〈適応〉と〈抵抗〉の両方をできるようにするための職業的意義をもった教育をつくること。
職業的意義をもった教育とキャリア教育との違い。
著者のいう「柔軟な専門性」という概念は、工学部のなかでは潰しが利くと言われる建築学科のやってきたところと近い。
「柔軟な専門性」とは、
「
弾性と開放性をもつ「暫定的な」職業的専門性を、「とりあえず」身につけること、そこを言わば基地として、隣接領域やより広範な領野への拡張を探索してゆくこと(p.178)
」
このところ、大学教育の様々な分野において広義の「デザイン」への期待が高まっているのは、それが、この「柔軟な専門性」を実体化しているもののひとつだからではないか。文系を含めた大学生全体に拡張しうるほどの強度があるかどうかはわからないが。
p.179からの「不器用な」人々の話も興味深い。こうした人々にむいてないと退場を願うのが狭義のデザイン教育で、彼らがなんとかできるようにするのが広義のデザイン教育という説明ができるかもしれない。
批判しようのない正しいことが書いてあるが、答えが書かれていないではないかという批判はわかるが、この問題に答えるのは、それぞれの現場の実践者の仕事であろうとも思う。私もその現場の末席にいて、責任を感じる。本田はこの責任を「恥」と書く(p.214)。
本書でいう、教育の「意義」は他の文献では「レリバンス」という語が使われる。その関連の話だ。
職業的意義をもった教育とキャリア教育との違い。
著者のいう「柔軟な専門性」という概念は、工学部のなかでは潰しが利くと言われる建築学科のやってきたところと近い。
「柔軟な専門性」とは、
「
弾性と開放性をもつ「暫定的な」職業的専門性を、「とりあえず」身につけること、そこを言わば基地として、隣接領域やより広範な領野への拡張を探索してゆくこと(p.178)
」
このところ、大学教育の様々な分野において広義の「デザイン」への期待が高まっているのは、それが、この「柔軟な専門性」を実体化しているもののひとつだからではないか。文系を含めた大学生全体に拡張しうるほどの強度があるかどうかはわからないが。
p.179からの「不器用な」人々の話も興味深い。こうした人々にむいてないと退場を願うのが狭義のデザイン教育で、彼らがなんとかできるようにするのが広義のデザイン教育という説明ができるかもしれない。
批判しようのない正しいことが書いてあるが、答えが書かれていないではないかという批判はわかるが、この問題に答えるのは、それぞれの現場の実践者の仕事であろうとも思う。私もその現場の末席にいて、責任を感じる。本田はこの責任を「恥」と書く(p.214)。
本書でいう、教育の「意義」は他の文献では「レリバンス」という語が使われる。その関連の話だ。