて話しています。卸町のまちづくりについて,まとまった形で公刊されたのはこれがはじめてかもしれません。ただ,シンポジウムからもう2年ぐらいたっているので,この本の内容よりもかなり進捗があります。
リノベーションの現場をサーカスよろしく巡業するという企画の枠組みがよいですな。
を読む。
森 博嗣,『大学の話をしましょうか―最高学府のデバイスとポテンシャル』中公新書ラクレ,No.195,2005
国立大学の理系,しかも建築学科での経験ということで,なんというか,まるでひっかかるところなく読む。著者の大学観についてはほとんど同意。
「教育というのは,先生が生徒に力を見せるものなんです。」(p.164)
御意(とほほ)
がアマゾンから届く。
アイン・ランド『水源―The Fountainhead』藤森かよこ訳,ビジネス社,2004
これから時間を見つけて読むつもり。楽しみ。
を読む。
鈴木 博之,『場所に聞く、世界の中の記憶』王国社,2005
建築史家鈴木博之のセンチメンタル・ジャーニー。『Pen』の連載をまとめたもの。
私たちが誰かに忘れ得ぬ印象をもったり,好きになってしまったりするのは,決してその人の容姿や能力を見ることによってではない。むしろ,その人がいつも見せているのとはまったく違う何かに,私だけが気づいてしまったと感じるときに,そうなるである。いつも朗らかな彼女が唇を噛んで涙をこらえているのを見てしまったときのように。不意を討たれ,声をかけることもできなかったときのように。
旅先の印象の表層は,出会った不思議な人々や珍しい料理や崇高な風景によって形作られるけれども,それは「いつも朗らかな彼女」の姿でしかない。鈴木は旅先のそういう姿にはほとんど触れず,観光名所とはいえない地味な建築の,なんでもないようなディテールに,「彼女の涙」を見つけてしまう。そして何もできぬまま,ただオロオロとするばかりである。
建築をめぐる旅は,なんとも迂遠でじれったい。そこがいいのだ。
を読む。
橋爪 紳也,『あったかもしれない日本―幻の都市建築史』紀伊国屋書店,2005
昭和15年の東京オリンピック,関東大震災のモニュメント,琵琶湖大運河,臨海東京市庁舎などなど,実現されなかった都市プロジェクトを淡々と紹介する「未建築史・都市計画未遂史」。淡々とした筆致が妙に印象に残るのは,研究対象になった様々な史料を満たしていたに違いない大袈裟で声高な調子とのギャップを想像してしまうからかもしれない。
慰霊塔,空港,オリンピック,万博などの大計画が次々と頓挫していく。見通しの甘さ,合意形成の失敗,技術革新による計画そのものの陳腐化。成功にドラマがあるように,失敗にもドラマがあり,そのいずれもが定型化されている。
たとえば,甲子園球場周辺は阪神電鉄の郊外開発によって作られた。スタジアムが完成した大正13年の干支の「きのえね」であったことから「甲子園」と名付けられたが,計画段階では「紅洲大競技場」と呼ばれ,実現したものよりもずっと大規模な一大遊興地であった。「紅洲」はベニスと読む。もちろんヴェネチアのことだ。「阪神の事業担当者は,アメリカ人が抱いた「イタリアへの憧れ」をそのままに,日本に輸入しようとしたのではないか。(中略)今日のテーマパークに通じる発想が,すでに大正時代には,アメリカから輸入されていたということだろう。(p.74)」
昭和15年の東京オリンピックの競技場建設をめぐる議論の迷走も興味深い。昭和11年,IOC総会で東京はヘルシンキに競り勝ち,昭和15年大会の開催地となる。帝都は熱狂。だが,会場が決まらない。埋め立てたものの使途の定まらないでいた月島を使う案は牛塚東京市長が強く推すが風が強いので無理。代々木練兵場を総合大運動場とする案は「陸軍に於いて譲渡不可能なる趣」で断念。スケールは大分小さくなって,神宮外苑の既存競技場を改築して対応する案におさまろうとするが,内務省神社局が「国民の浄財で造営された記念物」である外苑の改造に反対する。他にはもう場所がないのでなんとか頼むという組織委員会の訴えに対し,内務省神社局は「希望十項目」を飲めば認めるとタガをはめる。だが,計画を詰めてみると外苑の競技場の改修ではスタンドを大きく出来ずオリンピックスタジアムの基準を満たすことができない。結局外苑案は放棄され,最終案は世田谷の駒沢ゴルフ場跡地。資材確保が困難な中,一部木造でのスタジアムの設計などが試みられる。しかし,昭和13年7月,オリンピック返上が閣議決定される。盧溝橋事件からちょうど一年がすぎたころであった。
このように,昭和15年と昭和39年,ふたつの東京オリンピックは,会場計画について言えばほとんど双子なのであった。もう一度東京でオリンピックをやろうという話が出ている。東京が博覧会を放棄したのはついこの間のことだったけれども,また決まってから放棄せざるをえなくなる……というようなことにならなければよいのだが。
を読む。
高畑 正幸,『究極の文具カタログ【マストアイテム編】』ロコモーションパブリシング,2006
昨今は文房具ブームのようで,好事家向けのムックやなんかやたら出版されている。本書はそれらと一線を画し,実践的な日常の道具としての文具にフォーカスしている。いずれも普通に文房具屋で売っているものばかりで,ガラスケースにあって店員に出してもらう類のものではない。著者はサンスター文具の商品開発者である。
今,ご自分が使用しているボールペンの商品名を正確に言えるだろうか?逆に,ご自分の愛車の車種を知らない人がいるだろうか?(p.16)
帯に曰く…
カッターの刃は折れ。
テープカッターの最も重要な性能は「動かないこと」である。
はがせるからこそ貼れるのだ。
すべての書類に「日付」をつけろ。
『あったかもしれない日本』の流れで,青井哲人「紀元二六〇〇年の空間」を読む。
青井哲人「紀元二六〇〇年の空間——万博・オリンピック/神社・宮城」,『10+1 (No.37)』」, INAX出版, 2004
「何も生み出せずに「幻」になった」万博・オリンピックと,「無数の実現例を持ちながら語られることのない」神社・宮城(皇居)というふたつの空間の系譜をはじめて同時に扱おうとしたのが丹下健三なのではないか,という話。
昭和15年のオリンピック計画におけるオリンピック組織委員会と内務省神社局との対立を詳細に紹介したうえで,「外苑」という両義的な空間について論ずる。
明治神宮の「内苑」は「森厳荘重」なる聖域であるのに対し,「外苑」はもう少し自由で気楽な公園緑地として計画されたものであった。そして,力比べや流鏑馬,弓道,相撲などが神社境内で行われてきたのと同様に,外苑におけるスポーツは祭神に対する「奉納」であり,競技施設は「宗教施設」と位置づけられるというのである。
なんとヤクルトのホームゲームは奉納野球大会だったのだ。神宮球場ってのはただの地主の名前を冠しているだけじゃないんだ。
青井によれば,この「奉納」という概念は「「神聖」と「開放」をめぐる二元論を辛うじて調停する装置」であり,その舞台たる外苑は「神聖と開放の両者を担保すべき両義的な場所」なのである。
なるほどー奉納かあ。
言われてみれば「奉納」って,場所へのコミットメントだよなあ。
以前2002年ごろに仙台のサンモール一番町商店街にある野中神社という小さい神社の環境整備を地元の方々や学生たちとやったことがある。アーケードで結婚式をしたり,参道や本殿の整備にあわせて,おみくじをつくったり,いろいろとイベントをやった。恥ずかしい話だが,このときは「奉納」という考えは全然なかった。神社から商店街のお客さんたちにどんなサービスを提供できるか,という視点しか持っていなかったように思う。
お客さんが「神社」にお金じゃない何か——それこそ相撲などの行為でいい——を「奉納」するという構えで考えられると何か違うことができそうだ。もちろん,「神様」を共有してないと「奉納」しようがないわけで,これが信仰の共同体を擬制するようなことになるんじゃうまくないんだけど。
といっても民営化される郵便局の本ではありません。たぶん。
仲隆介さんや中西泰人さん,馬場正尊さん,岸本章弘さん,みかんぐみのみなさんが作られた,新しいワークプレイスについての本。TOTO出版より,2月22日刊行。1890円。
刊行にあわせた執筆者によるトークショーが青山ABCにて3月4日にあるようです。
●
イベント情報
『POST-OFFICE ワークスペース改造計画』刊行記念トークショー
空間は働き方をどう変えるのか?
「職」をデザインしていくことは、この時代の大きな命題となるだろう。
ちょっとした風景の中にも、新しい働き方へのヒントはいたるところに隠れているのだ。
『POST-OFFICE』の著者は、情報空間研究の専門家、メディアアーティスト、建築家、
空間プロデューサー、ジャーナリストなど、いわば空間提案のスペシャリストたち。
今回のトークショーでは、常に刺激的なワースペースを生み出している彼ら自身の
ワークスタイルとワークスペースを大紹介。
を読む。
杉山 尚子,『行動分析学入門―ヒトの行動の思いがけない理由』集英社新書,No. 0307E,2005
行動分析学 behavior analysis の入門書。行動分析学は心理学のひとつで,「行動の原因を解明し行動の法則を発見する基礎科学」と「現代社会における人々の行動の問題を基礎科学で発見された法則に基づいて解決していく応用科学」という,基礎と臨床の両義性をもった方法論である。これらの探求は実験を通じて行われるので,実験的行動分析 the experimental analysis of behavior と呼ばれる。
いつも炬燵に左手を入れたまま片手で食事をする人がいるとする。普通,我々は「行儀が悪い」からだと考える。しかし,「行儀が悪い」のは「片手での食事はいけない」を言い換えているにすぎず,原因を説明していることにはならない,と行動分析学では考える。
実験的行動分析によって,彼の左側にあるドアから冷気が入って左手が冷たいということがわかった。試しにストーブを近くに置いてみると両手で食べる時間が増え,再びストーブをどけると片手で食べ,またストーブを置くと両手で食べたのである。そこで,彼の左手を炬燵に入れる行動は,左手が暖かいという「好子(こうし)」の「出現」を「強化」するための行動である,と説明する。このように行動とそれがもたらす効果との関係——行動随伴性 behavioral contigency——によって行動を捉えようとするのが行動分析学だ。
このように行動分析学では,行動の説明を環境の要因に求める。逆に,神経生理学的な説明(ドーパミンの多寡)や心理的な説明(電車の中で化粧をするのは羞恥心がないからだ)あるいは概念的説明(戦争を繰り返すのは〈闘争本能〉のためだ)は受け入れない。行動分析学には,行動の問題を具体的に改善しようする実践的な側面もあるから,操作可能な変数に行動の原因を探す必要があるのである。
このように,行動の原因を環境要因に求め,逆に環境に介入することで行動に影響を与えようとする行動分析学は,環境の設計方法論にほかならない。行動分析学の極めて単純な(もちろんよい意味で)モデルによる行動の説明は,デザインに携わる人々に多くの示唆を与えるだろう。
ハトを実験動物に使うのは目がいいからだ,とか,言語 language ではなく言語活動 verbal behavior と呼ぶのはなぜか,とか,単一被験体法とか,節約の原理とか,実に興味深い話題がめじろおしであった。人の行為に影響を与えようと考えている人,つまりすべてのデザイナーには知っておいていいことばかり。
同じ著者らによるより広範な教科書,『行動分析学入門』も読んでみるつもり。
を読む。
トム スタッフォード, マット ウェッブ,『Mind Hacks―実験で知る脳と心のシステム』夏目大訳,オライリージャパン,2005
脳科学の研究成果にもとづいて,脳と心と知覚の働きを解説。すべてが脳への「ハッキング」の実例によって説明されていくのがミソ。実におもしろい実験が次々と紹介されている。自分でもすぐに試せる。やってみると本当にビックリ。
たとえば,Hack #17。
鏡に顔を映して,自分の目を見てみる。映っている右目を見る。ついで左目。また右目,左目。視点が動いているのだから,目玉も動いているはずなのだが,動いている自分の目玉の姿を鏡に捉えることは決してできない。他人がこの実験をやっている様子をみると目玉がグリグリ動いているのはよく見える。我々は目を細かく動かしながら物を見ているけれども,目玉を動かしている間は物が見えていないのである。
たとえば,Hack#41。
何かに集中していると他のことには気づかない,という実験。
バスケットボールのプレイをしているビデオを見て,白いシャツのプレーヤーの間でやりとりされるパスの回数を数えてみてください。では,どうぞ。
……数え終わったら,今度はリラックスして,もういちどビデオを頭からみてみよう!
うちの子供たちは大いに驚き,最初とは違うビデオだといってきかなかった(笑)
できれば親しい人にこの本を読んでもらいながら,被験者になり続けるのが一番おもしろいかもしれない。
『行動分析学入門』にも通じることだが,こうした基礎的な知見を学びつつ,どんな風に「臨床」に応用できるかを考えるってのが,大学などで研究的にデザインを考えるひとつの典型的な方法でありうるだろう。ただ,オモシロビックリ心理実験の経験から先に進むには,この知見をデザインの実践にどう接続していくかっつうところを考えないといかんのだ。
しかし,往々にして,デザインの実践のほうが先行するわけだ。理屈はわからないが,グッときたり妙にクリアだったりするようなものができてしまう。あるいは伝統的経験的に,そのように作られてきていたりする。
その妥当性を検証するのに,こうした実験が役に立つということはある。メカニズムがわかってれば,調節もできるからね。
まあ,そんなんじゃあ「鳥肌が立つようなものはつくれない」んだけど(笑),鳥肌だけがデザインの達成じゃないんだよベイビー。
を読む。
原研哉ゼミ『Ex‐formation 四万十川』中央公論新社,2005
ムサビの基礎デザイン学科原研哉ゼミの2004年度卒業制作集。ちょうど,宮城大学の空間デザインコース卒業制作展を見ての帰り,書店で見かけて求めた。昨日は東北大学の卒業設計の講評会に行ってきたこともあって,ゼミの展開について考えているところでもあったので,なるほどこういうゼミの展開もあるんだな,と思いながら読む。同じようにはできないだろうけれど。
さて,「知ってる,知ってる」と我々はよく口にする。が,これは話を少しも進展させることはない。「わかった,わかった」が,もうそれ以上言うな,という意味であるように,「知ってる,知ってる」は「ある種の達成感をはらんで発せられるせいか,それは相手に別の知識の披露を促すか,話を終結させて別の話題への転換を誘うように機能している。(p.9)」どうやら「情報を発信する側は断片的な情報を受け手に投げ合ったえることのみに熱心になり,受ける側はそれらを受け止めることを一つのゴールと考えるようになった(p.10)」んじゃないかというわけだ。
そこで,「『知らせる』のではなく『いかに知らないかをわからせる』。そういうコミュニケーションは可能ではないか」という問いが立てられる。「『知らせる』のではなく『未知化する』ための情報のかたちや機能を」デザインしようというのである。
このゼミの課題に14名の学生が卒業研究で答えた。その作品集である。モチーフは四万十川だ。学生らしい甘さも,切れ味のよさも,どっちも感じられる作品が8つ。「もし,川が道だったら」や「足形スケープ」が特に印象に残った。どちらも新しい「定規」をあててみるという構造をもった作品だといえる。
私は四万十川には行ったことがなく,清流でカヌーが楽しそう,沈下橋ってのがあるらしい,という程度の紋切り型の理解しか持っていない状態であった。そこで,これらの作品に触れ,様々な知識を得て,四万十川のことを以前よりも「知った」と感じた。フツーに「知った」。知らなさを思い知った,という感触はもてなかった。おそらく,未知化されて驚くほどには,あらかじめ知ってさえいなかったし,知らないことに自覚的であったからだろう。
知れば知るほど知らぬを知る,というのはあたりまえなんじゃないのかなあ,とも思ったし,本書をさっと読んだ感じでは,原のいう「既知を未知化する」というコンセプトのコアをつかむことが出来なかったような,うなぎを逃がしたような,なんだか残念な気がした。
を読む。
西垣 通,『情報学的転回―IT社会のゆくえ』春秋社,2005
西垣通の語りおろし。以前からよく書いていた「聖性」などの宗教的な話題,とりわけユダヤ=キリスト教批判,同根からのアメリカ=日本文明批判,『基礎情報学』でまとめたオートポイエーシスに基づく生命情報理論,ヨーガの話等々がないまぜになってグリグリ進む。従来からの西垣の読者にはスムースに読めるけれども,そうでない人には話についていけないという感じがするよ。
タイトルの「情報学的転回 informatic turn」は,もちろん「言語学的転回 linguistic turn」を受けてのもの。
言葉を発する人間の内面よりも外面に表れた言葉そのものに注目せよという言語学的転回は,白人中心の近代進歩主義を徹底的に批判し,有色人種もふくめて人間はみんな平等だという理念を広げた。
だが,この文化相対主義はニヒリズムにもつながるものでもあった。西垣によれば,言語学的転回は,人間しか眼中にない点に限界がある。人間と他の生物の間に本質的な差異はない。動物もコミュニケーションをしている。まず「言語ありき」では十分ではない。
つまり情報学的転回とは,「人間は生物なのだというところから出発して,われわれが生きている生命環境を尊重しようというテーゼに基づいて,もう一遍根底から物事を考え直してみようということです。(p.121)」
言語学的転回が,主体から言語へ,歴史から構造へ,実体から関係へ…という図式で語られるのにならえば,西垣のいう情報学的転回は「機械から生命へ」といえるだろう。(同じスローガンを使っている建築家もいますね。)
そういう大きな枠組みでもって,ニートだとか自殺三万人だとかな現代日本を語ろうとするから,なんだか間尺が合わない感じがしてしまうのかもしれない。
だから本書だけ読んでもダメです。
FTEXT - フリー教材開発コミュニティによる「数学A」の教科書が完成した模様。「数学1」と「数学A」が配布されている。リメディアルの教科書にどうでしょう?
スタニスワフ・レムが死んだ。
ポーランドの作家。『ソラリス』や『ストーカー』などタルコフスキーの映画の原作としても多く取り上げられた。
『ソラリスの陽のもとに』は高校生のときに読んだ。宇宙を舞台とした「西部劇」じゃなくて,世界の存立可能性を構想するためのSFってもんがあるんだなあと,読み切れない気持ちのまま読み終えた。読み終えることができない本があるんだと思い知ったのはこれがはじめてだったかも。
敵か味方かでもなく,気づかずにすれ違うのでもない,地球外知性体とのファースト・コンタクト。コミュニケーションなんてものはそう簡単に成立しないのだった。
合掌。
asahi.com: 「惑星ソラリス」原作者 スタニスワフ・レムさん死去 - おくやみ
スラッシュドット ジャパン | スタニスワフ・レム氏 死去
を読む。ちょっと前なら「知的生産の技術」と呼ばれていたような話。
田口 元, 安藤 幸央, 平林 純, 角 征典, 和田 卓人, 金子 順, 角谷 信太郎,『Life Hacks PRESS ~デジタル世代の「カイゼン」術~』技術評論社,2006
そもそも「hack(ハック)」とは,プログラマが自分の仕事を片付けるために書いている,自分だけの小さなプログラムのことです。もともとは技術用語ですが,それを仕事や生活全般に広げた「自分だけのやり方」が広く lifehacks と呼ばれるようになったようです。(p.3)
GTD, Google, プレゼン,マインドマップ,情報整理,文房具,勉強会……と,少々とっちらかった印象なんだけれども,いずれもなかなか面白い。ただlifehacks的態度,つまり行動を一般的に概念化して方法論的に考えるという姿勢にいくらかでも親しんでいないと取っ付きにくいかもしれない。
GTDのことも端的な形で紹介されていて,これまで敬して遠ざけてきたのだが,いっちょやってみるかという気になった。「知識社会では,仕事の終わりがどんどんあいまいになってきて」おり,このことがいつまでもまだやることが残っていると感じさせ,働き手にストレスをもたらしているという指摘には膝を打った。
「勉強会のススメ」も非常に具体的で,よい記事。副題の「対話を促進する学び場の運営ノウハウ」をいたずらにややこしい言い方でいうと「場所へのコミットメントを支援する情報技術の使い方」ということになるかもしれません。
MIND HACKS,LIFE HACKS ときたら,次に我々が考えるべきは PLACE HACKS だろうなあ。『プロジェクト・ブック』は PROJECT HACKS だしな。
todoに
□GTD
と書く不思議
を読む。
著者はベネッセで小論文指導の方法を企画してきたプロデューサ。現在はフリー。
書くべき文章を複数の問いの連鎖に構造化したテンプレートを提示する。
たとえば,「おわび」を考えるシートは……
いってみれば,『鉄則!企画書は「1枚」にまとめよ』の方法論をさらに一般化したかたちだ。
まずは,このテンプレートをつかって文章を書いてみることは,作文や手紙が苦手でどうにも手をつけられないという人には有効だろう。
さらに,大学などでまとまったレポートや論文を書き始めている人には,文章の主たる「問い」を意識すること。そして,立てられた問いを「よりミクロな」「より具体的な」「より易しい」(p.167)複数の問いに分解し,構造化するという方法を学ぶ必要がある。
を読む。
「建築のメイキングマガジン」というサブタイトルには偽りはなく,おもしろい仕事を続けている建築家たちの働いている環境,使っている道具,考えるプロセスを丁寧に紹介している。
テキストは,対象の建築家をヒロイックに扱うのか等身大の人間として扱うのかを決めかねているようなためらいがあって少々ぶれる印象があったが,写真,とくに作業場の写真は汲めど尽きない魅力がある。被写界深度を浅くしてボケとともにおしゃれ小物を撮影したような写真よりは,ないでもない室内の写真の,コートや傘の掛け方,CDのちらかり方,イスのばらつき方なんかがおもしろい。
映画のDVDを買って,つい本編よりも特典映像のメイキングを熱心に見てしまうような人には堪えられないだろう。
学生たちの短い論考を集めた Table of Youth もおもしろい企画。定期的に開催された勉強会の成果のようだが,ブログの時代に,こうした企画が持続していくためには,このような個別の論考もさることながら,討議の内容そのものを読んでみたいと思われた。
次号にも期待したい。予告がないけど。
を読む。
若き日の堀口大学を主人公とした長編小説ときき,もっとメロウな話なのかと思ったらまったくそうではなかった。舞台はパリではなく,軍事クーデター下のメキシコ。私はメキシコの歴史はおろか,堀口大学の父がサムライ外交官とよばれた人物であったこともまるで知らずに読み始めたのだが,一気に読んだ。ラテンアメリカ文学と通ずる,濃密な熱気に満ちている。
本城 直季,『small planet』,リトルモア,2006
以前もふれた本城直季の最初の写真集。模型のようにしか見えない実物の世界。やっと入手。
わかりやすい驚きがあるので,まず撮影技法や知覚のメカニズムへの関心が先立ってしまうかもしれないけれど,そういうテクニカルな言葉では回収しきれない哀切がある。郷愁と疎外とのダブルバインド。
この写真集を見ていると,あたりまえの世界が,ほんとうに健気で愛おしいものに感じられる。
ぼくらは皆ピンのような細い足で,その世界に立っている。
同時に,決して手の触れ得ぬ高みから望遠レンズで見ている。
東京の雪景色で終わるからなのか,ティム・バートンの映画と通じる視点があるようにも思われた。世界を夢のようなものにしてしまうという点で,この写真は雪に似ている。
五月病に心責められる人におすすめ。
追記:
小学生の息子は,どれも「すごく精密につくられた大きな模型」だと思ったようだ。本物を模型みたいに撮った写真だと教えると本気で驚いていた。そのことに逆に驚いた。
どうして私は素直に「すごい模型だな」と思わなかったんだろう。
これほど広範囲で精密な模型をつくるのは(主に経済的に)まず無理なこと。
写真は実物とは違う認識をもたらすメディアであること。
実物を模型のように撮った写真だと文章で読んで知っていたこと。
……そういう知識の外挿による部分はたしかにある。
しかし,はじめて本城のこのスタイルの写真を見たときには,驚きつつも確かに模型ではないことはわかったのだった。
実物なのに模型に見える不思議。
模型に見えるのに模型でないとわかる不思議。
を読む。
三浦 展『脱ファスト風土宣言―商店街を救え!』新書y, No.152, 2006
同じ著者の『ファスト風土化する日本―郊外化とその病理』の続編。三浦は編者となって,前著で指摘した「ファスト風土化」という問題点への具体的な処方を実践している人々の論考が集められている。ただし,タイトルだけを読んで,荒んだ商店街を直接救済する特効薬を記したマニュアルを期待して読んではいけない。そのようなものがあると考えてしまう態度そのものがファスト風土化をもたらしている元凶だからだ。
各論考はいずれも生き生きとしており,現代的な都市デザインの諸課題が歴史もふまえてコンパクトに示されているから,都市デザインの入門書として読まれても良いだろう。
いずれの筆者も異口同音に「関係性のデザイン」が重要であるとしているのが興味深い。私もこの1月に建築学会の設計方法小委員会で「関係性のデザイン」と題されたシンポジウムをやったところなのだが,本書は都市・建築分野における「関係性のデザイン」の適切な事例集になっていると思われた。
を読む。
インターネットマガジンの2005年8,10,11,12月号,2006年1,3,4月号から,Web2.0関連記事を抜粋した再編集ムック。なかなかに充実した内容だし,ときどきこういう再編集セットを出してくれると読者としては便利なので,よいと思う。
ただ,ざっと全体を読んでみて,読んで内容がわかる人には新しい情報は乏しく,読んでもチンプンカンプンな人にはまったく読むことができない種類の記事ばっかりだなあ,と思った。インタビューも含めて。
こうした専門雑誌の記事を集中的に読んだのは久しぶりだったので,なおさらそう感じるのかもしれない。これは何もインターネットマガジンだけの問題ではなくて,建築系の雑誌だって同じことだ。おそらくは他の専門雑誌だってそうなのだろう。
梅田望夫の『"ウェブ進化論』も最近読んで,この本はネットのことをよくわかっていない「こちら側」の人たちに「あちら側」でおきていることをクリアなイメージで伝えるための書き方が貫かれていて,さすがベストセラーは違うものだと思わされたのを思い出し,それとの落差に目がくらむ思いがした。
雨の土曜日に出勤して,頼まれていた専門雑誌むけの記事を書き上げたところなのだが,私の書いた記事もまた,いかーにも専門誌な感じに仕上がってしまっているよ。いかんなあ。
を読む。
内澤 旬子『センセイの書斎―イラストルポ「本」のある仕事場』幻戯書房,2006
様々な分野の物書きの仕事場を訪ねて,その書架のありようをイラストとエッセイで紹介するもの。人の本棚をのぞくのは相手が誰であっても窃視的欲望を満たすものであるから,そういう意味では楽しい本だ。
私自身の研究室の本がまるで片付かないので,何かヒントがあるかと思って手に取ったのだけれども,それぞれの人にその思考パターンや仕事の進め方と直結したそれぞれの方法があるのであって,一発で整理がつく万能の方法は簡単には抽出できないのだろうということだけがわかる。巻末に整理法を整理した分析があるが,「自分なりの法則」ってまとまったりしてて,これが少々淡白すぎて実用的な関心には応えられない感じ。たとえ難しくとも,なにほどかのパターンを抽出するのだという意志が貫徹されないと,好事家好みに終わるんじゃあないかな。
メインのイラストは天井を抜いた部屋を俯瞰したパースになっている。書架や机,その上の小物,傘や鞄といった持ち物まで,克明に描かれている。「測量」して描くそうだから,それぞれの寸法関係も嘘はないのであろう。それにしては津野海太郎の部屋の極端に幅の狭いドアはなんなのだろうかとか,おなじ部屋の植草甚一が使っていたというコーナー・デスクのその裏におかれているイスのまわりの狭苦しさはさぞ居心地よかろうとか,金田一春彦の部屋の「テーマ別引き出し」が9段も10段も積まれていて上の方なんか引き出しても中が見えないじゃんとか,曾根博義の複雑にクランクが連続する迷路のような書庫の奥に罠のようにおかれた掘りごたつは唐突だろとかとか,次々と突っ込みどころ満載で実に見飽きないものである。こういう感想もまた,空間とモノの配列に関する好事家的窃視的な欲望の表れに他ならないのだが。
このイラストの余白にびっしりと書架に並ぶ本のタイトルが書かれており,見る人が見れば,ややそれとこれが並びますかあとかなんとか,果てしなく関係性を見出して溺れていくことができるのに違いない。
ところで,私は大学の生協で平積みのを何気なく買ったのだが,アマゾンでは新刊が切れていて古書にプレミアがついている。何かあったのかな。出版差し止め系の話題にはちょっと敏感になっているところなので気になるねえ。
を読む。
東大駒場の文化人類学の教授による大学の内幕話。エスノグラフィならぬエスノグラフィティと名乗っているだけあって,それを言っちゃ身も蓋もないだろうよと思うような話も少なくないが,でも建前以上のことを言おうとすればこうなるしかないんだろうなと思われた。私は工学部出身だが実験系ではなかったから,文系の教養学部のケースであっても共感できることの方が多かった。
ゼミの発表で論文を朗読させるというのは新鮮だった。
発表と言えばインタラクティブなものであって,原稿の棒読みはよろしくないという先入観があったので驚いたのだが,言われてみれば,英米系の研究者には原稿を(ただし棒読みではなく朗々と)朗読するタイプの発表者が少なからずいるのを思い出した。朗読形式による発表は,「口頭の発表であっても書き言葉が持つ確定性といったものを引き受け,あれやこれや言い変えたり(ママ),語尾を濁らせてぼかしたり,といったことによるあいまいさを避ける」ためだというのだ。
この方法は,とりわけ博士論文執筆中の学生だけを集めた"Writing -up Seminar"で有効だそうだ。これは書いてきた博士論文の一章を一時間かけて読み,聞いた院生たちがコメントするという「閉鎖的」なゼミで,文章朗読形式による発表には「考えていることを文章のかたちではっきりさせる」という利点があるという。「こういうことを書こうと思っている,と博士論文の偉大な構想ばかり述べ立てて,なかなか書かない,という学生」の「病弊を断つ」というのだ。まさしく私はこういう「尿道性格」の学生であったから,こうした方法もありえたのかと感心した次第である。
著者が博士論文の執筆に行き詰まって暗い気分で歩いているとき,通りがかった友人が「書くことだけがお前を助ける」とだけいって去っていったというエピソードが語られる。
「書くことだけがお前を助ける」
論文と課題に取り組むすべての学生に聞かせたい。
「私たちは説明することに夢中になって,理解することをないがしろにしてはいないだろうか。」デザイナー,ステファン・ドイル
を読む。
トム ケリー, ジョナサン リットマン『イノベーションの達人!―発想する会社をつくる10の人材』鈴木主税訳,早川書房
IDEOの新しい本の翻訳。『発想する会社! ― 世界最高のデザイン・ファームIDEOに学ぶイノベーションの技法』の続編。
イノベーションに必要な人材を10人のキャラクターとして提示している。
いずれも言い得て妙なネーミング。前著と同様にたくさんの事例,それも自社での身近な経験が紹介されるので,あれこれ感心しつつ読み進めた。
こうした役割はサッカーのポジションのようなものであって,人によって向き不向きこそあれ,固定的なものではない。語り部が介護人になり,時に経験デザイナーとして振る舞うこともある。
「最高の環境を整える人」が「舞台装置家」とされ,「建築家」ではないことが興味深いな。
ダイナミックなチームでのプレイにおいては,チームメンバーの潜在的な能力への期待と寛容の精神が肝要なのだと思われた。忍耐強く寛容でありつつも安きに流れず,卓越を求め続けることは並大抵のことではない。
私は失敗したことがない。一万通りのうまくいかない方法を発見しただけだ。 −−トーマス・エジソン
を読む。
サイモン・シン『フェルマーの最終定理』青木薫訳,新潮文庫,2006
すばらしくよくできたサイエンス・ノンフィクション。
ワイルズの証明を軸にした,数学の美しさとその完全性に魅惑された数学者たちの列伝。
x^n+y^n=z^n
この方程式はnが2より大きい場合には整数解を持たない。
1993年,アンドリュー・ワイルズが20世紀の数学テクニックを駆使してこれを証明した。ワイルズのアプローチは,直接フェルマーの定理を証明するのではなくて,すべての楕円方程式はモデュラー形式であるという谷山=志村予測を証明することによって,背理法的にフェルマーの最終定理を証明するというもので,コリヴァギン=フラッハ法と岩澤理論を組み合わせて使うのがミソである。
私にはまったくその意味がわからないが(笑),わからないままでも,そのスリルと悩ましさと発見の興奮は十分に理解でき,手に汗握る思いで一気に読み進めた。難しい話を,その難しさを矮小化することなく,しかし平易に説明する筆者のサイエンスライターとしての力量には感心させられた。翻訳もよい。夏休みにふさわしい感動的な秀作。中学生の時に読んでいたら人生が違ったかもしれない。もっとも自分が数学にむかないことは今では思い知っているから,読まなくてよかったのかもしれないが。
を読む。
デスクで書類が見つからず「この書架がググれれば……」と舌打ちしたことがあり,紙で届く資料の山を見て「紙じゃ検索できねえだろォが」と愚痴ったことのある諸兄にはおすすめ。
"Ambient Findability"とは「見つけやすさの環境」とでも訳されようか。単なるSEOの技術的ノウハウ本とはまったく違い,世界の検索可能性の拡大についての一般的考察になっている。経路探索をふくむ情報探索行動に関するデザインの問題を網羅的に扱い,ソシオセマンティックウェブやオントロジー/タクソノミー/フォークソノミーなどの話題にも触れる。読後には散乱したデスクも違う景色に見えてくるであろう。
ピーター モービル『アンビエント・ファインダビリティ―ウェブ、検索、そしてコミュニケーションをめぐる旅』浅野紀予訳,オライリージャパン,2006
を読む。
地図リテラシーについて。丸い地球を平たい地図に描くんだから,そもそも「嘘」は避けることができないんだよって話から,地図の表現を加工することで,商売的・政治的な意思をあからさまにあるいは密かに表現しようとした事例などがたくさん紹介される。惜しむらくは掲載されている地図に魅力的なものが少ない。
を読む。
田中 優『戦争をやめさせ環境破壊をくいとめる新しい社会のつくり方―エコとピースのオルタナティブ』合同出版、2005
「エネ・カネ・軍需」の連鎖が、世界をからめとっている。これに対抗するための運動として、自ら政治家になって世界を変える「タテ」方向とも、身近な仲間に話を広げていく「ヨコ」方向とも違う、「ナナメ」の方向性、つまり「全く別な仕組みを考え、現実に新たなやり方をやってみせる方向性」が必要だとし、実際に非営利バンクの運営をしたりしている。
著者はmedia CLUBKING Podcastnewsなんかにも登場してる。
こんなふうに自ら新しく「ナナメ」の道筋をつくっていくというビジョンは、実に事業構想学的ではないか。
をDVDで見る。
土岐謙次さんに勧められて。
ANALIFE は 穴ライフ で アナル ライフ。
夜な夜な女性宅に忍び込むレイプ中毒者。連続殺人鬼の犠牲者の写真を撮影しデジタルエフェクトをかける女。他人の家のゴミ袋を漁り、ゴミの「声」を聞きながら自慰にふける男。それぞれを主人公にした3つの短編。
主人公たちの淡々としたモノローグと、過剰にかけられた映像へのデジタルエフェクトとが不思議にバランスして、濃密で独特の世界をつくりだしている。
過剰で濃密な映像は、「森」の主題と接続している。
森は虚ろでありながら何者かに満ちている。
主人公たちの脳裏には「森のクマさん」の歌がループしている。
出口がない森を、主人公たちはさまよっている。
それぞれに肛門に傷を負って主人公たちは肛門科の医院に集まる。
医院で「クマ」にであう。センスがない、リアリティにとぼしい、このスイッチでおまえらを消すこともできるんだぞと主人公たちを理不尽になじる二人は講評時の美大教師(建築も同じだ)のようにみえる。
3人の「森のクマさん」の輪唱は、歌詞につまる。やっと「白い貝殻の小さなイヤリング」が出る。白く輝く巻き貝は露骨な比喩だ。
詰まるけど出る、出るけど出ない。
クマたちとのダイアローグは失敗し、彼らは勝手にどっかに消えてしまう。
3人は森を切り開いたであろう郊外のニュータウンに放り出される。
森を出ることができたのか?
詰まるけど出る、出るけど出ない。
それは偽の出口だ。
を読む。
カズオ イシグロ『わたしを離さないで』土屋政雄訳、早川書房、2006
日本生まれの英国人作家カズオ・イシグロの新作。『日の名残り』なんかが有名か。
謎めいた全寮制の施設で生まれ育つ若者たち。彼らには「提供者」となる使命がある。
丁寧なエピソードの積み重ねの中に、彼らの異様な運命が立ち現れてくる痛切な物語。
ネタバレしないでおもしろさを紹介するのは無理な気がする。
もちろん、ネタは読み始めれば薄々わかってくる。主人公たちも、知っているのに知らないふりをしている。公然の秘密が読者と主人公たちとで共有されている。その「薄々」の積み重ねかたが絶妙に素晴らしい、凄みのある小説。ぜひ読まれたし。
下記に作家のインタビューがあるが、ネタバレを含むので、本編を読んでから読むべし。
「人の一生は私たちが思っているよりずっと短く、限られた短い時間の中で愛や友情について学ばなければならない。いつ終わるかも知れない時間の中でいかに経験するか。このテーマは、私の小説の根幹に一貫して流れています」
もひとつインタビュー
カズオ・イシグロ インタビュー by 大野和基
こういう凄い小説=テキストの構築物を目の当たりにすると,作家はどんな手順で,どんなツールをつかって,構成を考えるかを知りたいと思う。やっぱりダイアグラムを描くのだろうか? 断片的なメモはどう管理しているのだろう。コンピュータを使っているんだろうけれども,たとえば執筆の途中で,どんなファイルが作られるのだろうか……などなど。
を新幹線でさくっと読む。
平野 啓一郎『本の読み方 スロー・リーディングの実践』PHP新書,No.415,2006
アンチ速読本。
本はいろいろ考えながらゆっくりじっくり読むとためになるよ,と。
ま,そりゃそうだ。
p.40あたりでフォトリーディングも批判されているが,写真のように見ていって,それで内容が理解できている,という要約になっているけど,これはさすがに舌足らずでずるいだろう。『考具』にも書かれていたけど,フォトリーディングは本を何度も読むことになるのが味噌なのにな。
たしかに,まずい速読が「作者の言わんとするところを理解するのではなく,単に自分自身の心の中をそこに映し出しているに過ぎ」ず,「多く本を読めば読むほど,自分の偏ったものの見方が反復され,視野が広がるどころか,ますます狭い考えへと偏っていく」傾向をもっているのは確かだろう。(p.42)
しかし,経験からいえば,なじみの字面よりも,むしろ見慣れない違和感のある言葉の方に,強く印象が向かうものだ。違和感に注意せよ,とは平野も主張していることだ。
ただし,違和感に注目できるのは,集中できてうまくやれている時だけだ。疲れていて気が散っていたりすると,平野のいうように,触りのいい馴染みの字面ばかりを拾っているな,と感じる時がある。これはもう失敗。こう感じるようなら,その時は速読はもう無理だから普通に読むしかない。
鴎外やカフカを例にして,丁寧に読んでいく実践編は,小説をじっくり引きつけて読むことの入門として,面白く読んだ。
だから,何も速読を仮想敵にしなくてもいいのになあと思う。早く読んだり,ゆっくり読んだりすればいいじゃん。スローフードの考え方には共感できるのに,おまえの食ってるのはジャンクだって言われるとカチンと来る。それと似た感じがした。
を読む。小野田泰明さんからご献本いただいて一気に読んだ。
阿部 潔,成実 弘至編『空間管理社会―監視と自由のパラドックス』新曜社,2006
たとえばショッピングモールのフードコート。
居心地よくしつらえられているはずなのに,なんだかここは居心地が悪い気がする。でも,それは何故だかわからない。みなとても楽しそうだし,くつろいでいるようにみえる。みなとても自由に振る舞っているようにみえる。しかし,そこには微妙な違和感がある。そういう実感から,本書は始まる。
「自由な空間」のうちで「空間の自由」が抑圧されているのではないか。
それはどんなしかたでそうなっているのか,ということを分析していく。
こうした問題意識は建築の学生たちにも共通している。都市空間の公共性とか自由とか,スケートボードとか,そんなことを問題にしはじめた学生に,「まずこれ読んどけ」といえる本が出たのは実によろこばしい。詳細なブックガイドもあって,この本をスターティングポイントにすれば,たくさんの野道に分け入っていくことができるだろう。
さっそく私もジョン・アーリの場所論などを取り寄せてみたりした。このあいだ買ったスケボーの本もあわせて,これから読むところ。
社会学者はいつも警鐘を鳴らすばかりで,やばいのはわかったけど,じゃあどうすればいいのさ,という素朴な問いには答えてくれないのが不満だ。が,それはそういうものなのかもしれない。応えるのは,デザインの実践者である我々なのだ。
を読む。
原尻 淳一, 小山 龍介『IDEA HACKS! 今日スグ役立つ仕事のコツと習慣』東洋経済新報社,2006
さくっと読めるノウハウ本。pp.8-9の概念一覧表を見てHackどうしの濃密な関係性の所在に期待したのだが,小ネタ集的な印象の方が強かった。文章の練りが足らないのか,相互に響きあう感じもあんまりしないのは残念。全体的に急いで作ったって感じ。
p.195に,『白雪姫』のアニメ映画をごく短い幼稚園児むけの絵本にする能力に感心したという話が出てくる。いわく,「園児向けに編集するには,まず,映画のキーとなる場面を選定し,限りなく情報をそぎ落とし,圧縮させているのです。さらに,伝えたい内容を要約し,それを読み手に合わせて変形させているのです」。
これは,ユーザ中心の編集デザインということでデザインの課題にできるかもしれないなあと思った。たとえば,長編漫画を8ページぐらいの絵本に再編集する。絵は切り貼りで文章は書き直し。特定の読者にむけて演出を先鋭化させてみるというような。
あわせて古平正義らの『SCHOOL OF DESIGN(スクール オブ デザイン)』も買ってきたので,これから読む。
を読んだ。
スクール オブ デザイン『SCHOOL OF DESIGN』誠文堂新光社, 2006
拙著『プロジェクト・ブック』の類書。いいたいことはかなり共通していて,やっぱり同じようなことが多いのだなあ,と思う。あえて言えば,デザイナーとしていかにひとり立ちするか,という問題意識が強く出ているところが拙著との違い。
気鋭のグラフィックデザイナーたちであるから,ビジュアルはかっこいい。
テキストがやや物足りないように感じるのは,つい喋りすぎる建築業界にいるからか?
ドライヴキーを廻せばエンジンがかかる。走ってあたり前。
「アイデアが出ない」っていうのは“故障中”ってこと。(p.304)
……はやく修理しなきゃ。
を読む。
中西 紹一, 松田 朋春, 紫牟田 伸子, 宮脇 靖典『ワークショップ―偶然をデザインする技術』宣伝会議,2006
ワークショップを扱った本は数々あるが,「単なるノウハウ本ではなく,その意義に真正面から向き合って,その必然性を問うような」本というのはあまりない。定番は,中野 民夫の『ワークショップ―新しい学びと創造の場』だが,本書もその列に並ぶものではないか。
進化論の木村学説における「中立変異」と「拘束状況の緩和」というアイデアが,本書のコアをなすものである。木村学説が進化生物学的にどのような評価を受けている学説であるのかは私は知らないが。新しいアイデアが生み出される状況を説明するモデルとしてはなかなか魅力的なものだと思われた。とりわけ今日の,女時(めどき)において創造はいかに行いうるか,という問いに答えようとしている。
何回かワークショップに参加してみたりして,これってそもそもなにやってんだろう??と,自分が体験してきたワークショップそのものを中立的にとらえなおしてみるにはよいかも。
を読み始めた。
島宗 理『インストラクショナルデザイン―教師のためのルールブック』米田出版,2006
島宗理が行動分析学の研究成果をインストラクションの方法論として整理したもの。本としての見た目は非常に地味だが,学びの目標を,知識=わかる,技能=できる,遂行=するに分析すべしとか,自責他責いずれの「個人攻撃の罠」にもはまらないようにするべし,などなど非常におもしろく,教職としては耳が痛い本。
いろいろ締め切りが迫るのであれこれ読んで現実逃避中。ああ,早く書かなきゃ。
安田 理央, 雨宮 まみ『エロの敵 今、アダルトメディアに起こりつつあること』翔泳社,2006
遠い目になる本。
広井 良典『持続可能な福祉社会―「もうひとつの日本」の構想』ちくま新書,2006
これは迫力あります。おすすめ。人生前半の社会保障。環境と福祉の相補性。
404 Blog Not Found:ちょっとはまともな仕事を選べって:
それでも、IT業界に限らず、「オモシロイ仕事」には、「自己搾取性」とでもいうべき落とし穴がある。その体験記が「搾取される若者達」だ。(中略)
こちらはIT業界ではなくバイク便のだけど、なぜ趣味から実益を得ようとした若者達が仕事にのめり込んで行くのかという構造そのものは、IT業界と恐ろしいほどよく似ている。その様子がどんなであるかは本書の方で確認していただきたいが、この罠は、「好きこそものの上手」で成り立っている業界すべてで自然発生しうるのだ。
おもしろそうだ。読まねば。
建築設計業界にも自己搾取的な構図があったわけだが,最近ではそうでもなくなっているようだ。
追記:読んだ。趣味を仕事にしようとはじめたバイク便ライダーたちが,次第にその価値観を変容させながら,「ひとり親方」の非常に不安定な就業形態のなかで,危険を顧みないワーカホリック状態にのめりこんでいくメカニズムを解明し,「自己実現系ワーカホリック」という非常に興味深い概念を提示する。バイク便ライダーの内幕本としても面白く読める。現場からの反論もありそうな語り口ではあるが。
この本が伝えたいのは,若者の「やりたいこと志向」が生み出すワーカホリックの問題である。「やりたいこと」を仕事にし,それに没入していく。この本ではそれを「自己実現系ワーカホリック」と名付ける。ニートとワーカホリックは表裏一体の関係であり,ともにその要因は若者の「やりたいこと志向」にあるというのが僕の考えである。「やりたいこと」を仕事にできないニート,「やりたいこと」を仕事にできたワーカホリック,現在,こうした二極化が若者たちの間で進行している。(p.17)
このスキームはよくわかる気がするけど,私が接している大学生たちは必ずしも「やりたいこと志向」一点張りではないような気もする。もうちょっとクレバーに,やりうることをやろうとしているようにみえることも多いな。
CMでずいぶん流れるようになったけど,まだ予約できないWii。
あのCMを見るたびに,あのリモコンの機能は,ケータイにこそ実装されるべきだと思う。
そしたらケータイは,SCLの暦本さんのいう「箸」のようなデバイスとして使えるようになるはずだ。
それを使う所作を,ゲームを超えて,どれほど豊かに構想することができるだろうか。
↓付録DVDのインタビュービデオがなかなかおもしろい。
Bill Moggridge『Designing Interactions』
を読む。入手したのはかなり前だが,あまりのボリュームゆえ,なかなか手につかなかった。
建築家ハワード・ロークを主人公とする大長編小説。モダニストであるハワード・ロークは,自らの信じるところに従って,欺瞞的な装飾を一切排した超合理的な設計を行う。しかしそれはなかなか理解されず,ロークは干される。干されるが,くじけない。数少ない,しかし強力な理解者を得て,ロークは自らを決して失うことなく成功する。そういう物語である。
自己犠牲を強いる集団主義に対して,自らの意志をこそ徹底して尊重する個人主義こそむしろ道徳にかなうのだというロークの,すなわち筆者の主張は,この小説が執筆された冷戦下の世相をはっきりと反映している。アメリカはソビエトより正しいのであり,アメリカ人は近代的個人として生きるべきである。世間の是認を求めずにはおられぬあまり結果として奴隷的な行動を余儀なくされる人々と,自らの内なる意志のみに基づいて行動する強靭な魂をもった近代的個人とが,くりかえし,図式的に対比されて提示される。
ハワードとピーター。建築家は,偉大な個人であり創造者であると考えられつつ,同時にきわめて世俗的な権力の犬でもあるとされてきた。この構図は映画『華麗なる激情』においても,ミケランジェロとブラマンテとの対比的な構図に示されてきたものにほかならない。
翻訳はいかにも直訳調で読みにくいが,次第に慣れ,やがては快くさえ感じられるようになる。いかにも1940年代らしい絢爛たる長広舌に堪えられるなら手に取ってみてもいいだろう。
私個人は必ずしもロークやワイナンド,ドミニクの生き方には共感できないと感じる。かといって,自分がピーターやトゥーイーかといえばそうともいえない。あえていうならスカーレットかマイクだなと,いささか自嘲気味に思う。そして,その自嘲が尊大な自意識の裏返しであることも十分に自覚しているのである。
を読む。
城 繁幸『若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来』光文社新書,No.270,2006
大きな成長が見込めない社会においては,年功序列型の企業システムは持続できない。誰もが「昭和的価値観」に浸っているので,その問題すら認識できていない。
にもかかわらず,中高年層がその既得権を維持しようとすれば,そのツケは若年層に集中するよりほかない。そのツケは未だ生まれてもいない子供たちにも及ぶ。それが少子化の理由であるという。
経済アナリストのなかには,日本に新しい中高年市場が誕生し,新たな市場牽引役となることを期待する向きも強い。実際,すでに郊外の住宅やリゾート物件,中型以上のバイクなど,シニア世代向けのぜいたく品需要は伸びつつある。 だがその裏には,正社員の半分以下の賃金で,派遣や請負,フリーターとして使い捨てられる若者の存在があることを忘れてはならない。 彼らが“人並みの”収入を得て,結婚し子供を作る代わりに,社会はリゾートマンションや大型バイクの売上を選んだわけだ。(p.115)
政治家も企業も労働組合も,それに力を与えるもののために奉仕する。そのように出来ている。
筆者は,若者よ選挙に行けという。
これにはまったく同意である。
バーバラ・スミット『アディダスVSプーマ もうひとつの代理戦争』
月泉 博『ユニクロvsしまむら―専門店2大巨頭圧勝の方程式』
ついでに,こんなのも仕入れている(via 私的自治の時代)が未読。
堀 公俊, 加藤 彰『ファシリテーション・グラフィック―議論を「見える化」する技法』
ニール スティーヴンスン『クリプトノミコン〈1〉チューリング』
つうか,早く原稿書かなきゃ。
が今年のM1グランプリを制した。
抜群におもしろかった。満票の結果も納得。(Wikipediaの記載がこの結果を受けてすでに更新されている!)
「華麗なる妄想族」をキャッチフレーズとする彼らの芸は,新しい冷蔵庫を買ったとか,自転車のベルを盗まれたとか,友達どうしの話題にはするものの,軽く流して終わりそうなごく日常的な他愛ない出来事に対し,その細部に異常に関心を示しながら,妄想をエスカレートさせていく「キモい妄想男」を笑うというものだ。(もちろんYouTubeで見られる)
もちろん漫才だから,妄想男は異常な存在として笑われている。
しかし,私は彼らのネタを聞く間ずっと,「キモい妄想男」に共感していた。
同時に,近ごろの私はこういう「食い付き」方をしていないのではないかと反省しはじめていた。
日常的な出来事の細部に違和感を見いだし,事の委細を確かめつつ,想像力を駆使して,その意味を掘り起こしていくという,この妄想男の能力は,デザイナーに不可欠な想像力であり,創造力そのものなのではなかったか。
たまたま今日読んだ『問題がモンダイなのだ』(山本貴光+吉川浩満,ちくまプリマー文庫,2006)に次のような印象的な一節があった。
十九世紀の心理学者ウィリアム・ジェイムズは,「自由」の対義語は「不自由」ではなくて「自動化」だと考えた。
自動化とはなにか。それは動作や言動がひとりでにオートマティックに決まってしまうことだ。
(中略)
自動化された言動には自由が顔を出す余地は少ない。逆に言えば,自由とは選択の余地をもっていること,自動化にさからうことだと考えてよいだろう。
(中略)
問題に迫られたとき,その問題が課してくる前提やルールにしたがって解答を与えることは,いわば社会的に自動化された解決の仕方であるとも言える。もちろん世の中には,そうしたやりかたで解決できる問題もたくさんある。けれども,しばしば人はにっちもさっちも行かない状況,他に選択肢がないように思えるような,出口なしの状況に陥ってしまう。
そんなときに必要なのは,そうした自動化から身を引きはがして,問題そのものをつくりかえること,あるいは新たに問題をつくりだすことだ。それは,自分の未来を自らの力で切り拓くこと,つまり自由に生きることなのである。(pp.122-123)
チュートリアルの舞台では,「自動化」に長けた人々が,「自由」な妄想男を笑っている。しかし,それは自動化されたおしゃべりしかできなくなった不自由な自分を笑う,自虐の笑いにほかならない。
私は妄想男でありたい。
そう改めて思うクリスマスイヴである。
年度末進行の日々から逃避するために。
を読む。
柳 治男『「学級」の歴史学―自明視された空間を疑う』講談社,2005
なぜ学校をめぐる議論に,「学級とは何か」という問題を提起するのか。それは,中世までの学校に「学級」が存在しないからである。多くの学校史研究が明らかにしていることは,中世の学校は多くの場合一つの部屋でしかなく,しかもそれは「教室(class room)」ではなく,「教場(school room)」と呼ばれた。この教場の中にいる子どもは年齢がまちまちで,同年齢の子どもの集まりなどは見られなかった。われわれがカリキュラムといっている,教授活動の全体的な計画なども,まったく存在しなかったのである(p.2)。
教育というサービスを大量に均質に提供するためのシステムとして,19世紀イギリスで「学級」をもった学校が成立した。教授法の水平および垂直分業を徹底的に行い,「事前制御の中に人を組み込み,感情を操って自己抑制を求め,自動的に競争を促す(p.211)」ことで効率的運用をはかる学級制は,トーマス・クックのパックツアーやフォード,マクドナルドにはるかに先駆けるチェーン・システムそのものだった。
本書は,この「学級」というシステムの歴史を,教育学の言葉でなく,社会学や経営学の概念で説明しようとする。
学校は常に改善されていかねばならない場である。しかしそのような議論を,高尚な理念やスローガン化された「決まり文句」から出発してはならない。常識的に,スーパーマーケットやファースト・フード店を見るのと同じ冷静な態度で始めないと,大混乱に陥る他はない(p.216)。
学級制学校という「ハードウェア」の限界を冷静に理解することなしでなされる理想論やタテマエにもとづく「教育言説」は有効ではありえないからだ。
ところで,「学校」システムのコアとして「学級」に注目するという枠組みは,私には実に興味深いものだ。まずは,コミュニケーションのための場のデザインに関わる者として。さらには,「学級」とはまた異なる「研究室」を運営する現場の教師として。
を読む。
建築家ルイス・カーンが,1968年にライス大学建築学科で行った講義と,続く学生との討議の記録。当時のカーンは67歳。原題は"Conversations with Students"だ。訳者あとがきにいわく「ジャーナリズムや批評家たち等の一般受けをねらって語っているのでは決してなく,まさに目の前にいる学生たちに向かって語りかけ,問い掛け,答えを探し求めているのである。問いそして答え,あるいは問われ答えられる対話こそがカーンの思考の基本であった」。
一読するだけでは意味をつかみづらいかもしれない。
すでによくわかっていることを誰かに「わかりやすく」説明しようとする言葉ではないからである。
カーンは話しながら考えている。
誰かが何かを話しながら考えている,そのかたわらで耳を澄ませているような気持ちで読むと,意味がモヤモヤと形を成して立ち上がろうとする,まさにその現場に立ち会っているような臨場感を感じることできるだろう。
訳者あとがきにならって,私も原文を声を出して読んでみたいと思って,原著を注文した。
とても楽しみ。
ジョン ピーター『近代建築の証言』の付録のCDで,カーンの声を聞くことができる。録音は1961年だから『講義』の7年前でちょうど60歳。文章で読むのと印象が近い。ゆっくりとした考えながら話しかたでありながら,発した言葉には自信が満ちている。
を読む。
奥出 直人『デザイン思考の道具箱―イノベーションを生む会社のつくり方』早川書房、2007
いまや知識はコモディティになってしまっており、企業の競争力を決めるのは「デザイン思考」による「創造性」だ、という。奥出のいう「デザイン」はもちろん商品の色や形を決めることにとどまらない広い意味だ。
本書ではIDEOやその最新作?スタンフォード大学のDスクールなどの動きを紹介しつつ、自らのデザイン・コンサルティングの経験に即して、創造的なデザイン・プロセスの実践的な方法論が語られる。前半までは気の利いたビジネス書には書いてありそうな話なのであるが、迫力があるのは後半の実践編である。
奥出の手がけたデザインの内容は守秘されていて具体例にならないのが隔靴掻痒なのだが、それでもデザインをしている現場を経てきたからこそ出てきた言葉だと思われるものが散見され、本書への共感につながってくる。p.193の掃除の話など、いささか唐突に読めるところでもあるが、「たしかに掃除は大事」と、工房を管理したことのあるものは誰もがうなずくに違いない。
奥出プロセス論のエッセンスは「創造のプロセス」と「創造のプラクティス」のp.113のダイアグラムに尽きている。
私にとってヒットしたのは、デザインプロセスの最上流において、「哲学」と「ビジョン」と「コンセプト」をクリアに分節して説明してあるところだ。これらの概念がうまく整理されずに、チームの中で渾然と使われていることが多く、それがプロセスを妨げていると感じることが多々あるので。
デザインプロセスの最上位にあるのが「哲学」。これは「社会的背景やつくり手の経験を含めた「問題意識」であ(p.87)」って、デザインプロダクトをそもそも何のためにつくるのか、なぜつくるのか、を端的に述べるものである。形は「かくありたい」という高尚な肯定文で表される。
つづく「ビジョン」は、「哲学」にそって具体的にイメージされた欲望であり、文末は必ず「〜したい」となる。マーケティングでいうところのニーズではなくウォンツが「ビジョン」である。
たとえば、iPodの哲学は「人はいろいろな音楽を自由に楽しみ人生を豊かにする権利がある」である。ビジョンは「自分のCDコレクションを持ち運べる“ウォークマン”が欲しい」である。(中略)一方、ウォークマンの哲学は「人は最上の環境で音楽を聴くことが人生の幸せである」で、ビジョンは「持ち運びができる高性能“HiFiステレオ”が欲しい」である。(前掲書、p.91)
ビジョンの発見の、次に「技術の棚卸し」と「フィールドワーク」による経験の拡大というプラクティスを経て、「コンセプト」を構築することになる。
奥出はビジョンとコンセプトを峻別することが重要だという。ビジョンは「発見」され、コンセプトは「構築」される。こういう言葉遣いが重要だ。奥出はコンセプトを次のように定義する。
コンセプトとは、ビジョンを可能にするために具体的な技術を組み入れて検討した解決策のことだ。(p.96)アイデアをいくつか組み合わせて、具体的にどのような技術でそれが可能になるのかを検討したものを「コンセプト」と呼ぶ。(p.98)
アイデアをもとに、ビジョンを実現する具体的な方法とその構造がコンセプトなのだ。(p.99)
そして
出てきたアイデアからコンセプトをまとめる作業はリーダーがおこなう。この能力を身に付けるにはある程度の経験が必要である。アイデアのパターンを見いだしてそれを特定の技術と結びつける感覚は経験で身に付けるしかない。(p.100)
ともいう。
「コンセプト」における技術的裏付けを重視しているのは、モノをつくるためのデザインを指向しているからだ。
複数の適切な「コンセプト」が「ビジョン」によって方向づけされて、「哲学」に示された問題を鋭く照射するプロダクトがよいプロダクトである。
これを読んで、私の手元での実践として、卒業設計にとりくむ諸君のためのキックオフトレーニングの方法を考えてみた。追って書きたい。
を読む。
ナガオカ ケンメイ『ナガオカケンメイの考え』、アスペクト、2006/11/17
年寄りの成功体験談ではなく現在進行形で、自分の会社や組織やデザインの仕事や自分自身のことやなんかを、しかし我が身から引き離しつつ、一般化、方法論化しようとしていく日記形式の説教集。説教の対象は社員だったり自分だったりする。日記というものはすべからく説教であるのかもしれないけど。
ちょうど私の少し上に重なる年代記なので、切実に読めるものが少なくなかった。
一度、九品仏に行ってみよう。
を読む。
模型作例集の体裁をとった宮本佳明モノグラムなのであろうと思って読み始めると、実は非常に実践的かつ詳細でベタな建築模型作例&テクニック集になっており、模型職人魂を激しくゆさぶられる。しかしさらに読み進めると、これは確かに宮本佳明の作品集にほかならないことが実感されるという不思議な本。
きっと、模型のための模型はここにはなく、すべてが建築にむけて組織された模型だからだろう。ただの美しい模型を作ることは経験とテクニックでできるようになるかもしれない。しかし、それを正しく建築へむかわせるためには、模型と建築を貫くような、技術に裏付けられた強いアイデア、すなわちコンセプトが必要だということがよくわかる。
家元と師範のやりとりも面白い。家元の「最初にスケールを決めるのはボスの仕事であり、それは大仕事である」という指摘は、なにげなく聞こえるかもしれないが、それを大きく間違えて(しかも一度ならず)エライ目に遭った人々にだけ深く共有しあえる警句だ。
藤井 咲子『おじいちゃんの封筒―紙の仕事』ラトルズ、2007
大工を引退したおじいちゃんが、ありあわせの紙を接ぎ合わせて、しかし律義に丹念に、15年にわたってつくり続けた「封筒」の写真集。その作業を「紙の仕事」と呼んでいたという。
著者は封筒製作者の孫なので、書名が「おじいちゃん」の封筒なのだけれど、私は父を思わずにはいられなかった。そして、私自身がこんな風に「封筒」を作る姿も親しく想像しもした。
手紙を書き続けるのではなく、封筒を作り続けること。
私には隠居の才能があると自負しているのだが、まだその時期にあらずと無理に自分を鼓舞して仕事をしているようなところがある。こういうものにグッと来るってのは、ちょっと疲れているのかもしれぬ。
を読む。
書店で手に取る。名前は知っていたが、まとまったものは初めて読んだ。
物語には既視感を覚えたりもしたが、ちゃんと絶妙な言葉で背筋をぞわぞわとさせてくれる。
「鋼鉄のように自由」な美知子さん(野ばら)に敬意を払って、書架の岡崎京子の『ハッピィ・ハウス』の隣にしまった。
他のものも読みたいと思ってアマゾンを見ると、初期の詩集はプレミアムがついている。
が出た。
建築資料研究社『卒業設計日本一決定戦OFFICIAL BOOK 2007―せんだいデザインリーグ (2007)』
今年も激闘でありました。夏にはギャラ間展と巡回展(京都、名古屋、福岡を予定)。
を見た。
デイビス・グッゲンハイム『不都合な真実 スペシャル・コレクターズ・エディション』
アル・ゴアのプロモーションビデオみたいなつくりで、温暖化の話自体はすでに知られた内容も多くショッキングというものでもなかった。
しかし、アル・ゴアの語りは、その内容を越えて、迫力のあるものだった。表情、声、ため、姿勢、目配り、腕の使い方等々。これは相当に練習するのだろう。
惨敗しながらも続投するという某国の宰相の絶叫ぶりとの、彼我の差にしびれた日曜日だった。
を読む。
ネットと企業の新しい関係。ユーザの立場からは違和感なく読める。
私の勤める組織が、望ましい対応ができているかどうかは怪しい。
を読む。
イヴォン・シュイナード『社員をサーフィンに行かせよう―パタゴニア創業者の経営論』
アウトドア用品メーカーのパタゴニアの創業者、イヴォン・シュイナードによる経営論であり企業理念論。パタゴニアは株式公開をしないことにしており、シュイナードは創業者にしてオーナーである。MBA(Management By Absence 不在による経営)を標榜し、今も自らサーフィンや釣を楽しんで、その現場でおきている出来事を会社に持ち帰るビジョナリーである。
だからこそ、地球環境の異変にもいち早く気付き、企業としてなすべきことをやろうとしてきた。「健全な地球がなければ、株主も顧客も社員も存在しない」からである。彼らは、利益ではなく売上げの1%を環境保全運動に寄付するという「税」を自らに課している。
パタゴニアのミッション・ステートメントにはこうある。
最高の製品を作り、環境に与える不必要な悪影響を最小限に抑える。そして、ビジネスを手段として環境危機に警鐘を鳴らし、解決に向けて実行する(p.107)
原題は、Let my people go surfing だ。当然、my people は社員にとどまるものではないだろう。それは本書を読めばわかる。しかし、ビジネス書のタイトルにするためには「社員」と訳す必要があったのだろう。そのとき「社員」という言葉を使うしかないほどに、日本語の企業環境はボキャブラリが少ないのだ。「社員」と呼ばれるとき、人は「社員」として振る舞うよりほかない。役割の名前は、社会活動における行為の枠組みである。"my people"の含むところの意味はよく考えないといけないだろう。
企業の原理的な存在理由である「利益を最大化すること」に反して、「地球環境を保全すること」を企業として実行するのは原理的に不可能だ。しかし、パタゴニアは、環境保全に資するという外部的な尺度を企業内に、かなり強引に持ち込むことによって、内部のイノベーションの原動力としているのだということがわかる。イノベーションを絶えず行うカリスマ・ビジョナリーとして、アップルのスティーブ・ジョブズと通じるところがあるのだろうと想像しつつ読んだ。創業者とはそういうものなのかもしれない。
西村 佳哲『自分の仕事をつくる』とあわせて読みたい。
を読む。
誠文堂新光社『新スケープ―都市の異風景』誠文堂新社、2007
副都心のビルは人工物の中でも大きな部類に属するため、壮大な自然のスケールには劣るが、それに近い存在として「そこにあるだけ」と感じることができた。(p.41)
「東京」を遠く遠巻きに見る。
かゆいところに手を伸ばさない。
を読む。近所の書店の詩のコーナーにあった。
痴呆老人の独り言、暴走族の刺繍文字、玉置宏のイントロ曲紹介、「夢は夜開く」のバリエーション、死刑囚の辞世、日本語のラップ、餓死した老人の日記、エロサイトの煽り文句、見せ物小屋の口上、点取り占い、あいだみつを、などなど、「プロ」には「詩」とはみとめられないけれども、リアルで切実な言葉を集める。強烈なフレーズの数々。俺達にはもっと詩が要る。
ということで手に取る。
東洋経済新報社『一橋ビジネスレビュー 55巻2号(2007年AUT.) (55)』
日産の中村史郎や慶応の奥出直人などが寄稿。
当たり前のことしか書いてないと思う人と、
何が書いてあるのがサッパリわからんと思う人とに、
きれいに分かれてしまうのではないか。
経営者もデザイナーもどちらも。
それぞれの論考は面白く読めるけれども、
隔靴掻痒の感がある。
なんだろうなあ、これは。
深澤直人のインタビューもあり、いつもの同じような話ではなく、経営者とわたりあう作法を語っていておもしろい。
あわせて読むとおもしろいんじゃないかと思って、佐藤 悦子『SAMURAI佐藤可士和のつくり方』も入手したところ。
いずれも吉橋先生のところで取り上げられていたもの。いつもありがとうございます。
Information Design?!: デザインと競争力
Information Design?!: SAMURAI 佐藤可士和のつくり方
を読む。仙台市の奥山さんに教えていただいた本。
都市はいま空襲を受けている、と鷲田は言う。
ときに力を合わせ、ときに諍いあいながらも、ともに大地に張り付くようにして生きたひとびとと、同じ地域の高層ビルのなかに住まいながら、互いの暮らしぶりを見ることもなくただ各階で同じレイアウトの空間に生きているという抽象的な事実をしか共有してこなかったひとびととが、コミュニティの意識を共有するというのは至難のことである。同じ地域に仕事場を持ちながら、地域の運命を共にしてきた商店街のひとびとと、どこか別の場所にある中枢にコントロールされつつ、地域から浮いて(いつでも別のより営業効率のよい場所に移る準備のできている)巨大企業の社員たちとが、同じコミュニティの意識を持つというのも、至難のことである。 コミュニティの意識というのは、それぞれの身体空間を、あるいはまなざしを、日常的に、緩やかに交差させるなかで生まれる。寒暖、風雪、はたまた災害を同じようにしのぎ、たがいの辛苦を慮るなかで醸成される。が、いま地域を見舞っているのは、人々の過剰なまでの分断である。(pp.61-63)
琵琶湖疏水を指揮した田辺朔郎や、平安神宮を設計した伊東忠太は、どちらも当時二十歳そこそこの若者であった。彼らを抜擢して大事業につかせた明治という時代は、「社会にいっぱい隙間があった時代」だった。
ここにいて遠くのだれともつながることのできる情報媒体をわたしたちは手に入れた。けれどもはたしてそれで世界は広がったのか。子どもまでケータイやインターネットを駆使できるようになったのに、皮肉なことにコミュニケーションはどんどん内向化し、その圏域はどんどん狭まってゆく。交信相手はかぎられ、そのかぎられた人と脅迫的なまでに繰り返し繰り返し交信する。世界を開くはずのメディアを手にすることで、世界はますます小さく閉じてゆく……。 これならケータイなどもたずに見知らぬ土地に出かけたほうが世界は広がる。見ず知らずの人に道を訊ね、地のものを食わせる店がないか訊き、食べ終えたらお店の人にいろんなことを教えてもらうほうが、うんと世界は広がる。社会に大きな隙間を開ける作業、さてどこから手をつけたらいいものか。(p.114)
碁盤の目の道のどこにいても山が見えるから、京都では方位を見失うことがない。
景観というのは、移動という運動のなかでのそういう光景のめくれというかたちで(あるいは流れるように脇で目に入っているらしい光景の断続という形で)身に刻まれるものであって、けっして正面に立ってこの景観はすばらしいというように感得されるものではないのである。たたずまいとは元来、そういうものである。都市とはそれぞれがじぶんで「書く」ものなのである。(p.164)
子どもを「育てる」のではなくという言い方が好きではないという。子どもが自然に勝手に「育つ」というのがいい。
現代の社会には、そういう「自然に育つ」場所が本当に少ない。「自然に育つ」というのは、無視する、放置しておくということではない。子どもが勝手に育つような「場」がしっかりあるということである。 よその子どもたちを見て見ぬふりをするおとなたちが、かつての地域にはたくさんいた。 いまは、ちゃんと見ないで、見たようなことを言うひとが多すぎる。(p.217)
見て見ぬふりと、見ず見たふり。
ハイパーメトリックな社会は、前者を価値ある行動としてカウントすることができない。後者はカウントできてしまう。だから皆それをしようとする。価値なんかないのに。
さて、傍線だけでなくて、文そのものを書きとめておこうと思う部分がたくさんある本をひさしぶりに読んだ。タイプしてみると、「じぶん」とか「けっして」とか、漢字を開いて使っているところが多いのにあらためて気付かされる。ローマ字でタイプして、私の学習履歴が染み込んだ辞書で変換すると、第一候補はことごとく漢字になってしまったので、分節を移動しながら、かなに開いていかなくてはならない。カーソルを動かしながら、鷲田の「声」が意識された。
を読む。
著者は、アートディレクター佐藤可士和の妻にしてマネージャー。
常に方法を意識しながらメタレベルからプロジェクトを見つめる立場を貫く。
オフィス作りの話にも一章割かれている。
独立後、ふたつのオフィスは極めてタイトフィットで、ひとりもスタッフを増やすことができなかった。そこで三つめのオフィスは、「十人増えても大丈夫な空間」が目指され、実現された。
先の二つのオフィスを手がけたときは、「設計した時点の条件で完成するデザイン」でした。それはそれとして美しく、完成されたデザインですし、コンセプトも明快に伝わっていましたが、ちょっとでも動かしたら壊れてしまうという点においては、繊細で弱いクリエイティブだったと言えます。誤解を恐れずに言いますと、オフィスという空間に求められる条件を満たしていないという意味では、失敗だったと言っていいかもしれません。 でもそれは必要な体験で、自分自身が経験したからこそ、今度はフレキシブルで耐久性のある空間をつくることができるようになったのです。後に佐藤が「カタチで完結するのではなく、理念で完結する。その考え方を手に入れられたのは、ものすごく大きい」と話してくれましたが、実はこれこそ、ブランディングにおける本質といえるのではないでしょうか。(pp.166-167)
ひとりのクリエイターが自分だけで管理し続けることはできない。「多少のことでは壊れない“耐久性のあるシステム”をデザインする」ことが必要だ、という意識を、オフィスのデザインを通じて獲得したというわけだ。
リテラシーが必ずしも高くない組織が使ったとしても、グデグデに崩れていってしまうことのない、強い「耐久性のあるシステム」をもったワークプレイスのアーキテクチャーを構想すること。これは、今私が取り組んでいる仕事でも痛感し、これをやらないと仕事をしたことにならないと主題化されつつある課題なので、共感するところ大であった。
とはいえ、スーパータイトフィットを経験してから緩めるのと、ガバガバの経験しかないのを締め上げるのとでは、ベクトルが全然違うのもまた事実。
とはいえ、真逆のものはかえって似てくるのもまた事実。
こういうマネージャがいるってのは羨ましいなあと思うが、まずはひとり二役で二重人格的にやるよりほかないわな。
仙台文学館にて開催中の展覧会。
友人Kに教えてもらって、出かける。
閉館間際。夕闇。
携帯電話のカメラで「ピロピロリン」と大きな音を立てて次々と写真をとりまくる女子大生の無遠慮な振る舞いの、しかしすごく真剣に没入している様子がおかしく、笑いを殺しながら、澁澤の遺稿の、思いの他子供っぽくて円い、鉛筆書きの文字を追う。
子どものころ父親のカフスボタンを呑んで騒ぎとなった経験が、高丘親王に真珠を呑ませるエピソードにつながったという。自身で入院した最後の病室を「呑珠庵」と号した。ドンジュアンといえば伊達男ドンファンのこと。余裕のある患者だこと。咽喉のガンを切ってからは声が出ず筆談で通した。その筆蹟も展示されている。
家に帰り、『高丘親王航海記』を探すが見つからない。
白と金の堅い箱に入った本だったはずだけれど。
を渡米中に読んだ。
カズオ・イシグロ『充たされざる者 (ハヤカワepi文庫 イ 1-5)』
文庫一冊で900ページ超にわたって、時間が進まないままの薄暮が続く。
カフカとか、百年の孤独とか、そういうのが好きだと読める。
を読む。平積みのベストセラー。評判にたがわぬ面白さ。
福岡 伸一『生物と無生物のあいだ 』、講談社現代新書 No.1891、2007
生命とは自己複製を行うシステムである。
と、定義してみたものの、すっきりと腑に落ちることはなかった筆者が、
生命とは動的平衡(dynamic equilibrium)にある流れである。
という新たな定義にいたるまでの道のりを、分子生物学の開闢の歴史とあわせて語る。
必ずしも見てそれとわかるわけではない分子生物学の研究プロセスが、波打ち際の楼閣の砂粒とサンゴの粒と入れ替えるというような、詩的な比喩で説明される。一読ではわかりにくい部分もあるが、丹念に想像しながら、文字通り脳裏に像を想いながら読めば、そのイメージはきちんと共有できる。この感じは、サイモン シンの『フェルマーの最終定理 (新潮文庫)』と通じるものがある。もっともサイモン・シンはジャーナリストで、福岡伸一は自身が科学者であるという違いはあり、科学者の方が詩的なわけだが。
本筋とは違うけれども私にとって印象深いのは、都市の描写である。とりわけ、ニューヨークにあってボストンにはないもの、「それは振動(バイブレーション)だった。街をくまなく覆うエーテルのような振動。(p.205)」という指摘と、それに続く空間的イメージの連鎖は、大変に魅力的に読めた。このような筆致が、私には暗い分子生物学の説明においても同じくなされているのであろうと考えることはとても楽しい。
筆者がニューヨークのバイブレーションを感じていたころの、つまり若きポスドク科学者の、生活の厳しさと不安定さについても繰り返し言及がある。ちょうど水月昭道の『高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)』を読んだところでもあり、有期任用の我が身には堪える部分でもあった。
そういう道草の苦味を楽しみつつ、昔習ったままだった私の中の古くさい生命のイメージが、本書を読み進めるにつれてサラサラと更新されていくのは気持ちよかった。
生命とは動的平衡にある流れである。
この定義の素晴らしさは、それが、聞いてしまえば当たり前のことのように聞こえることだ。
を読む。
多木 陽介『アキッレ・カスティリオーニ―自由の探求としてのデザイン』AXIS出版、2007
工業デザイン、とくに照明器具や家具、それに展覧会のデザインに多くの傑作を残したカスティリオーニ。本書はイタリア在住の筆者が、入念なスタジオ取材を経て書いた、カスティリオーニの設計方法論集。
いわゆる作品集ではないので、他のもので作品をおさらいしてから読むとよい。(Paola Antonelli『Achille Castiglioni』とSergio Polano『Achille Castiglioni Complete Works (Electa Architecture)』は研究室にあります。)
ムツカシイお題目なしで、見ればわかる明快なデザイン。作品集の図版だけ見ていると、その明快さとユーモアがぐうっと前面に出てくる。だからこそ逆に、どのようなアプローチでこのデザインに至ったのかは、なかなか見えてこない。作品を楽しむだけでなく、どうやればこんなふうに作れるのか、を知りたい人には、どうしてこうなっていったのかを追究する本書は実に興味深く読めるにちがいない。帯を深澤直人が書いているけれど、深澤のデザインに共感できる人ならカスティリオーニにもきっと共感できるだろう。
眼鏡やハサミ、ハンマーなど、たくさんの道具をコレクションし、メリー・ポピンズよろしく鞄から取り出しながら、その有用かつ無駄のないデザインを猛烈な勢いで語りまくるカスティリオーニの授業、ぜひ聞いてみたかったな、と思う。
ほぼ同時代だし、イームズとカスティリオーニの比較研究はやってみるとおもしろいかもしれない。暗闇でひとり対峙する映像作品に進んだ生真面目なイームズと、ずっと誰かとおしゃべりしていたいカスティリオーニ……みたいなステレオタイプにはまらないようにしなくちゃいけないけども。
本書で照会されているトリノのデ・アンジェ広場の交通再編成計画など、カスティリオーニの都市計画の仕事については全然知らなかった。駐車場と自動車動線に占拠されてしまった形ばかりの「広場」を再構築し、「歴史的スペースを自動車の下から発掘する(p.204)」という。このフレーズは、私たちが現在とりくんでいるキャンパスの駐車場再編成計画のスローガンにも使えそうだ。
ミラノにあるカスティリオーニのスタジオは、その作業環境そのものを作品とし、博物館として公開されているそうだ。ワークプレイスの動態保存である。ぜひ、見に行かねばなるまい。
を読む。
武満 徹『武満徹対談選―仕事の夢 夢の仕事 (ちくま学芸文庫 タ 26-1)』
私にはとりわけグッとくるラインナップだ。初出年次が一覧になっていないので対談相手の後ろに書いて、古い順にソートしてみる。
辻靖剛、1965
杉浦康平、1973
谷川俊太郎、1975
吉増剛造、1976
寺山修司、1976
秋吉敏子、1976
黒柳徹子、1977
ジョン・ケージ、1982
黛敏郎、岩城宏之、1982
キース・ジャレット、1984
ヤニス・クセナキス、1984
ジョージ・ラッセル、1988
デヴィッド・シルヴィアン、1992
大竹伸朗、1992
たしかにちょうどこれらのころに、私の物心はついていったのだ。
さて、読み終えて見返して、面白いなと思った言葉、思わず傍線を引いた言葉が、武満ではなく、いつも対談相手によって発せられていることに気付く。
そのように対話する人に私もなりたいと思う。
来日したジョン・ケージは、はじめ桜の花を逃したことを悔やむが、それは菖蒲の美しい季節なのであった。
ケージ 誰でも、人間はいつだって、なにかちょうどいい時季にいるものだ。それは音楽の自然であり、またそれは自然の音楽でもある。私がキノコを好きなのも、ひとつにはそれがあるからなんです。キノコの時季というのはきわめて短い。地上に姿を見せるやいなや、もう腐敗がはじまる。だから、もし君がキノコをひとつ見つけたとしたら、それはちょうどいい頃合いに巡り合ったということになるんだ。(p.108)
を読んでいる。
研究室のWRDG関連メンバーによる読書会形式。
イーフー トゥアン『空間の経験―身体から都市へ (ちくま学芸文庫)』
現象学的地理学の古典。
1977年に原著、邦訳は1988年。
この本の多くの章では、博覧強記の著者が様々な事例を列挙しているので、ロジックを丹念に追うというよりは、その多数多様な事例をどのようにマッピングするか、を意識しながら読むことになる。そのような読みの姿勢自体が、歴史的であることと対比して、地理的な姿勢なのである。
2008.2.22
3 空間・場所・子供/発表担当:須藤春香
4 身体・人間関係・空間の価値/発表担当:横山公貴
2008.3.4
6 空間の能力・空間の知識・場所/発表担当:本間茂樹
7 神話的な空間と場所/発表担当:阿部篤
2008.3.6
12 可視性——場所の創造/発表担当:後信和
13 時間と場所/発表担当:池田晃一
この読書会は開かれたものなので、関心のむきは本江まで
を読む。
服部 真澄『エクサバイト』角川書店 、2008
伊坂 幸太郎の『ゴールデンスランバー』と読後感が似ているのはなぜだろう。サゲが似ているからか。
を読む。
ドナルド ショーン『専門家の知恵―反省的実践家は行為しながら考える』
邦訳題が軽薄な感じで自己啓発本のような響きですらあるが、副題に入っている「反省的実践家」="Reflective Practitioner" が原題である。
技術的合理性にもとづいて知識を行使する技術的熟達者(technical expert)から、行為の中の省察(reflection in action)にもとづく反省的実践家(reflective practitioner)へと、専門家(professionals)像をシフトしようという構想。
研究室でやる読書会のネタ探しをしていて、おもわず読みふけってしまい、ついでに書架の奥からテリー ウィノグラード『ソフトウェアの達人たち―認知科学からのアプローチ』を発掘して、ドナルド・ショーンのインタビューまで読んでしまい、さらに参考文献数冊を注文した。こういう、ひとり盛り上がりは久しぶり。とても幸福である。そんな暇があったら早く仕事しろ、という声が聞こえてくるような気もするが、これも仕事ですから。
この本については、二年ぐらい前にも書いた。
邦題が気にくわないと、この時も書いている。進歩のない話だ。きっちりまとめて講義で話す、という約束は、来年度のITコミュニケーションデザイン論で果たされるはずですので、ご期待ください。
を読む。
アップルをはじめとする具体的な企業の事例と、様々な領域の理論とを接続する該博な知識で、昨今のバズワードとなっている「イノベーション」や「クリエイティブ」をめぐる諸概念を一気にマッピングしてくれる。
「真摯さ」がキーワードとなっていることが興味深い。
たとえば、低公害エンジンを開発し、これで世界一になれると喜んだ本田宗一郎に、我々は空をきれいにするためにやっているのだ、トップスリーに勝つことなど問題ではない、と反発したスタッフの真摯な姿勢。
英語なら sincere。
建て前見てくれ虚栄を捨てて
求むデザイン 真摯あり
やっとできました。
3年くらいかかったなあ。
「こんどのMAPは でっかい。海越え 山越え 建築めぐり」と帯にありますように、TOTOの定番、建築MAPシリーズはずっと都市ガイドだけだったのですが、この九州/沖縄が、はじめての広域地域ガイドになってます。
構成もかなり新しくなっていて、重要な作品は複数の写真や図面、スケッチなどで詳しく紹介しつつ、解説こそないけれど写真付きの作品も数多く載せてます。九州に特徴的な炭坑や土木施設などの近代遺産や、伝統建築についてもかなり載せているのも特徴。
まだアマゾンにはないようだけど、来週には書店には並びます。
2000円。
ご笑覧くださいませ。
↓アマゾンでも扱いはじめました。
TOTO『建築MAP九州/沖縄』
が亡くなった。
代表作はあれこれ紹介されているが、私にとっては断然『華麗なる激情』のミケランジェロなのである。
キャロル・リード『華麗なる激情 スタジオ・クラシック・シリーズ』
「華麗なる激情」は、ルネサンスの巨匠ミケランジェロが教皇ユリウス2世の命を受けてシスティーナ礼拝堂の天井画を完成するまでの物語である。
芸術家のクリエイションのプロセスが、神秘的なものとしてではなく、コストや人事、責任分担などをめぐるトラブルを克服しながらファシリティの価値を高めるミッションを達成していく実践的プロセスとして、克明に描かれている。つまり、これはクライアントである教皇ユリウス2世と、コントラクターであるミケランジェロが、システィーナ礼拝堂天井画制作というプロジェクトをいかに成功させるかという、ファシリティマネジメントの物語なのである。
メディチ家の人々や、取り澄ましたイヤミな建築家ブラマンテ、世渡り上手でスマートな美男子ラファエロなども登場し、プロジェクト遂行という視点で世紀の天井画制作の舞台裏が描かれる。
この映画をFMの映画として見るという見方は、JFMAの上ノ畑さんから教えてもらった。そして、宮城大学でやっていたFMの授業の中で毎年見てきた映画なのだ。私にとって、一番多く繰り返して見た映画かもしれない。当時の授業で使っていたハンドアウトは、これだ。当時はDVDが入手できず、アメリカで買ってきた英語版のVHSで再生していた。
チャールトン・ヘストンといえばもうひとつ、
リチャード・フライシャー『ソイレント・グリーン 特別版』
も忘れ難いが、それはまた別の話。
ご冥福をお祈りいたします。
ってのがいいと思うんです、と茅原さんが言う。中西さんも、上場を目指すばかりではなく、小さく持続的な商いを続けていくようなビジネスの価値観もアリだと話す。へぇ、飽きないってえますからねえ、と時そば的に合いの手を入れておいて、思い出したのは、エドワード・デ・ボノの『魅せる会話』で、最近読んだ話。
EUでも特に経済的に成功しているというイタリア北部のベネト州。名古屋のような大企業の城下町という成功モデルとは対照的に、ここには11人にひとつという、たくさんの小さい企業が数多く設立されているのだという。なぜそんなにたくさんの小企業が設立されているのか。それは、イタリアには低金利の融資があって、企業設立のリスクが押さえられるからだそうだ。
そこにもうひとつのアイデアを加えると、リスクはさらに軽減出来るとボノは言う。
小さな企業が倒産したとき、その損失額をほかの企業に税額控除として売ることができる、というアイデアです(同じ業種である必要はありません)。この手段は、小企業設立数の現象傾向の歯止めに一役買っています。(p.71)
倒産しても債権者にあまり迷惑をかけなくてすむなら、再チャレンジはしやすくなる。政府は、儲かっている企業からの税収を少しばかりとりそびれることになるが、地域全体として経済が活性化するのなら、トータルな税収はむしろ増えるかもしれない。こういう小商い指向の仕組みと、つぶれまくる新興企業の屍の群れの上で大もうけしている極少数の企業からガバッと税を取る仕組みと、どっちが利口なのか。
# ボノの本のこの部分だけを読むと、倒産の損失を税額控除として売る、というアイデアが、ベネト州で実際に行われていることなのか、ボノのアイデアにとどまるのか、知識のない私には判断がつきかねる。簡単に調べてみたが、よくわからない。もしかしたら、とてもあたりまえのことなのかもしれない。
を読む。
一年ぐらいまえに読んだ『ナガオカケンメイの考え』の続編というか姉妹編。
人と一緒に仕事をつくっていく、そのやりかた。忙しい人が、忙しいにも関わらず仕事を成し遂げていくことの凄みについて触れられている部分が印象的。
それから、悩んだ揚げ句、ハイビジョンのビデオカメラを買うのをやめるくだりも。
考えていくと、私たちはなんでもかんでも「家」の中に持ち込み過ぎているように思いました。映画館に行かず、ホームシアター。コンサートへ行かず、サラウンドシステム。写真プリントも自宅のプリンタで。(p.262)
ナガオカは家の中になんでもかんでも持ち込みすぎているというけれど、一方で、コンビニやら中食やら深夜営業のスーパーやらで、家の外へあれこれどんどん都市に抜け出ている、という指摘もある。これは逆のようだけど同じことを指していて、要するに「家」と街の関係が昔とは違ってきた、ということだ。
ひっくるめると、ひとりでも平気なようにする、という方向性があるように思う。
内田樹だったか、消費の単位を細分化してマーケットを拡大しようとする資本主義の方向性について書いていたが、まさにそういうことだな。物質的充足の単位が、家族ではなく個人になるのだ。
消費の単位の細分化は、もちろんさらに個人の内面にも及び、ひとりの人間のうちに複数の消費マインドが併置される。あれも欲しいしこれも欲しい消費者が誕生し、その欲望は充たされ、家の中の個室の中になんでもかんでも持ち込まれてしまう。
仙台から八王子への出張のみちすがらこの本を読んで、そういえば近くではないかと思い、港北の IKEA に行ってみた。恥ずかしながら初めて。品物と価格と売り方に、それぞれ思うところは多かったけども、一番印象的だった出来事は、近くにいた客の若い女性が連れの友人に感心した様子で「けっこういいよねえ」と言った後続けて、「飽きてもこの値段ならイイしさ」と言ったことだった。そうは言わなかったが明らかに、飽きたら捨てればイイしさ、と言ったのだ。違和感よりもむしろ共感を覚えた。IKEAはそういう空間だった。
ナガオカの前著を読んでから、一度だけだけれども、九品仏のD&DEPARTMENTを訪れ、食事もして、けっこう長い時間を過ごした。いごこちのよい場所だった。ああいう店がうちの近くや卸町にもあればいいなと思う。でも、あれば IKEA にもきっと通うだろう。
を読む。
"知的創造の現場―プロジェクトハウスが組織と人を変革する" (Thomas J. Allen, Gunter W. Henn)
原著はこれ。
とにかく、出会わせろ! ということなのだった。
あえてさせる遠回りなど、「一見すると入居者にとって不便で非効率的と思われる仕組みが、実際には効率をアップさせている場合がある」とき、これを「有益な不便 functional inconvenience」と呼ぶのだそうだ(p.97)。時間がたてばいずれわかるという教育的啓蒙的な問題として考えることもできるが、ワーカー本人には不便でも経営者には有益だ、という階級的な問題と考えることもできる。経営のコントロールがゆるいと、なし崩し的にワーカーの目先の便利さ一辺倒へと滑り込んでいくことだろう。
たくさんの調査データ、実験データが提示されている。どうやって調べたのか、定義はどうなっているのか。もとの研究にさかのぼってちゃんと読まねばならぬな。
の読書会、2回を終了。
表面にこってりとまとわりついたヴィリリオ節をぬぐい取ると、案外クリアな構図のストーリーであることがわかる。
が、ヴィリリオ節をぬぐってしまうと、ほとんど読む意味がない。落語の「初天神」で、着物を汚すといけないからと、子供のだんごの蜜をなめてしまうおっちゃんが想起される。
を読む。
SFの古典。冒頭の一章がクラークによって改稿されているものの新訳。
『2001年宇宙の旅』とも通底する、人類の次のステージへのビジョン。
高校生の時、おそらくはハヤカワ文庫で読んだ。その時は、オーバーロード統治下の怠惰な平和の時代の描写に魅かれ、またラストでも、新生する子供たちに共感していたように思う。
今になって読み返してみると今度は、置いていかれる最後の親たちの諦念と、決してもう進化することのない「助産婦」たちの悲哀に、共感するのであった。
古典を読み返すことにはこのような我を写す鏡としての妙味があるのだが、こういう枯れ方は我ながらちょっとまずいのではないかと反省したりもした。
読書会にて、とりあげる。初版から30年。バージョンがいくつかある。一番新しいはずの岩波現代文庫版。
興味深い挿話が次々と流麗な言葉で説明されるのに巻き込まれてしまい、美辞の抜き書きにとどまって構造を捉えきれないでいた発表者を戒める。そのように読むことを通じて、そう書くことができるようになるように。
"生きられた家―経験と象徴 (岩波現代文庫―学術)" (多木 浩二)
次週、後半。
を読む。
立川談春、前座時代のエッセー。
『落語は人間の業の肯定』と、師匠の談志は言う。どんな芸能も多くの場合、テーマは「為せば成る」である。努力はきっと報われるからがんばれ、というメッセージがある。忠臣蔵なら四十七士が主人公である。しかし、赤穂藩には300人からの家来がいた。250人は敵討ちにいかなかった。称賛される四十七士の影で、理由のいかんを問わず、逃げた250人は辛い思いをしたであろう。
落語はね、この逃げちゃった奴等が主人公なんだ。人間は寝ちゃいけない状況でも、眠きゃ寝る。酒を飲んじゃいけないと、わかっていてもつい飲んじゃう。夏休みの宿題は計画的にやったほうが後で楽だとわかっていても、そうはいかない。八月末になって家族中が慌てだす。それを認めてやるのが落語だ。(p.13)
これを聞いて、中学生の談春は談志に魅せられる。
もちろん、それで自分がそうしていたのでは落語家にはなれない。
教えることと学ぶことについて示唆に富む内容……などというとあんまり硬いし、素直にゲラゲラ笑ったりしんみりしたりしながら読めばいいのだけれども、文体の軽さから読みはじめに想像したのよりもずっと、読むのに時間がかかる本だった。
機会を作って、立川談春をきかなければと思っている。
を読む。
"ウェブ炎上―ネット群集の暴走と可能性 (ちくま新書 683)" (荻上 チキ)
まとめの結論として、次のように書かれる。トリッキーだが、言いえて妙。
(p.213)
- これまでに起こってきた現象が、これからも形を変えて起こり続ける。
- これまでに起こってきた現象が、これからは形を変えて起こり続ける。
インターネットにおいては「法の完全実行」が可能となる結果、「法の過剰」が起きることが懸念される(p.182)が、さらにその先には「道徳の過剰」も懸念される(p.184)といった指摘や、「動機の語彙」(社会に存在する動機に関する類型的な語彙)と同様の「批判の語彙」(p.192)、その「誤配」など、コミュニケーションに関する社会学の概念を用いて、ネットの危うさをきれいに整理して示してくれている。希望に加担する形で。
を読む。
"ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち" (速水健朗)
「被差別小説」たるケータイ小説について、そのマーケティング論でもテキストそのものの読み込みでもなく、それが生まれる培地としての地方の郊外に顕著なヤンキー文化についての論考。浜崎あゆみ、ヤンキーの聖地回復、再ヤンキー化、東京に行かない感覚、電車に乗らない感覚、地元つながり、自分語り、ホットロード、ティーンズロード、NANA、ショッピングセンターなど。
郊外研究者必読。
郊外にはこういう人たちが住んでいる。
こんなのあたりまえと思うか、違和感があると思うか。
私は世代的にギャップのほうが大きく感じたが、日常的に散見される現象が、よく説明されているように思われ、いちいち腑に落ちた。
隣の五十嵐太郎研究室でヤンキー研究にとりくんでいるはず。
著者のブログの、ファミレスは個室居酒屋とSCのフードコートに駆逐されるであろうという記事もおもしろかった。
その日のために、僕はファミレスが登場する漫画や小説をコレクションしているので、10年後にはファミレスアンソロジーを編纂したい。
[From 【A面】犬にかぶらせろ!: ファミレスはもう手遅れになっている 33 users(推定)]
を読む。
とても面白く読んだ。
普遍語と現地語と国語。〈叡知を求める人々〉が〈読まれるべき言葉〉を連鎖させ人類の叡知を蓄積させることによって学問は成立する。そのための言葉が〈普遍語〉である。ポーランドのコペルニクスの発見を、イタリアのガリレオが確証し、ドイツのケプラーが擁護し、イギリスのニュートンが証明を与える。彼らはみなラテン語で書いた。今は英語で書かれる。
西洋ではない日本において、はやばやと日本語が国語として成立し、日本語で書かれた近代文学が世界の中でも例外的な豊かさをもちえたのはなぜだったのか。英語が普遍語となった今、英語教育と日本語教育はどのようになされるべきか。
ちょうど、大学で国際建築ワークショップをやっているところであり、英語で協働作業をやることの難しさばかりが立ちはだかって思考の密度が上げられないのなら、少なくとも日本ステージは日本語でやるほうがいいのではないか、などと考えていたところだったので、水村の議論は、切実に感じられるものだった。
もっとも純粋な普遍語としての数学についての言及(p.123)がある。建築は同じような意味で、普遍語としての性格をある程度はもっているといえるだろう。しかし、日本の「木造在来」(すごい言葉だ)のような〈現地語〉による建築が、しかし世界各地に存在しており、統一的なビルディング・インフォメーション・モデルのフォーマットの構想は、どこかユートピア的なトーンを帯びてしまう。現地語でしか記述しようのないディテールを、どうすくい取ればいいのか。これら三語のギャップの問題として見直すことができる。
さて、この本は、当の国際建築ワークショップのために成田からバルセロナに向かう機中で読んだ。
途中、KLMをアムステルダムのスキポール空港で乗り換える。
スキポール空港の案内サインには、〈現地語〉であり〈国語〉であるはずのオランダ語の記載はない。英語だけである。英語しか書いてないので、ひとつひとつの文字が大きく、余白のたっぷりとられたサインになっている。
この「英語だけでいいじゃん」という方針は徹底されていて、カフェのメニューなども英語しかないし、企業の広告もオランダ語のものはほとんどない。アナウンスもほとんど英語だけ。今いる席から見渡す限り、オランダ語は消火栓に書かれた警告だけだ。そのことがとてもすっきりとした記号環境をつくり出していて、ガチャガチャした多国語表示が当然となっている他の空港とはまったく違う、独特の表情をスキポール空港にもたらしている。
このあと、スペイン語とカタルーニャ語と英語が列記されているバルセロナ空港に着いてみてあらためてそう思う。同じアルファベットの似て非なる三語列記には、日本の、漢字仮名交じりとアルファベットと略体字とハングルの列記ともまた違う煩さがある。
国際空港は〈普遍語〉の空間なのだ、という開き直りがもたらすスキポール空港の爽やかさ。それへの共感と、同時に感じる疎外感。
これからしばらく、〈普遍語〉でギクシャクとコミュニケーションを取る日が続く。
をsoRaで読む。
『日本語が亡びるとき』で再三言及されていて、あらためて読んでみるかと思いたったのだが、しかし今はバルセロナにいるので、青空文庫からダウンロードして、iPhoneの文庫リーダー soRaで読んでみた。縦書き、画面もきれい(明朝体だともっといいが)、操作もシンプル。まずは文庫本と遜色ない感じで読めることを実感した。もちろん、スライダーだけでは、どこまで読んだか、あとどのくらいあるのかを本でそうしているときのように空間的に把握するのは難しいけれども。
『三四郎』は高校生のときに読んで以来。私にとっては懐かしい場所がいっぱい出てくるので、感傷的な気分になりもした。
追記:
ドナルド・ノーマンの『未来のモノのデザイン』を読んでいたら、次のような記述があった。
本や雑誌を読むとき、どこまで読んだかのマークが残るだろう。自然に擦れたり破れたりする場合もあるし、意図的にページを折ったり、付箋を貼ったり、強調マーカーやアンダーラインを入れたり、余白に書きこんだりすることもある。電子文書でも、これらの手がかりのすべてが必ずしも失われてしまうわけではない。結局のところ、コンピュータは何が読まれたか、どのページまでスクロールされたか、どの節が読まれたかを知っているのだ。ソフトウェアに擦れマークをつけて、どの節が編集されて、コメントされ、最も読まれているかが読者にわかるようにしてはどうだろう。ウィル・ヒル、ジム・ホラン、デイブ・ウルブレフスキー、ティム・マッキャンドレスの研究チームはまさにそうやって、どの節が最もよく読まれたかわかるように、電子文書にマークを付け加えた。汚れやすり切れは、使用されたこと、関連性や重要性の自然な表示であるという利点を持つ。電子文書では、実際に汚したり不潔にしたり傷つけたりといった不利益なしに、その長所を取り入れることができる。暗黙のインタラクションは、知的なシステムを開発する興味深い方法である。(p.79)
ページがちょっと焼けた感じになるとか、実装も難しくなさそうだし、いいかもしれない。
soRaにはダウンロードしたファイルを一覧する「本棚」があって、何ページまで読んだかの数字は出るけれど、何ページあるうちの何ページかはわからない。
ノーマンが引用文中で言及している論文はこれ。結構有名な研究のようだ。
Edit wear and read wear
(アカウントがないので読めないが orz)
こういうことは、「インタラクションヒストリ」として概念化されているようだ。「意思決定の場面に
おいて, 我々は他者の過去の行為を利用する[白井 2005]」とあるのだが、自分の行為の履歴も利用していいだろう。
白井良成,中小路久美代,山本恭裕, 平田圭二, 松下光範:実環境におけるインタラクションヒストリ: 表現と活用, The 19th Annual Conference of the Japanese Society for Artificial Intel ligence, 2005
を読む。中西泰人さんに教えてもらった。
類書はひととおり読んでいるが、現在日本語で出ているGSUの参考書としては、これが決定版だといってよい。
"Google SketchUpスーパーマニュアル" (山梨 知彦)
東北大学でも遅ればせながらはじめたCAD教育で、GSUを使っているのだが、よい自習用の参考書がないために苦労していた。Googleが用意しているチュートリアルもよくできているのだが、いかんせん英語であるし、ひとつひとつのコマンドの説明に分かれているので、学んでいく流れをつかむことが難しかった。
その点、本書は建築設計者の考えていくパターンにそって手順をふみながら、しかしそれぞれのコマンドの内容を遺漏なく伝えている。
著者は現役バリバリの日建設計のエース、山梨知彦である。「「図を描き、図で考えることができるようになる」——これが本書に隠された最大の狙いである。(p.11)」と、隠れもなく冒頭で述べられるのだが、その点で、本書のハイライトとなるのは「4-1. 立体的な図でアイデアを詰める」であろう。
この節では、業務のフローチャートを描いていく。それだけなら普通、何も長円や菱形や矢印に厚みをつけた三次元モデルである必要はない。だが、図から不整合を排し、できるだけ簡明になるように調整をし続けていくうちに、エレメントが同一平面上に並びきらなくなり、立体的に配置をしていくようになる。この業務がもとめる機能配置の平面(ブロッキング)から立体(スタッキング)への展開は、建築のプランニング・プロセスそのものなのである。
この本が出たので、来期からのGSUの授業の進めかたを大幅に見直すことになりそうだ。
"エレベスト―日本初のエレベーター鑑賞ガイド" (梅田 カズヒコ)
日本各地の名エレベータを案内する全国のエレベータ愛好家のための鑑賞ガイド。
世田谷ものづくり学校にて、著者の梅田カズヒコさんから直接購入。
鉄道に限らず、あらゆる乗り物には様々な角度からアプローチする愛好家がおり、それぞれに視点のユニークさを競っている。エレベータもまた乗り物なれば、その世界を愛でる趣味の存するは理りである。本書はその日本初の入門書であって、エレベータを愛でるための様々な視点と評価軸が提示されている。であるが故に総花的性格を帯びざるをえないのだが、本書はエレベータ愛好界確立の嚆矢たる自負とともに、あえてその曖昧さを引き受けている。
エレベータは19世紀半ばに発明され、以降の都市空間を決定的に変容せしめた真のイノベーションのひとつである。垂直な空間を往き来する乗用エレベータのアイデアはずっと昔からあったのだが、それが実用化されるにあたっての技術革新の核心は落下時の非常停止装置にほかならない。これを発明したのが「エレベータの父」エリシャ・オーチスである。ブランド名に残るこの"OTIS"という名を、「オーティス」と検索するとオーティス・レディングなどが出てきてしまう。垂直な空間を駆け登らんとする我々に波止場に座っている暇はないのに。エレベータ界においてはOTISは「オーチス」と表記する。ティだとトゥだのヴィだのいう洒落臭いカタカナ表記が一般化するよりもずっと前から、エレベータはオーチスだからである。
さて、本書を読み終えれば誰しもが、それぞれのフェイバリット・エレベータや、貴種希種珍種のエレベータについて、思いをいたさずにはおかれない。
私があげるのは、本書を入手した帰り道、最寄りの池尻大橋駅でみかけた「専用改札口つきエレベータ」である。
交通バリアフリー法をうけて、各地の鉄道駅のホームまでのエレベータが急速に整備されている昨今ではあるが、既存の駅、特に地下鉄の駅では、スペースに限りがあるので、コンコースとホームとをつなぐ垂直な穴を開ける位置を探すのは非常に難しい。
池尻大橋駅では、メインの改札口の前に、上下線それぞれのホームにつながる位置に、専用のエレベータが設置されている。本来ならば、改札の内側にエレベータを設置するところなのだが、そうはできなかったのであろう。二つのエレベータそれぞれの前に、専用の自動改札が、車椅子仕様で設置されている。しかも、エレベータの定員に対応する形で、改札とエレベータの間に助走路めいたランウェイがとられている。コンプライアンスへの意志とタイトな空間とがせめぎ合う中で出現した、トリッキーなソリューションだといえよう。自動改札でなければできない方式だが、この専用改札に二人の駅員が、仁王門よろしく張り付いて、切符を切るハサミの音を響かせる様子を想像せずにはいられない。
あなたはどんなエレベータが好きですか?
を読む。
"メイキング・オブ・ピクサー―創造力をつくった人々" (デイヴィッド A.プライス)
ピクサー設立からディズニーに迎えられるまでの物語。テクスチャマッピングやらレイトレーシングやら物理シミュレーションやら、コンピュータグラフィクスの技術開発と歩みを揃えてピクサーが進んできたことがよくわかる。
同時に、徹底的なリサーチに基づきつつ、誰もが楽しめるストーリーの構築がいかに丁寧に行われているかも面白く読める。「ニモ」のための海中のCG映像があまりにリアルで、魚のキャラクターが浮いてしまったので、より絵画的なものに調整した、とか、「この魚はこうは動かない」と粘る魚の研究者と、よりアニメらしいリアリティのある動作を求めるアニメータとの対立に、「そこまで言うなら、そもそも魚はしゃべらないぜ」とひっくりかえしたり。
ディズニーのアイズナー会長とスティーブ・ジョブズの確執など、クリエイティブ産業の経営バトル物語としても面白い。
ピクサーのアニメを劇場で観ると、いつも最初に単純なコントのような短編アニメがかかる。しかし、ピクサーにとって、技術開発とデモンストレーション、そしてスタッフのモチベーション維持のため、これら短編アニメの意義は非常に大きいようだ。
本書で言及される実験短編アニメのほとんどは、下記のDVDに収録されていて、読んでから見るとその位置づけもクリアになって興味深い。ピクサーの歩みについてのドキュメント映像もついているが、本書とはちょっとトーンが違っている感じ。
"ピクサー・ショート・フィルム&ピクサー・ストーリー 完全保存版 [DVD]" (ウォルトディズニースタジオホームエンターテイメント)
古本で『SIGHTSEEING』という写真集を買った。
中ほど、イースター島のページに紙焼きの写真がはさんであった。
床に白い敷物をして、球や円錐やらの石膏像をならべ、デッサンをしているところ。美大か予備校のアトリエだろうか。カメラを床において撮ったらしい構図。2007年に出た本の中にあったのだから古い写真でもないと思うが、デジカメではないようだし、プリントの裏面にタイムスタンプもないから30分プリンタでどんどん焼いたものではなく、もしかしたらフィルムから自分で焼いたものかもしれない。
古本の書き込みや栞に前の持ち主の気配を感じるのはいつもおもしろいことなのだけれど、この何気ない写真の持つ温度にハッとさせられた。
その場で起きている経験の中心から微妙に外れた位置に立って新しい景色をメタに見るという、この写真集の内容とシンクロする視点で撮られていることも、強い印象の理由だろう。もしかして狙ってそう撮った写真だったのかもしれない。
この写真集はとてもいい。観光地で、必死になって人のいない瞬間を狙い、絵はがきのような写真を撮って満足するのはなんだか妙なものだと、自分でもついそうしながら、ずっと不思議に思っていた。この手があるな。
金髪と金閣とか色の韻みたいなこともおもしろいけど、なによりいいのは、観光地で記念写真におさまる人たちが一様に心浮き立つ表情でいることだ。よい顔だ。
『文房具を買いに』の続編。
どんな文房具でもそのいっぽうの端には、それを使う人の体の動きという、これ以上ではありえない具体性が、最小単位としてかならずある。そしてもういっぽうの端には、きわめて大づかみに極限的な一般論をごく簡単な言葉で言うなら、人間が世界を作り替える試みが、かならずつながっている。(p.41)
すべての道具がわれわれを魅了してやまないのは、人間の世界へのかかわりあいかたが凝縮して形をなしているからだ。なかでも文房具は「世界を作り替える試み」を考えてみるのに使われ、すすみぐあいをたしかめるのに使われ、その結果を書き残すのに使われる。それは記号を処理するための道具であり、道具の中でもとりわけ人間的な道具だといえるのではないか。
を読む。幸田文のエッセーを、しつけ、きもの、台所の三部作に編み直したもののひとつ。斎藤孝がよく引く「なた」も収録されている。
暮らす場所、働く場所における適切な振るまいの獲得。その方法としてのしつけ。
オフィス研究的に言うなら、スペース、スタイル、ツールの調和がテーマだが、便利さばかりを求める浅薄な”ライフハック”に堕することがないのは、畏れを基調として外れることがないからだろう。
先日、学生と話していたら、「支(か)う」という言葉が通じなかった。「支いものをする」というのがわからない。きょとんとするので、ショッピングじゃないぜ、などといってみる。説明はしたが、いったん重みを逃がして支った棒に再びギュッと力が加わって微妙にたわむようになる感じというのは、共有できたようには思えなかった。責めようというのではない。やったことがなければそうだろう。
だんだん、そんなふうにして、幸田文のころの文章でさえも、古文のようなものとして受容されるようになるのかもしれない。構文もかなづかいもわかるのに何が書かれているかわからない。背景となる空間のしつらえ、出てくる道具、書かれている行為がわからないんだから。落語を聞いていればわかるのにな。
「締まりっ手」(p.196)なんて実によい言葉だと思う。ワークプレイスに関する論考も、幸田文のようなトーンで書いてみたらずいぶん景色がちがってみえるのではないか。
を読む。
本の著者はそれぞれに「書くモデル」をもっている。読者もそれぞれに読み手としての独自の「読むモデル」をもっている。
書くのも読むのも「これはコミュニケーションのひとつなんだ」とみなすことです。人々がコミュニケーションするために、書いたり読んだりしているということです。このとき、著者が送り手で、読者が受け手だと考えてはいけません。執筆も読書も「双方向的な相互コミュニケーション」だと見るんです。
次にそのうえで、著者と読者のあいだには、なんらかの「コミュニケーション・モデルの交換」がおこっているとみなします。それがさっきから言っている「書くモデル」と「読むモデル」のことなのですが、そこには交換ないしは相互乗り入れがあります。正確にいうと、ぼくはそれを「エディティング・モデル」の相互乗り入れだと見ています。(pp.95-96)
このエディティング・モデルは、劣化も変質もなくメッセージ記号を通信するためのシャノン=ウィーバー型の情報コミュニケーション・モデルと、対比するためのモデルとして考案された、「コミュニケーションのなかで「意味の交換」を成立させているもの(p.96)」である。
私たちは知覚活動やコミュニケーションにおいて、外側の刺激に応じて脳の内側でそれと等価の情報を別の記号に変換しているのではない、ということです。
コミュニケーションは記号変換ではないんです。また、ワイワイ・ガヤガヤしながら思いついた言葉を喋っているときも「記号の郵便物」や「通信物」を相手に届けているのではないということです。
そうではなくて、私たちはそうやって取り交わされる情報のやりとりのプロセスで、互いに似ていそうだと思える「編集構造の断片」やエディティング・モデルになりそうなものを互いにさぐりながら交換しあっているのだといことです。ぼくはこれを「編集的相互作用」とも名付けています。(pp.102-103)
つまり
コミュニケーションとは「メッセージ記号の通信行為」ではなくて、「意味の交換」のために行われている編集行為だということです。(p.103)
書くことと読むことの間に、相互作用としての「編集」が介在しているというのは興味深い。
我々が扱う空間のデザインにおいても、作ることと使うことの間に、能動的なコミットメントを通じておこなわれる相互作用的な意味生成プロセスがあるのであり、そこで生まれる意味の総体が「場所」なのだ、と言ってよいのではないか。
"経済成長って何で必要なんだろう? (SYNODOS READINGS)" (芹沢 一也, 荻上 チキ, 飯田 泰之, 岡田 靖, 赤木 智弘, 湯浅 誠)
売り出し中の経済学者飯田泰之の対談集。
経済学者はあくまで技術者であるので「規範=目標は外から与えられる。その規範の中での最適解を出」すという立場。「価値論争部分と計算は峻別」が必要だという。
僕におもしろかったのは、p.185あたりからの飯田と湯浅とのやりとり。
日本の社会保障が非常に低いにも関わらず、地方がもっていたのは、公共事業があったから。公共事業は地方においては雇用を通じた社会保障の機能を担ってきていたのに、より直接的な社会保障への付け替えがなされないまま、公共事業だけがカットされてしまったので、地方はガタガタになっている、という認識は共有されている。
湯浅は、公共事業が社会保障の機能を担っていることを正しく認識したうえで、談合がなくなってダンピング競争になり、少ない公共事業さえも中央にもっていかれてしまうのがまずいのだから、「公契約条例などをつくって、この公共事業のお金のうち何割かは必ず地方に落ちるという決まりにして」いくのがいいという。
飯田は、公共事業の再分配機能は確かにあるが、公共事業がなければ成立しない経済そのものが厳しいのだという。「仮に人口1万人の町があったとしましょう。その町が公共事業がないとやっていけないというのは、この町には1万人を食わしていく力はないのに、1万人が住んじゃってる、ということになるわけです。これを支えるには、必ずどこかよそからお金を持ってこなければいけない。」しかも、公共事業が生産性上昇や景気浮揚に効果を持つのは大都市圏に限られるのであって、地方へ公共事業をまわそうという主張は、ムダを増やすことを認めることになるという。
湯浅が「地方にお金を回すのは、それぞれのコミュニティを守るためには、ある程度必要なんじゃないですか」と応じる。
司会の荻上「いやらしくいえば、そんな土地にしがみつくな、さっさと移住しろ、と」
飯田「平たくいうと、そうなります」とする。
この話題は、巻末の飯田、芹沢、荻上の鼎談にも再度出てくる。p.278 田舎に住む自由を確保すべきか?
荻上が同じ構造の問題として、バリアフリーの学校を例を出す。地元の高校に行きたいと主張する障害者がいたとする。しかし、その学校はバリアフリーになっていない。あきらめて都会のバリアフリーになっている学校に行け、というか、それとも、ひとりのために地元の学校をバリアフリー改修するのか。
飯田は、経済学は、バリアフリーにすべきか否かという問題は解決できないという。バリアフリーの例題は費用便益と保険というふたつの典型的な経済学の問題に整理される。費用便益問題としては、バリアフリー施策にいくらかかるかを示した上で、その額を分担して負担できるか、を問う。ただし、バリアフリー問題は当事者には切実でもそれ以外の人には重要でないため、価値観の対立が生じる。そこで、この改修費用は、そのひとりのためだけのものではなく、これからの子どもたちへ、今後不運にも障害を負ってしまう場合の保険と考える。そうすれば、一定の負担までは受容されるのではないか。
もとの「田舎に住み続けたいが、経済的にも保障されたい」について。地方財政を支えるために都市部の住民はいくら払っているか。細かい計算は本書p.284にあたっていただくとして、現在ざっと収入の1割(!)を支出している。しかも地方人口の維持は保険機能がない。
したがって「おそらく、バリアフリーについては、金額を見たうえで賛成していただける。地方については、「これは無理だ」となるでしょう。」
もちろん、この議論はさらに論点を加えて深まりうる。
建築の学生で、修士設計や卒業設計に取り組んでおり、プロジェクトの社会性について議論したいけれども、イデオロギー対決には辟易としていて、さてどうしようか?という人には、よいひな型を提供しうるのでないかと思う。
が刊行されました。
"都市のあこがれ―東京大学槇文彦研究室のその後とこれから" (鹿島出版会)
この本は、1979年から1989年にかけて東大建築学科の槇文彦研究室に在籍していた学生たちが、その経験から20年を経て、それぞれにどこでどのように戦っているか、をまとめたものである。ゼブルージュのフェリーターミナルのコンペにふれた拙稿「王妃の出帆、星座の経緯」も含め、34編のエッセイと、3人の歴代助手:栗生明、大野秀敏、小嶋一浩によるコラム、そして槇文彦によるあとがきがおさめられている。
青春時代に同じ釜の飯を食った仲間の感傷的な文集…というわけではない。むしろ、巻頭の「本書について」で池田靖史がいう「改めて距離を測り直した決意表明」というのが、自分でも書いてみて、感じたところに近い。他のエッセイを読んでもそう思う。
槇研での議論は、モノポリーばっかりやっていた気もするから多分に美化されているんだろうが、率直に自由で真摯だった。20年たって、自身の研究室を運営するようになって、同じような空気にできたらよいなといつも思っているけれども、どうだろうかな。あんまり自信はない。
西村さんらしい、とても柔らかい言葉で書かれているけど、指摘していることはやさしくない。
いわゆる成功ノウハウ本や自分探し応援本を期待して読むとかえって辛いにちがいない。
がんばって奴隷頭になったとして、でもそれって奴隷のままですよね?
…みたいなことをいう。微笑みながら、冷酷に。
ほとんどニーチェだ。
凡百の成功ノウハウ本のなんとなく卑屈な感じは、奴隷に奴隷頭になる方法を教えようとしているからなのだなと気付く。
ネタバレになるけど終わりのほうにあるように、本書のタイトルは反対を考えるとよくわかる。
つまり、「自分をころして生きる」の反対。
自由と誇りについて考えている。
ラジカルでストレートな問が続く。
したり顔の利いた風な答えでは満足しない。
答えのようにみえるものをこそ、いぶかしむ。
矛盾を引き受けられるようになることが成熟である、なんて言わない。
素直すぎるのでかえって遠回りしてしまう。
保護されてプヨプヨと腫れ上がってしまった尊大な自意識からは遠く遠く離れた、冬の広葉樹のような固くてキュッとした自意識のありかた。
を読む。
プロジェクトにあたって、事務局がどれほど重要かはいうまでもない。いうまでもないことは誰もがわかっているのに、あまり重視されておらず、単に組織の下っ端だからという理由だけでそうなった事務局担当者は少なくなく、きっと失敗すると思っているとちゃんと失敗する。不思議でもなんでもない。
リアルすぎて気分が悪くなるw序章の風景はどこにでもある。
そういう風には書いてないが、事務局はプロジェクトのファシリテータにほかならない。
会社でなくても、大学での学生メインのグループワークについても同じだ。世界にはひとりでやれる仕事などないので、誰もが本書であげるような視点、事務局的視点をもって仕事にあたれば、けっこう空気は変わるであろう。
今度のプロジェクトマネジメントの授業でとりあげたい。このまま読ませてもダメなので、課題化する必要がある。
また、我々のWRDGの研究は、ごく短期的な、いってみれば試合あるいは舞台の時間の分析しかしていなくて、本書の扱うような日常的に持続するトレーニングや稽古、準備の日々におけるグループワークの創造性は扱うことができていないと反省もした。建築の問題に再定義するのは簡単ではないけれど。
を読む。
"13日間で「名文」を書けるようになる方法" (高橋源一郎)
書くこと、そして表現をすることに関する、ラジカルなやりとり。明治学院大学での「言語表現法講義」の講義録という体裁で、高橋があげる参考文や学生の書いてきた文章を読み上げながらの討議が続く。
高橋のあげる参考の文がいちいち素晴らしい。冒頭のスーザン・ソンタグにまずやられる。高橋悠治、カフカ、日本国憲法前文、斎藤茂吉のラブレター、ル=グィンの演説、オバマの演説などなど。
それらを踏まえて提出される学生の作文もまたよい。高橋が指定する適切な順番で現れるわけだから、編集の妙味はもちろんあるのだが、こんなふうに書けるのかと驚くような文章が次々と出てくる。
添削を重ねて手取り足取り教える「良い文章」の書き方からは遠く隔たって、何かを作り出すことの核心を学びあおうとしているように感じた。学生たちがうらやましいし、まがりなりにも教える仕事をしている私にとって、そうか、こんな風にやるのか、と、うならされるところが随所にある。ひとたび「良い文章」の鋳型に鋳込まれた人(あるいは鋳込まれ損なったと思い込んでいる人)に、再びラジカルであれと迫るには手順が必要だ。適切な課題を適切な順序で課すことの設計が授業なのだと、あらためて考えた。あたりまえだけど、簡単ではない。
を読む。
ジェイン・ジェイコブズ『アメリカ大都市の死と生』山形浩生訳、鹿島出版会、2010。全訳の新訳。
50年前の本だが、課題は今も全然変わっていない。俺達はずっと何をしてたんだろうか。
訳者も解題で言及しているが、複雑系や創発、ネットワーク理論のハブとウィークタイズの問題に、言葉こそ異なれ、1961年に独力で到達しているのには驚かされた。たとえば、p.158の「まったく予想外の人を知っている」「飛び石人間」のルーズベルト夫人。彼女自体は 伝言ゲームのための架空の人物なのだけど、「地区を本当に一体化させるためには、その全人口に対して必要となる飛び石人間は驚くほど少数ですみます。」はすっかりハブの話だ。
1992年の新装版への序、「わたしたち人類は、この世で唯一の都市建設生命体です。社会的昆虫たちの巣は、 その発達や機能や可能性において、根本的に違っています。都市はある意味では自然の生態系でもあります――わたしたちにとっては。それを捨て去ることはできません。」
Portraits from Above: Hong Kong's Informal Rooftop Communities
香港のペンシルビルの屋上に不法増築されている住宅の実測図集。
日埜直彦さんがツイートで紹介しておられるのを見て注文しておいたのが届いた。
もちろんそれぞれの住み手にはいろいろな事情があるけれど、パラパラ見ているだけで、都市に生きることに肯定的な気持ちになれる。
ゆっくり読みたい。
を読む。
ブルーノ・ムナーリの、詩とは違う、いうなれば箴言集。
『ムナーリのことば』という訳書名は、まさにそうとしかつけようのない書名。
もしかすると児童書のところにあるかもしれない。それはよいことだろう。
たとえば、
丸い石を 水に投げ込む
丸い波紋が 広がって
そして やがて 消えていく
四角い石を 水に投げ込む
丸い波紋が 広がって
そして やがて 消えていく
とか
木
それは
たったひとつの種の
ゆっくりとした
爆発
とかね。
もちろん辛辣なことばもあるけど、今日のわたしにはそのトゲは届かなかった。
なかば計算づくのヒステリックな言葉に、耳と心を痛めている人に。
"環境のオントロジー" (河野 哲也, 齋藤 暢人, 加地 大介, 柏端 達也, 三嶋 博之, 関 博紀, 溝口 理一郎, 染谷 昌義, 倉田 剛)
建築ITコミュニケーションデザイン論で、説明がうまくいかんとぼやいていたあたりをクリアに解説してくれている。
これを参考に、建築のコンテクストに接続するストーリーを組み立てられると、今度からはだいぶマシな講義にできそうだ。
を読む。
東大で「建築と政治」という授業を担当している御厨貴による、日本の「権力」が使ってきた/いる建築論。
歴代首相の私邸、国会や首相官邸はじめ公権力の施設群、そして政党本部の3部構成。
「建築がそこで営まれている政治を規定しているのではないか。外面的には建築が建つ“場”の状況によって、内面的には建築の中の“配室”の状況や、さらには部屋内の机や椅子の“配置”状況によって、政治決定のあり方が決まってくる。(p.15)」
すわ「権力」のオフィスの詳細が明らかになると思いきや、やはりというかしかたないというか、対象の性格から詳細な図面が載っているわけではないのが不満ではあるが、工学部で習ういわゆる建築史には出てこない、建築技術とは違う側面からの建築史。このような建築書はもっとあってよい。
田中角栄以降の、私にとってはリアルタイムに知る首相たちの記述が、なにやら歴史的な響きをもって語られていることに、時の流れの残酷さを感じたりもする。当事者たちへの聞き書きをもってするオーラルヒストリーの方法にしてみれば、この光陰への焦燥はいかばかりであろうか。取り上げられている首相の私邸のいくつかはすでに焼け落ちてもいるのだ。
を一気に読んだ。
『自分の仕事を考える3日間』シリーズの第2弾。『自分をいかして生きる』を読んでから一年になる。
かわらぬ西村節のインタビュー集なんだけど、構成がいままでとちょっと違う。
語り手ひとりひとりの区切りが弱い。
中扉もなければ、特に大きな見出しもない。
紹介もミニマル。本人に語らせている。
コンテクストがリセットされないまま、次の人の話がはじまる。
私はどんな本でも大抵、目次や前書き、後書きを先に読んで、全体の構造をおおよそ把握してから本を読みはじめる。地図を用意してから散歩に出かけるようなものである。今回もそうしたのだけれど、事前に用意した地図はあまり役に立たないまま、押し流されるように一気に読み終えてしまった。
抑揚がないというのではない。むしろその逆で、いたるところで、痛いところに刺さる——「西村好み」と言って良いと思うけれど——フレーズがちりばめられており、いちいちウウムとうなり、ひっかかりつつ読むことにはなる。だが、全体としての調子は整っている。転調しながら長く続く一曲の音楽のように読める。
これを著者本人は、あとがきで連山の縦走と喩えている。
その比喩はよくわかる。見出された地形の豊かさも、あとがきにある通りだと思う。
ただ私は、地形の豊かさに驚くよりも、その山岳ガイドの脚の速さ、足を着く地点の確かさに感心しながら読んだ。
本書は奈良の図書館でのフォーラムの記録なのだが、その参加者たちもきっと同じようなスピード感を感じていたのではないだろうか。それは喜ばしくもあり、難しくもある体験だろう。本当は途中で転んだりくじいたりしたのだろうから、そういう様子も見てみたいとも思った。
を読む。
よい本屋のできた棚を見て歩いていると、本に呼ばれることがある。
この本ともそのようにして出会い、棚から抜いて、ちょっと縦長の版型も好ましく思いながら、パラパラと開き、スタインバーグのイラストが引かれていることなど見つけ、なかなかおもしろそうではないか、と考えていると、同じ棚に並ぶレーモン・クノーやミシェル・レリスが、間違いないよと薦めてくるので買ってきた。
ジョルジュ・ペレックという作家ははじめてだ。
エッセイということにはなるだろうが、目からウロコが落ちる鋭い指摘だとか、万感胸に迫る情緒とか、明日にいかせる教訓だとかいうものは全然ない。ほとんど内容はない、といってもいい。
『さまざまな空間』の原題は"Espèces d'espaces"で、タイトルからして言葉遊びである。
身の回りの小さな空間から出発して、章毎に空間をスケールアップしながら、それぞれのスケールの空間についてのエッセイが、文体練習よろしくつづられていって、最後には宇宙にいたる。クリアな同心円構造を持っている。
目次が巻末に置かれている構成にならって、ゴールから逆にスケールダウンしていくと…
空間
世界
ヨーロッパ
国
田舎
街
地区(カルチエ)
通り
集合住宅
アパルトマン
寝室
ベッド
…と来て、一番小さい、話のはじまりは、
ページ
なのである。
「ページ」の章はマラルメよろしく文字が縦横に散らばって、その空間性を示しているものの、普通の、宇宙=都市=身体の同心円コスモロジーからいえば、「ベッド」から「ページ」へという展開は、斜めにずれてる感じが否めない。けれど、ペレックは「ページ」を出発点にした。
アパルトマン、寝室、ベッドへと人間の身体に沿ってブレイクダウンされていく空間と、ページという記号の空間とが強引に同心円構造で並べられていること。若干の違和感も込みでそのことが私には実に興味深く思われた。そこでは、記号の空間と身体の空間がひとつながりのものとして構想されているからである。
このように、この本は書物の構造がおもしろいのだけれどそれだけではなくて、ひとつひとつの章も——先述の通りこれといった内容はないといえばないんだけれど——それぞれにおもしろい形式の実験的な文章が繰り広げられていて、くすくすと笑いたくなるような幸福な感じがって、とても楽しく読めた。何かごく私的なところをくすぐられるような読後感がある。さまざまな文体実験の表情をそれぞれにあたえつつ、全体の軽みを整えた塩塚秀一郎の翻訳の日本語もすばらしい。
なかでも、p.89のスタインバーグが描いた、集合住宅のファサードをはがして、ドリフのコントのセットのようにいくつものアパートの室内を見せているイラストに、何が描かれているかを克明に拾い上げた、延々6ページにおよぶ目録と、そこから妄想的に膨らませた物語を語り始めるくだりはとりわけ面白かった。
ペレックの代表作『人生 使用法』は、まさしくそのようにして書かれたものであるらしい。
確かに書店のシーンを思い返せば、この『さまざまな空間』が私を呼んだ時、左隣に分厚い『人生 使用法』があったのだ。しかし大変な大著で、細かい字の2段組で、いきなりこっちは無理だぜと思った。それで、まずはスリムな方から手に取ったわけだけど、結局『人生 使用法』にいくしかないようだ。あの棚の本たちは、してやったりと思っていることだろう。
をながめる。ものの形に関心のある人にはたまらない,眼福の書。なごむ。
"Hidden Forms: Seeing and Understanding Things (Schriften Zur Gestaltung)" (Franco Clivio)
様々なフォルムの道具。
いわゆる「デザインもの」じゃない,普通のもの。
全然違ってみえるけど,実はどれも同じ「隠された形」を共有している。
たとえば,アマゾンのイメージサンプルの一番右にあるのは," Molded in Form" で,鋳込まれた形いろいろ。
p.134の,"One-Piece Pieces" は一塊の単一材料からできている「ジョイントなし,切れ目なし,つなぎ目なし」の道具たち。砧のように塊らしい塊のものもあれば,刃とバネを一体でつくる和ばさみや,竹の節から先を細かく割いて編んでつくった柄付きのザルなど,材料のもつ多面性が同時に現れているものもある。
どんな形にもわけがある。
愛おしいのはそのゆえだ。
を読む。
"アイデアキャンプ ―創造する時代の働き方" (中西 泰人, 岩嵜 博論, 佐藤 益大)
僕は小学生のころ,とても熱心に野球をやっていた。
まだJリーグもなくてサッカーはそれほど人気がなくて,圧倒的に野球だった。長島はすでに引退していて,国民的英雄は王貞治であり,田淵幸一や山本浩二がおり,星野仙一も現役だった。サードにコンバートされた高田の守備がすばらしかった。そんなころだ。リトルリーグというのがあるらしいことは知っていたが,田舎にはそんなのはなくて,放課後,学校にまた集まって,延々とやっているような野球だったが,それでも毎日日暮れまで飽きずにやり続けられるくらいには上達した。野球はある程度技術がともなわないと,やっていて面白くない。
僕は走るのも遅かったし,運動神経が良いほうではなかったが,本を読むのは好きだったので,すごくたくさんの野球入門書を読んだ。
サッカーに比べると野球はルールが難しいので,ルールブックも良く読んだ。タッチアウトとフォースアウトの区別がつかないガキ大将にその違いをくりかえし説明した。インフィールドフライがなぜ捕球しないうちにバッターアウトが宣言されるのかなどを図解したりしていた。
技術面でも入門書はたくさんあり,総論はもちろん,それぞれの守備位置についての入門書があった。福本の盗塁入門(柴田だったかも)とか,野球選手の似顔絵の描き方の本も持ってた。これも飽きずに良く読んだ。スコアブックのつけ方も当時は知っていた。全部忘れたけど。
変化球は少年のロマンだ。カーブのための握り方,腕のひねり方,ボールに与えられるべき回転,回転するボールが曲がりながら飛んでいくことと飛行機の翼が重力を越える揚力を得て浮揚することとは同じ原理によることなどを,僕は読んで知っていて,誰よりも詳しく説明することができた。
でも,僕はカーブを投げることはできなかった。
投球の組立上,速球が早くないのでカーブを投げる意味がないということもあったが,なにより実際投げても曲がりも落ちもしないので,それはカーブとは認められなかった。でも僕はそれほど悔しくなかった。カーブのことは理解していると思っていたし,それで満足だったからだ。そんな僕は,試合でピッチャーになることはついになかった。
『アイデアキャンプ』を読んでいて,僕は小学生の時に読みふけってた野球の入門書のことを思い出していた。とても詳しくわかりやすく,アイデアを出すためにしつらえられた環境に身を置いて考えるための方法が,道具が,実感にもとづいて詳しく示されている。この詳しさ,具体性,実践性。ちりばめられた蘊蓄の楽しさ。参照される理論の明解さ。ワクワクしながら読める。
でも,読んで知って,それで終わりにしてはいけないと,とうとうカーブを投げることのできなかった僕は思う。
「読んで知ってる」ということと,「できる」というとの間にはとてつもない大きなギャップがある。
このギャップを越えるには,くりかえし「やってみる」しかない。その先にだけ「できる」がある。
を読む。
アニー トレメル ウィルコックス, 『古書修復の愉しみ(新装版)』
被災して立ち入り禁止になっていた,大学の院生室へようやく再度入れるようになってみたら,多くの資料が水に濡れてしまっていたという悲劇があり,twitterで質問したところ多くの回答をいただき,まとめとして「濡れてシワシワになった本をできるだけ元に戻す方法」を作ったりした。
その勢いで,書店でふと見かけた本書『古書修復の愉しみ』を手に取って読んだ。全然知らなかった本だったのだが,実に面白く読んだ。
英米文学の名門アイオワ大学図書館には,一般の図書管理以外に,稀覯書専門の保存修復部がある。アイオワ大学で英文学を学び,教えていた著者は,著名な製本家・書籍修復家にして保存修復部の長であるウィリアム・アンソニーの講座を受講して,その世界にのめりこみ,女性として最初の弟子となり,保存修復部で働きながら修業を積んでいく。
本書はそのプロセスを追った,著者の自伝的エッセイであり,書籍修復家の見習いとして師匠や仲間たちとともに悩みながら成長していく青春物語である。同時に,尊敬すべき師匠のもと,典型的な正統的周縁参加によって技能を獲得していく技術伝承についてのレポートであり,手仕事に生きる職人の哲学が,仕事の進め方,時間の使い方,道具の扱い方を通じて描かれている。
そして,なにより,西洋古書の修復という馴染みのない仕事のリアルなディテールが,読みやすく丁寧に解説されているのがおもしろい。作業部屋の配置,作業台の上に置かれた本と道具たち,職人の手さばきなどが,生き生きと描写されていて,まったく図版がないにもかかわらず,目に浮かぶようだ。私は研究上の関心から,働く空間や作業手順について,様々な記述を読むが,これだけ客観的に的確に,しかし情熱を感じさせる筆致で書けているものは少ないように思う。訳もよい。訳者は翻訳のために一年半,実際に製本術を学んだのだそうだ。
師ビルへの敬意が全体を満たしていて,実に魅力的な師匠であったことが感じられる。しかし,ビルは入門から一年ほどで死んでしまう。その痛切な喪失感は癒えようもない。ひとりの紙すき職人からの手紙に次のようにある。
だから今,だれもが深い悲しみに沈むなかで,どれほど涙を流そうと,僕は心から言いたい。ビルは死んでいない。まちがいなく僕ら全員の中に生きているんだ。嘆き悲しむ義務はない。ただビルが目指していたものを守り,彼の人柄と理想を,僕らの中に,僕らの仕事の中に生かしつづけ,彼から教わったことを人に教えればいい。そうすれば,僕らはいつもビルとともにあり,彼に会ったことがない大勢の人も彼とともにいられるだろう。(p.200-201)
師から弟子へと技術は時を超えて伝承される。弟子はいずれ師となり弟子をとらねばならない。
ビルは時おり,他の方面で忙しく,自分の弟子や生徒をとらない元弟子のことを激しい口調で非難した。自分が育てた弟子がその技術と知識をだれにも伝えなければ,教えたことが無駄になるとビルは考えていた。修業が進むにつれ人に教える立場にまわり,その後も教えつづけるのが私たちの務めだった。(p.121)
それが,英知の塊である「書籍」を後世につたえるための修復技術であるならば,なおさらのことだろう。
をご恵投いただいた。
新潟大学岩佐昭彦研究室の素晴らしい仕事。
"仮設のトリセツ―もし、仮設住宅で暮らすことになったら" (岩佐 明彦)
もちろん、貧弱な仮設住宅での暮らしは厳しいものだろうけれども、本書は自分たちの生活環境を自ら整えていくことの喜びに満ちている。もしかすると、「普通」に暮らしているはずの人々の方が、こうした住まいへの「工夫」から疎外されてしまっているのではないか、とさえ思わされる。心得10 「失われた2年間ではありません」にあるとおり、「人生に「仮」はな」い(p.45)。
p.118にあるような、ほんの少しの環境工学的知識(というと大げさだけど、コールドドラフトとかヒートブリッジとか)があれば、さらにぐっと効率よく改善できるではないかとも思う。もう少し踏み込みたい人のための『仮設のトリセツ 達人編』が待たれる。
が届いた。
Make Space: How to Set the Stage for Creative Collaboration
スタンフォードのd.schoolで実践されてきた、創造的な協働空間づくりのための方法。パラパラ見るだけでもわくわくするアイデアでいっぱい。こういう場所にしたい。
オフィスのOSとしてのオフィス・ユースウェアと、そのマネジメントという考え方。オフィスは単なるハードではなく、そのOSも合わせて作られなければ機能しない。当たり前に聞こえるが、できていないことが多いのである。
序にあるとおり、地味に見えるが、p.151からの「オフィスワーカー三万人に聞いた過去十年間のオフィス環境に対する意識変化」のデータ紹介がハイライト。
本江もコラムに拙文を寄せている。
を読む。著者で、本学に非常勤講師として「プロジェクトデザイン論」を御担当いただいている広瀬郁さんにご恵投いただきました。ありがとうございます。
全8回の講義・演習録という体裁で、建築をプロデュースするという仕事の全体像をつかめる入門書。前半がカネ、後半がヒト。
建築はモノだけれども、カネとヒトがなければ動かない。あたりまえに聴こえるが、どっから手をつけて考えはじめればいいかは、普通の建築学科では必ずしも教えてもらえない。教えてもらえないけど、卒業設計なんかで真面目に建築を社会の中にセットしようとすると直面せずにはおられない問題だと気付く。建築をつくるという営為の大元を議論するための、基本的な考え方をすんなりと飲み込むことができる、すぐれた入門書。
このタイプの本は、極端に簡単にしてしまって不正確になっていたり、複雑な概念群をセットで理解しないと結局わからない作りになっていたりで、なかなか学生にお勧めというものはなかったのだけれど、これはよいです。
途中のドリルをちゃんとやってみることをお勧めします。その上で、講義を聴きながら答え合わせをする。勉強の王道ですけど、よくできた問題がないとこれはできない。学園祭のノリのまま起業してしまったタコ焼き屋が、資金がショートして黒字倒産する瞬間に息を飲むことでしょう。
7時限めの企画書の構成などは、適当にぼかしてあるとはいえ、こんなの見せていいのかと思う大盤振る舞い。
建築を幅広く多面的にデザインする方法を学びたい人は、本書を読んだうえで、東北大学大学院都市・建築学専攻に入学するのがよい方法です。広瀬先生の「プロジェクトデザイン論」を履修できますしね。
●
p.95 の写真に目薬が映ってます。
広瀬先生、くれぐれもご自愛ください。
Thirty-Six Views of the Eiffel Tower: A Turn-of-the-Century Tribute to the City of Light
19世紀末のジャポニズムの画家アンリ・リヴィエール[画像検索, 1864-1951]によって、葛飾北斎の富嶽三十六景へのオマージュとしてつくられた『エッフェル塔三十六景』。ジャポニズムの絵画というとゴッホやモネが浮かぶが、リヴィエールは、自身深く浮世絵を研究し、絵師、彫師、摺師をひとりで行なったという。
エッフェル塔の建設された時期は、すなわちパリが近代都市として急激に整備されていく時期であった。遠景に、時にクローズアップでエッフェル塔を構図に取込ながら、エッフェル塔そのものの工事の様子、たくさんの積荷を追ってセーヌ川を往き来する船、馬車、舗装工事、煙突の煙、庶民の暮らしぶりなどが描かれている。余白を大きくとり、画面をはみ出す近景をかぶせて重層性をもたせた構図などは、いかにも浮世絵らしいものだ。
塔の建設に都市の近代化を重ねる主題は,東京タワーやドバイでも馴染みのものだが、その原点となる構成である。東京スカイツリーの場合でも、それがよく見えるスポットを探すことを通じて、東京の下町の風景を再発見しようとする動きがあったように思うが、寡聞にして、ハイテックで巨大なタワーと親密な下町とのコントラストの強調にとどまるものしかみていない。あれば知りたい。都市の変貌のシンボルとしてのタワーというよりは、変貌できないままでいる都市との対比がむしろ顕在化していたのではないか。
この本は、ふと入ってみた古書店で目にとまって求めた。
そんな風にして、本を買ったのはなんだか久しぶりのような気がする。
を読む。
追記:
オフィスとかワークプレイスの研究をするのであれば、ここらの問題も視野に入っていないといけないだろう。
長く使ってきた研究室のスローガンを書き換えなければならないかもしれない。
を読む。
Phaidon Press 発売日 : 2014-03-10 |
著者の高橋佑磨さんには、せんだいスクール・オブ・デザインでレクチャをしていただいた。
PBL4コミュニケーション軸 #6オープンレクチャ/中間講評
この際は、実在する酷いデザインをたくさん紹介いただきつつ、初めは皆笑っているものの、だんだん他人事でなくなっていく感じが実に興味深かった。
本書のもととなった高橋さんらのウェブサイトはこちら。
「伝わるデザイン-研究発表のユニバーサルデザイン-」
五十嵐太郎 編 『14歳からのケンチク学』(彰国社, 2015) が、彰国社から刊行されました。
「中学・高校で学ぶ18科目から「ケンチク学」をひもとく入門書」ということで、学校で習う様々な科目が、建築とどのように関係しているのかが、一つずつ異なる著者により、実に様々な角度から語られています。
本江は「あらかじめ、つくり方をつくる」というタイトルで「情報」の章を担当しました。コンピュータの話は最後までなかなか出てこないのですが。
なんとなく建築に関心がある中高生が、いま学校で習っていることと建築学とがどう関わっているかを知り、勉学と建築へのモチベーションを上げてくれることが想定されているのだと思いますが、すでに建築を専門としている方や、建築を学ぶ大学生にも、建築学の広がりをいつもとは違う角度からパノラマ的に眺めるには面白い本になっているのではないかと思います。ぜひごらんください。
アライダ・アスマン『想起の空間―文化的記憶の形態と変遷
』安川晴基訳、水声社、2007
被災地の遺構の保存に関わると感じた記述を、重い内容だけれども、引用しておく。
「世代の場所の重要性は、家族あるいは集団が、長期にわたって特定の場所に結びつくことから生まれる。その際に、人間と地理的な場所との間には密接な関係が生まれる。地理的な場所は人間の生活と経験の形式を決定づけ、人間の生活と経験の形式は、その伝統と歴史をこの場所に刻印する。記念の場所ではまったく事情が異なる。記念の場所を特徴づけているのは不連続性、つまり過去と現在の明白な差異だ。記念の場所では、特定の歴史はそれ以上先に進むことはなかったのだ。その歴史は多かれ少なかれ強引に中断されている。途切れた歴史は廃墟や遺物といったものに具現されており、異質な残骸として周囲から際立っている。途切れたものは残骸となって硬化しており、その土地の現在の生活とは関係がない。現在の生活はさらに先に進んだばかりでなく、無頓着にこれらの遺物を通り越していったのだ。」(pp.367-368)
「記念の場所とは、もはや存続することなく無効になったもののうち、あとに残されたものだ。それでも存続して有効であり続けることができるためには、失われた環境を代補的に置き換える歴史が物語られなければならない。想起の場所は、失われた、あるいは破壊された生活関連のばらばらになった断片だ。なぜなら、ある場所が放棄されたり破壊されたとしても、その場所の歴史はまだ終わっていないからだ。その場所には物質的な遺物が残され、それらの遺物は物語の要素に、したがって新たな文化的記憶の標点になる。ただし、これらの場所は説明されなければならない。つまりそれらの場所の意味は、さらに言葉による伝承によって確かなものにされなければならないのだ。
征服、喪失、忘却によって破壊されてしまった連続性を、あとになって回復することはできない。しかし想起を媒介とすればその連続性に結びつくことができる。記念の場所には、もはや存在していないが、想起によってよみがえらせることのできるものが残されている。そのような場所は不連続性を際立たせる。ここにはまだ何かが存在している。しかしそれは何よりも不在を指し示している。ここにはまだ何かが現にある。しかしそれは何よりもそれが過ぎ去っていることを告げている。記念の場所にこびりついている過去の意識は、土地に根ざした定住を特色付ける過去の意識とはまったく異なる。前者は不連続性の経験に基づき、後者は連続性の経験に基づいている」(p.368)
被災地は「記念の場所」として「説明されなければならない」のだ。
ポール・コナトンは『社会はいかに記憶するか―個人と社会の関係
』(芦刈美紀子訳、新曜社、)において、社会の記憶が、記念式典などを通じて、身体の実践に接続されることを明らかにしている。訳者の整理にあるように「記憶は文書から学ぶものではなく、慣習として出会う身体的なものである(p.217)」のだ。
この時、社会の文化的記憶を身体的実践を通じて、くりかえし想起させ説明を加えて物語るための空間装置の役割の大きさがどれほどのものかがわかるであろう。想起の空間の設計者の責任はきわめて大きいのである。
追記:
『想起の空間』はもう新刊では手に入らないのか……これから必要になる本なのに……
この本のことは、安藤幸央さんのツイートで知った。この「安藤日記の千冊紹介」は私の関心と大きく重なりつつ、同時にズレも大きくあるので、毎回楽しみ。
#1000books 「安藤日記の千冊紹介」128冊目は『ラクガキ・マスター 描くことが楽しくなる絵のキホン』大人たばこ養成講座や、地下鉄のマナー広告を手がける寄藤文平さんの本。線に表情を持たせて質感を表現する方法の説明が凄い https://t.co/4GnmFuKqkR
— Yukio Andoh (@yukio_andoh) 2016年4月28日
を読む。
リチャード ロイド パリー 『津波の霊たち 3・11 死と生の物語』 早川書房、2018
英国のジャーナリストによって書かれた、東日本大震災についてのルポルタージュ。震災で起きたのはまさにこういうことだったのだと、私自身も被災者の端くれとして、戦慄しながら読んだ。
まず、大川小学校で74名の児童がなくなった事故とそれへの遺族や行政の対応。裁判と遺構保存が決まるまでの顛末。実名で登場する多くの人々への共感と違和感を冷静な筆致で描いている。
そして、大川小学校の事故とシンクロしながら語られるのは、多くの被災者に見られた心霊現象、すなわち幽霊が主題だ。「オカルト」ではない。幽霊を見、幽霊となって語ることは、依り代となった人が身に生じたトラウマを物語として吐露することに他ならない。それは嘘でもなんでもなく、震災という巨大な出来事が生み出した事実なのだから。
両者に伏流する、もう一つの主題は「日本」である。世界を驚かせた被災者の自制心は美徳であると同時に、これほどの事態を経てもなおなんら社会変革を起こすことのできない保守性の現れでもある。そして案の定、我々は以前の生活を取り戻している。悪い部分もそのままに。
原著は2017年8月に刊行された。6年をすぎて外国人によって書かれた本書は、東日本大震災について読むべき本の古典となることだろう。
ブログ「Motoe Lab, TU」のカテゴリ「Book」に投稿されたすべてのエントリーのアーカイブのページです。過去のものから新しいものへ順番に並んでいます。
次のカテゴリはプロジェクトマネジメントです。