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『想起の空間』

アライダ・アスマン『想起の空間―文化的記憶の形態と変遷
』安川晴基訳、水声社、2007


被災地の遺構の保存に関わると感じた記述を、重い内容だけれども、引用しておく。

「世代の場所の重要性は、家族あるいは集団が、長期にわたって特定の場所に結びつくことから生まれる。その際に、人間と地理的な場所との間には密接な関係が生まれる。地理的な場所は人間の生活と経験の形式を決定づけ、人間の生活と経験の形式は、その伝統と歴史をこの場所に刻印する。記念の場所ではまったく事情が異なる。記念の場所を特徴づけているのは不連続性、つまり過去と現在の明白な差異だ。記念の場所では、特定の歴史はそれ以上先に進むことはなかったのだ。その歴史は多かれ少なかれ強引に中断されている。途切れた歴史は廃墟や遺物といったものに具現されており、異質な残骸として周囲から際立っている。途切れたものは残骸となって硬化しており、その土地の現在の生活とは関係がない。現在の生活はさらに先に進んだばかりでなく、無頓着にこれらの遺物を通り越していったのだ。」(pp.367-368)

「記念の場所とは、もはや存続することなく無効になったもののうち、あとに残されたものだ。それでも存続して有効であり続けることができるためには、失われた環境を代補的に置き換える歴史が物語られなければならない。想起の場所は、失われた、あるいは破壊された生活関連のばらばらになった断片だ。なぜなら、ある場所が放棄されたり破壊されたとしても、その場所の歴史はまだ終わっていないからだ。その場所には物質的な遺物が残され、それらの遺物は物語の要素に、したがって新たな文化的記憶の標点になる。ただし、これらの場所は説明されなければならない。つまりそれらの場所の意味は、さらに言葉による伝承によって確かなものにされなければならないのだ。

 征服、喪失、忘却によって破壊されてしまった連続性を、あとになって回復することはできない。しかし想起を媒介とすればその連続性に結びつくことができる。記念の場所には、もはや存在していないが、想起によってよみがえらせることのできるものが残されている。そのような場所は不連続性を際立たせる。ここにはまだ何かが存在している。しかしそれは何よりも不在を指し示している。ここにはまだ何かが現にある。しかしそれは何よりもそれが過ぎ去っていることを告げている。記念の場所にこびりついている過去の意識は、土地に根ざした定住を特色付ける過去の意識とはまったく異なる。前者は不連続性の経験に基づき、後者は連続性の経験に基づいている」(p.368)

被災地は「記念の場所」として「説明されなければならない」のだ。

ポール・コナトンは『社会はいかに記憶するか―個人と社会の関係
』(芦刈美紀子訳、新曜社、)において、社会の記憶が、記念式典などを通じて、身体の実践に接続されることを明らかにしている。訳者の整理にあるように「記憶は文書から学ぶものではなく、慣習として出会う身体的なものである(p.217)」のだ。

この時、社会の文化的記憶を身体的実践を通じて、くりかえし想起させ説明を加えて物語るための空間装置の役割の大きさがどれほどのものかがわかるであろう。想起の空間の設計者の責任はきわめて大きいのである。

追記:
『想起の空間』はもう新刊では手に入らないのか……これから必要になる本なのに……

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2015年09月28日 20:16に投稿されたエントリーのページです。

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