仙台平野の沿岸部をあらためて見て回り、震災の記憶装置を構想するにあたり感じたことなど。
仙台平野の沿岸部は市街地が切れており、基本的には農地が広がっている。 津波浸水域には荒浜、藤塚はじめいくつかの集落があったが、多くは洗い流されてしまった。
沿岸部を動き回って感じることは、その広がりの大きさと、大きさの割には自分の位置を見失うことのない分かりやすさとの共存だった。
南北に並行して走る、卓越した景観要素がある。西から、奥羽山脈の山並み、仙台城下町のスカイライン、東部道路の陸堤、県道10号線、貞山堀、海岸線、水平線。交わることなく並走する景観要素を経線として、市街地と海岸とを往復する移動を緯線として、沿岸部に経験の織物がつくられていくことになる
少し高いところに登れば、洗い流された土地には視界を遮るものはなく、この織物の全体を一望できる。
高いところとは、残っているものでは、荒浜小学校の屋上や、冒険広場の丘のことだ。これから建設されていく津波避難タワー、嵩上げされる県道や防潮堤もそれに加わるだろう。これらの視点場が応答しあうことで、平野に視線が織り込まれていく。10kmをこえる広がりがひとつかみにされるパノラマの一目瞭然性は、三陸の海岸にはないものだ。
この広大なパノラマの東端を決めている水平線が、まるごとせりあがってくる津波を想像するとき、誰もが戦慄を禁じえないであろう。
一方で、この広がりは同時に、とても大きな箱庭のような印象を与えもする。この海岸の先、北にはリアスがあり、南には福島第一原発がある。震災のメモリアルランドスケープは、その海のつながりを表現し、体感させるものであってほしい。被災地最大の都市である仙台には、被災地全体のメモリアルランドスケープへのアプローチとしての役割があるであろうから。