カート・ヴォネガット『これで駄目なら』
若者の無気力を責める風潮に対して言う。
「瞳に輝きを宿し、キビキビ歩いていた世代の1人として、凧みたいに舞い上がっていられる方法をお教えしよう。憎悪だ。」(p.31)
「ヒトラーは、打ちのめされ、破産し、餓死しかけた国家を憎悪の力だけで復活させた。想像してみて欲しい。
だからわたしには、現代のアメリカ合衆国の若者たちは無気力に陥っているのではなく、憎悪から快楽を得ることに慣れている人々からはそう見えるのに過ぎないのではないかと思っている。卒業する君たちのクラスのみんなは、居眠りしているわけでも、無関心なわけでも、無気力なわけでもない。単に、憎悪なしでやってみようとしているだけだ。」 (p. 31)
円城塔の翻訳かと書店でふと手にとって開いたページで、この一節を目にした。1978年の講演だ。
ヴォネガットは講演をこう閉じる。
「君たちは、憎悪というものが長期的な視点からは青酸カリみたいなものだとわかってるんだ。君たちがやろうとしていることは素晴らしい。うまくいくことを祈っている。」(p. 32)
憎悪なしでやってみる
見た目は地味になるだろうけれど、なんと尊い挑戦だろうか。
28年後の今日、付け加えるなら、みんなは、強欲なしでやってみようとしている。
憎悪や強欲なしでやってみる
「憎悪から快楽を得ることに慣れている人々」は甘いと嘲るだろうが、やってみるのがいい。
「これで駄目なら、どうしろって?」
If this isn't nice, what is?