"経済成長って何で必要なんだろう? (SYNODOS READINGS)" (芹沢 一也, 荻上 チキ, 飯田 泰之, 岡田 靖, 赤木 智弘, 湯浅 誠)
売り出し中の経済学者飯田泰之の対談集。
経済学者はあくまで技術者であるので「規範=目標は外から与えられる。その規範の中での最適解を出」すという立場。「価値論争部分と計算は峻別」が必要だという。
僕におもしろかったのは、p.185あたりからの飯田と湯浅とのやりとり。
日本の社会保障が非常に低いにも関わらず、地方がもっていたのは、公共事業があったから。公共事業は地方においては雇用を通じた社会保障の機能を担ってきていたのに、より直接的な社会保障への付け替えがなされないまま、公共事業だけがカットされてしまったので、地方はガタガタになっている、という認識は共有されている。
湯浅は、公共事業が社会保障の機能を担っていることを正しく認識したうえで、談合がなくなってダンピング競争になり、少ない公共事業さえも中央にもっていかれてしまうのがまずいのだから、「公契約条例などをつくって、この公共事業のお金のうち何割かは必ず地方に落ちるという決まりにして」いくのがいいという。
飯田は、公共事業の再分配機能は確かにあるが、公共事業がなければ成立しない経済そのものが厳しいのだという。「仮に人口1万人の町があったとしましょう。その町が公共事業がないとやっていけないというのは、この町には1万人を食わしていく力はないのに、1万人が住んじゃってる、ということになるわけです。これを支えるには、必ずどこかよそからお金を持ってこなければいけない。」しかも、公共事業が生産性上昇や景気浮揚に効果を持つのは大都市圏に限られるのであって、地方へ公共事業をまわそうという主張は、ムダを増やすことを認めることになるという。
湯浅が「地方にお金を回すのは、それぞれのコミュニティを守るためには、ある程度必要なんじゃないですか」と応じる。
司会の荻上「いやらしくいえば、そんな土地にしがみつくな、さっさと移住しろ、と」
飯田「平たくいうと、そうなります」とする。
この話題は、巻末の飯田、芹沢、荻上の鼎談にも再度出てくる。p.278 田舎に住む自由を確保すべきか?
荻上が同じ構造の問題として、バリアフリーの学校を例を出す。地元の高校に行きたいと主張する障害者がいたとする。しかし、その学校はバリアフリーになっていない。あきらめて都会のバリアフリーになっている学校に行け、というか、それとも、ひとりのために地元の学校をバリアフリー改修するのか。
飯田は、経済学は、バリアフリーにすべきか否かという問題は解決できないという。バリアフリーの例題は費用便益と保険というふたつの典型的な経済学の問題に整理される。費用便益問題としては、バリアフリー施策にいくらかかるかを示した上で、その額を分担して負担できるか、を問う。ただし、バリアフリー問題は当事者には切実でもそれ以外の人には重要でないため、価値観の対立が生じる。そこで、この改修費用は、そのひとりのためだけのものではなく、これからの子どもたちへ、今後不運にも障害を負ってしまう場合の保険と考える。そうすれば、一定の負担までは受容されるのではないか。
もとの「田舎に住み続けたいが、経済的にも保障されたい」について。地方財政を支えるために都市部の住民はいくら払っているか。細かい計算は本書p.284にあたっていただくとして、現在ざっと収入の1割(!)を支出している。しかも地方人口の維持は保険機能がない。
したがって「おそらく、バリアフリーについては、金額を見たうえで賛成していただける。地方については、「これは無理だ」となるでしょう。」
もちろん、この議論はさらに論点を加えて深まりうる。
建築の学生で、修士設計や卒業設計に取り組んでおり、プロジェクトの社会性について議論したいけれども、イデオロギー対決には辟易としていて、さてどうしようか?という人には、よいひな型を提供しうるのでないかと思う。