を読む。幸田文のエッセーを、しつけ、きもの、台所の三部作に編み直したもののひとつ。斎藤孝がよく引く「なた」も収録されている。
暮らす場所、働く場所における適切な振るまいの獲得。その方法としてのしつけ。
オフィス研究的に言うなら、スペース、スタイル、ツールの調和がテーマだが、便利さばかりを求める浅薄な”ライフハック”に堕することがないのは、畏れを基調として外れることがないからだろう。
先日、学生と話していたら、「支(か)う」という言葉が通じなかった。「支いものをする」というのがわからない。きょとんとするので、ショッピングじゃないぜ、などといってみる。説明はしたが、いったん重みを逃がして支った棒に再びギュッと力が加わって微妙にたわむようになる感じというのは、共有できたようには思えなかった。責めようというのではない。やったことがなければそうだろう。
だんだん、そんなふうにして、幸田文のころの文章でさえも、古文のようなものとして受容されるようになるのかもしれない。構文もかなづかいもわかるのに何が書かれているかわからない。背景となる空間のしつらえ、出てくる道具、書かれている行為がわからないんだから。落語を聞いていればわかるのにな。
「締まりっ手」(p.196)なんて実によい言葉だと思う。ワークプレイスに関する論考も、幸田文のようなトーンで書いてみたらずいぶん景色がちがってみえるのではないか。
コメント (1)
偶然にもナガオカケンメイも「しつけ帖」の話をしてましたよー。
http://web.d-department.jp/blog/2009/05/post_510.html
投稿者: masatanz | 2009年06月02日 01:17
日時: 2009年06月02日 01:17