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2015年09月 アーカイブ

2015年09月04日

『オフィスはもっと楽しくなる』

著者が愛ちゃんと舞ちゃんだとか、かわいらしいイラストや装丁だってことに騙されてはいけない。

これはオフィス家具メーカーのオフィス研究所の現役研究者たちによる最先端の研究成果にもとづくオフィスデザイン方法論である。

こういう本には普通つかない、硬派な参考文献リストが巻末にびっしりついており、そのほとんどはこの研究所が様々な大学との共同研究を通じてまとめた学術論文である。経験と直観による憶測で書かれた章はひとつもない。

私の研究室との共同研究の成果も紹介されているので、私はインサイダーのひとりではあるのだが、これまであまり聞かされていなかった他の大学との共同研究についても多くの言及があり、このオフィス研究所が相当に多面的な実証研究を行いながら、科学的根拠にもとづいたオフィスデザインを進めようとしていることが理解されるだろう。

5つの章にわりあてられているキーワード、すなわち
Diversity
Communication
Creativity
Hospitality
Learning
は、どれも現在の企業・組織が渇望しているものだろう。

残念ながら、はたらく環境のデザインが、これらを直接提供してくれるわけではない。いずれも人の行為の蓄積から生みだされるものであるよりほかないからだ。

環境と行為との関係は必ずしも強いものではなく、むしろごく弱い親和性しかもたないとされるけれど、それでも環境はそこでの人々の行為に一定のインパクトをあたえ、方向づけを行ってしまうものである。

人が自律的に行動することを是とする社会において、一撃で人々の行為の様態を一挙に変えてしまう「魔法」はありえない。

本書であげられている様々な方法を投入して環境を整え、オフィスの「体質」を変えていくことからはじめることは、遠まわりに見えるけれども王道なのだろう。

2015年09月15日

「デザインとエンジニアリング」を開講します。

昨年度より開講した工学教育院の新科目「デザインとエンジニアリング」を今年も10月5日より開講します。

すべての工学部生、工学研究科生のための科目であり、履修にあたって学科・専攻は問いません。 「デザイン」経験も不問です。

主旨

デザインは単に見栄えを整えることではない。

デザインはモノに意味を与え価値を創造する。

デザインを通じてテクノロジーは社会に接続される。

工学部で学んでいく専門知識をどう社会に活かすのか。

概要

オムニバス講義+ワークショップ

10月 5日より 全7回 月曜5限 16:20-17:50

青葉山キャンパス人間・環境系教育研究棟 1階 建築第三講義室(104)教室にて

講義日程

  1. デザインと工学/本江正茂 10月 5日[月]
  2. デザインと環境/石田壽一 10月26日[月]
  3. デザインと情報/本江正茂 11月 2日[月]
  4. デザインと社会/小野田泰明 11月 9日[月]
  5. デザインと文化/五十嵐太郎 11月30日[月]
  6. デザインと空間/千葉 学 12月14日[月]
  7. デザインの実践/ワークショップ 12月21日[月]

東北大学工学研究科・工学部 工学教育院について

本講義は「工学教育院が開講する特別講義」のひとつであり、工学教育院の学部・大学院連携教育の一環として開講されています。

Design and Engineering 2015 Flyer by masashige.motoe

2015年09月23日

デンソーのMOKUMOKU

名古屋の「ノリタケの森」で開催されていたデンソーの企業文化を伝える展覧会「MOKUMOKU」を内覧させていただく機会をいただいた。

MOKUMOKU

展示の仕上げのタイミングで騒然とする会場ではあったが、どのような展示になるのかは見通せる状態になっていた。「過剰品質」と自虐的に自らを揶揄しつつも、丁寧なものづくりに情熱を傾ける企業文化が直裁に現れた、すぐれたプレゼンテーションであった。

ここには具体的な製品の展示はなかったが,刈谷の本社には製品を紹介する展示場が常時公開されているので、あわせて見るとよいと思う。

デンソーギャラリー

内覧に先立って、いくつかデザイン部の仕事を拝見する機会もいただいた。

2013年のモーターショーで発表されたコミュニケーションロボット HANA は、手に乗るほどの小さな愛らしいロボットに、頭と腕の簡単な動作と限定的な音声入出力機構を与え、車載システムとのHMI(Human Machine Interface)を集中させるというものだ。

コミュニケーションロボット

iPhoneにSiriという音声認識機能があり日本語でも簡単な会話はできるようになっている。2014年のiOS8.1からは、電源につないだ状態で、"Hey Siri"と呼びかけるとまったく触らなくても応答してくれるようになった。私はクルマの運転中によくこれを使っていて、「Hey Siri, 自宅までの道順を教えて」とか「○○さんにメッセージ」とか「午後の天気は?」とかやるのだが、うまく通じさせるコツは、照れずに大声でハッキリと話すことだ。

この時重要だと感じるのが、たとえ単なる矩形でも、なにか視覚的な焦点として、iPhoneの本体がダッシュボード上に存在していて、ごくわずかでも画面にフィードバックのアニメーションが表示されることで、そこに「会話の相手」がいると感じられることだ。このままクルマそのものにこの機能が組み込まれればマイクは見えなくなるのだろうが、虚空にむかって「開けゴマ!」と叫ぶことができるような気はあまりしない。もちろん、最初は照れ臭かったハンズフリーの電話にもだんだん慣れてきたように、虚空に向かって会話をすることにもだんだん慣れていくことができるのだろうけれども、コミュニケーションの際には意識の焦点に相手がいるというイメージモデルが強固に染みついていて、これを払拭するのは簡単でないように思う。

HANAの実験は、こうした機械とのコミュニケーションのイメージモデルを柔軟に再構築することの難しい人々(要するに普通の人々)とのHMIを考えていく上で非常に示唆に富むものだ。巨大で不可視のシステムに凝縮して擬人化した「姿」あるいは「顔」を与えることは、「依り代」をおくことであって、文明論的な深い意味があるように思う。

もうひとつ印象的だったのは、長時間の手術をする医師の腕を支える iArmS。見た目はなんとも大げさな「電動ひじ掛け」だが、動作は非常に繊細なものだ。微妙な腕の動きをセンシングして軸部のブレーキのホールドとフリーを自動で切り替えて滑らかに動く。ブレーキがあるだけで、動きにはアクチュエータは働かず、カウンターウェイトだけで支えているから暴走する心配はない。

参考記事: デンソー、手術時に医師の腕を支える支援ロボット iArmS を発売

参考動画: デンソーウェーブ「iArmS」の仕組み

iArmSは、姿勢保持具という意味では一種の「椅子」でもあり、ふだんワークプレイスの研究をしている私には実に興味深いものだった。ワークプレイス業界では、可動部分の多く着座姿勢を個別化できるワークチェアが一般化した後、今は高さが電動で可変できるデスクというのが流行ってきている。より動的に全身の姿勢を保持するシステムが求められる時が来たら、iArmSは優れた先行事例ということになるだろう。

HANA も iArmS にも共通しているのは、人が弱っている瞬間を支援するデザインだということだ。自動車部品メーカーとして、長年にわたって「安全」を追究してきた視線が、先行研究的なデザインにおいて、人間そのものの弱さに向けられているということなのだろう。

我が身を振り返れば、いつまでも被災地ぶるつもりもないが、それでも東北は様々な「弱さ」が残酷に露呈してしまっている地域だ。この地で新しいデザインを考える意義があるとすれば、「弱さ」に応答するということが可能性の中心になるのかもしれない。もちろん、ただ甘く優しくするということではないのだが。

余談

♫ デンソープラグー ワ ーイード U! というCMソングをふと思い出して以来、脳内リフレインが止まらないでいる。なんとかしてほしい。

『21世紀のビジネスにデザイン思考が必要な理由』

著者 : 佐宗邦威
クロスメディア・パブリッシング(インプレス)
発売日 : 2015-08-04
「一般的に、ちまたに出回っている「デザイン思考」はあまりに表層的すぎて、彼ら(引用者註 クリエイター)には「浅い」と思われている」(p.218)と著者自身が書いているように、本書もまたそのような見てくれなので、正直にいうと眉に唾して読み始めたのだが、これは大変にすばらしい本であった。不明を恥じたい気持ちである。

著者は文系でビジネスパーソンとしてのキャリアを積んできて、いわゆる「デザイン」からは遠い分野にいたところを、様々な契機を経て、IITのデザインスクールで「デザイン思考」を学んだ。その創造的問題解決の手法が非常に強力なものなので、自分はデザインから遠いと思い込んでいるビジネスパーソンにこそデザイン思考は必要であると説く。

評者は、伝統的な建築デザインの教育を受けてきて、今はそれを教える立場にあるので、むしろ「デザイン思考」にすっかりなじんでしまっている。だから逆に、今になって「デザイン思考」を特別扱いする人の気持ちがよくわからないというところがあった。デザインがわからないというのがよくわからないし、ありがたがるのも遠ざけるのもどっちもよくわからなかったのである。それで冒頭に引用したようなバイアスをもっていたわけだ。

本書は、ビジネスの分野からアプローチしてきた人が、どのようにしてデザイン思考を学習し理解していったか、それがどのようなインパクトをもって迫るのかを明快に示してくれる。なるほど他分野からはこのようにデザイン思考が理解されていくのかと目からうろこが落ちる記述が随所にあった。デザインを教えてきた者として、多くを学び直した気持ちである。

各章末にあるように、右脳的なデザイナーの思考と左脳的なビジネスマンの思考との対比というのが基本構造である。

デザイン思考のプロセスは、ステップバイステップですすむのものではなく、「抽象←→具体」「現在を知る←→未来をつくる」の二軸からなる4象限のモード(リサーチ、分析、統合・課題再定義、プロトタイプ、中心に初期課題設定)を自在に行き来するものだとする図式にまとめ、それぞれのモードに、旅人、ジャーナリスト、編集者、エンジニアのメタファーで説明している。pp.108-109のイラストにまとめられている。

また、ワークプレイスの重要性についての詳しい言及があるのも素晴らしい。pp.170-171のイラストもよく感じを伝えている。デザインの場はこうでなくてはならない。

本書はビジネスパーソンが読むべきものであると同時に、デザイン教育に関わる者こそ読むべきだ。そして、デザインを学ぶ初学者の戸惑いと喜びのありようを深く汲みながら、デザイン・スタジオを運営していくことで、より創造的な問題解決が可能な人材を輩出していくことができるだろう。

How might we create an environment that can fully demonstrate the power that people have?

われわれはどのようにして、人々が持てる力を存分に発揮しあえる環境をつくりだすことができるだろうか?

2015年09月28日

『想起の空間』

アライダ・アスマン『想起の空間―文化的記憶の形態と変遷
』安川晴基訳、水声社、2007


被災地の遺構の保存に関わると感じた記述を、重い内容だけれども、引用しておく。

「世代の場所の重要性は、家族あるいは集団が、長期にわたって特定の場所に結びつくことから生まれる。その際に、人間と地理的な場所との間には密接な関係が生まれる。地理的な場所は人間の生活と経験の形式を決定づけ、人間の生活と経験の形式は、その伝統と歴史をこの場所に刻印する。記念の場所ではまったく事情が異なる。記念の場所を特徴づけているのは不連続性、つまり過去と現在の明白な差異だ。記念の場所では、特定の歴史はそれ以上先に進むことはなかったのだ。その歴史は多かれ少なかれ強引に中断されている。途切れた歴史は廃墟や遺物といったものに具現されており、異質な残骸として周囲から際立っている。途切れたものは残骸となって硬化しており、その土地の現在の生活とは関係がない。現在の生活はさらに先に進んだばかりでなく、無頓着にこれらの遺物を通り越していったのだ。」(pp.367-368)

「記念の場所とは、もはや存続することなく無効になったもののうち、あとに残されたものだ。それでも存続して有効であり続けることができるためには、失われた環境を代補的に置き換える歴史が物語られなければならない。想起の場所は、失われた、あるいは破壊された生活関連のばらばらになった断片だ。なぜなら、ある場所が放棄されたり破壊されたとしても、その場所の歴史はまだ終わっていないからだ。その場所には物質的な遺物が残され、それらの遺物は物語の要素に、したがって新たな文化的記憶の標点になる。ただし、これらの場所は説明されなければならない。つまりそれらの場所の意味は、さらに言葉による伝承によって確かなものにされなければならないのだ。

 征服、喪失、忘却によって破壊されてしまった連続性を、あとになって回復することはできない。しかし想起を媒介とすればその連続性に結びつくことができる。記念の場所には、もはや存在していないが、想起によってよみがえらせることのできるものが残されている。そのような場所は不連続性を際立たせる。ここにはまだ何かが存在している。しかしそれは何よりも不在を指し示している。ここにはまだ何かが現にある。しかしそれは何よりもそれが過ぎ去っていることを告げている。記念の場所にこびりついている過去の意識は、土地に根ざした定住を特色付ける過去の意識とはまったく異なる。前者は不連続性の経験に基づき、後者は連続性の経験に基づいている」(p.368)

被災地は「記念の場所」として「説明されなければならない」のだ。

ポール・コナトンは『社会はいかに記憶するか―個人と社会の関係
』(芦刈美紀子訳、新曜社、)において、社会の記憶が、記念式典などを通じて、身体の実践に接続されることを明らかにしている。訳者の整理にあるように「記憶は文書から学ぶものではなく、慣習として出会う身体的なものである(p.217)」のだ。

この時、社会の文化的記憶を身体的実践を通じて、くりかえし想起させ説明を加えて物語るための空間装置の役割の大きさがどれほどのものかがわかるであろう。想起の空間の設計者の責任はきわめて大きいのである。

追記:
『想起の空間』はもう新刊では手に入らないのか……これから必要になる本なのに……

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