建築の災害遺構としての保存は、壊れてしまったものを壊れた状態のまま残すという、普通の建築デザインとは全く異なった思想で作られる。ここには様々なトレードオフの関係が生じてしまう。
内部を公開しようとすれば安全の確保が必須だが、安全確保のための諸策と破損状態の維持とはどうしてもトレードオフになる。落ちるかわからない天井の下を歩かせることはできないから、固定し直すか、ネットなどで新たな天井を張ることになる。めくれた床は、つまずくといけないので剥がされてしまう。そのようにして,そこで何がおきたかを静かに語っていたディテールは失われてゆく。がらんどうの躯体だけになってしまっては、何の気配も感じられない、ということになりかねない。
また長期間にわたって「壊れた状態」を維持するというのも通常ではありえないことで、特殊な表面保護をしたり、裏側で補強をしたりするなどの作業が必要になる。が、これをやりすぎると、なにか偽物めいた印象の空間にどうしてもなってしまうのである。災害による破損と経年変化による破損とを区別できることは確かに望ましい。美術作品の補修のように、のちに手が加えられたことがはっきりとわかるようにしておくことも必要だろう。時間を止めることはできない。未来永劫残しておけるのでなければ残す意味がない、というものでもない。しばらく残す、ということにも意味がある。
また、遺構は建築自体が展示品であると同時に、内部空間に様々な展示がなされることが多い。両者が補完関係にあることは当然だが、建築自体の改修デザインと内部の展示デザインとの調和がとれていなくてはならない。写真やインフォグラフィックスなどの表象展示には説明としての力はあるけれども、遺構のモノとしての価値が毀損されてしまっていたら、とてもそれを埋めることはできない。
これらのトレードオフに、適切な均衡をもたらすことが災害遺構のデザインの要諦である。そのためには前段として、そもそも遺構にどんな価値があるのかの同定を十分に議論しておく必要がある。
災害遺構の建築にはシルエット型とディテール型の二種類あると言えそうだ。
原爆ドームや女川交番のように、躯体そのものが大きな損傷を受けているものは、輪郭が変わってしまっているので、シルエットで十分にインパクトを示すことができる。躯体の健全性を保つことができれば、超長期にわたって遺構としての意義を保てるだろう。
一方、山元町の中浜小学校はディテールが重要である。RCの躯体はそのまま残っているからこそ、サッシュや間仕切りなどの二次部材、表面仕上げ,ひいては什器、備品などにスケールを超えて一貫している、損傷のディテールを見ることができなくては、何も感じ取ることができない恐れがある。
このことを踏まえずに、前述のトレードオフのバランスを吟味せずに、来場者の安全に、長期の保全に、表象の展示に重みを与えすぎてしまうと、そもそも何のためにモノとして遺構を保存し公開するのかを見失うことになる。
ディテールをして語らしめるタイプの災害遺構は、なるべくそのままに残さなくてはならない。そのためには、限界を設定しなくてはならない。