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『キリギリスの哲学』

> ゲームをプレイすることは、ルールの認める手段[ゲーム内部的手段]だけを使ってある特定の事態[前提的目標]を達成する試みであり、そのルールはより効率的な手段を禁じ、非効率的な手段を推す[構成的ルール]。そしてそうしたルールが受け入れられるのは、そのルールによってそうした活動が可能になるという、それだけの理由による[ゲーム内部的態度]。この定義のもっと簡潔な、いわばポータブル版も示しておこう。ゲームプレイとは、不必要な障害物を自ら望んで克服しようとする試みである。(p.37)

本書の核心は、この卓越した「ゲーム」の定義にある。賢者キリギリスと弟子達の長い対話篇を重ね、様々な論点を思考実験の寓話で説明しながら、この定義の必要さと十分さを確認していく。

終章では、すべてが満たされているユートピアについての思考実験を徹底し、「ユートピアでやることとして残っているのは唯一ゲームプレイであるはずだ、したがってゲームプレイが生の理想のすべてだと判明すると言っているのですね」と弟子役に語らせている(p.151)。

「ホモ・ルーデンス」でも使われているラテン語の「遊び ludus」に基づいて、スーツは「ゲーム内部 lusory」及び「ゲーム前提的 prelusory」という概念を造語して使っている。「構成的ルール constitutive rule」という概念も面白い。また「生の理想」は the ideal of existence である。

例えばサッカーでは、敵陣のゴールにボールが入るという事態を「前提的目標」としている。ボールを腕に抱えてゴールに走り込むことが効率的だけれど、ボールを手で扱ってはならないという「構成的ルール」が設定されており、あえて「ゲーム内部的手段」である足蹴と頭突きのみによってボールを扱う。選手も観客もそれを「ゲーム内部的態度」をもって受け入れている。先回りしての攻撃を禁止する「オフサイド」もまた、参加者に非効率を強いる典型的な「構成的ルール」である。

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私が、震災復興に関わるデザイン、とりわけメモリアル施設のデザインについて考えるときに引っかかるキーワードに「戯れ」がある。ある建築家が被災地のための建築を設計している際、可能性を感じた案に対し、協働していた被災地出身の写真家に「戯れを感じる」と指摘されて反省するという逸話を読んだことによる。

デザインにはある種のゲーム性が避けがたくある。デザイン行為において、デザイナーは「構成的ルール」を自ら設定し、場当たりに、ご都合主義的にこれを自ら破ることを禁じ、コンセプトの一貫性を保つことをよしとする態度をとる。「前提的目標」である設計要件を満たす解決が生成されうる「構成的ルール」を適切に設定することこそが、すぐれたデザインであると評価される。この時、デザインはゲームである。

しかし、本当に切実な課題がある場合、それを解決できる効率的な方法があるなら直ちにそれを実施すべきである。犯罪者と警官のチェイスはゲームではない。両者は最高の効率でそれぞれの(相反する)目標を達成しようとするであろう。ゲーム内部的態度をもってゲームを楽しむ余裕はない。

極めて切実である震災復興の現場に「デザイン」が持ち込まれる時の、ある種の違和感を「戯れ」というキーワードでよく捉えることができているように思っていたのだが、キリギリスのゲーム理論は、この「戯れ」を腑分けしてよく説明するものである。

ゲームではないデザインはいかに可能か。

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2015年12月13日 20:17に投稿されたエントリーのページです。

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