を読む。
柳 治男『「学級」の歴史学―自明視された空間を疑う』講談社,2005
これは実におもしろかった。
ビルディングタイプとして学校を語るときには必須の文献となるだろう。
なぜ学校をめぐる議論に,「学級とは何か」という問題を提起するのか。それは,中世までの学校に「学級」が存在しないからである。多くの学校史研究が明らかにしていることは,中世の学校は多くの場合一つの部屋でしかなく,しかもそれは「教室(class room)」ではなく,「教場(school room)」と呼ばれた。この教場の中にいる子どもは年齢がまちまちで,同年齢の子どもの集まりなどは見られなかった。われわれがカリキュラムといっている,教授活動の全体的な計画なども,まったく存在しなかったのである(p.2)。
教育というサービスを大量に均質に提供するためのシステムとして,19世紀イギリスで「学級」をもった学校が成立した。教授法の水平および垂直分業を徹底的に行い,「事前制御の中に人を組み込み,感情を操って自己抑制を求め,自動的に競争を促す(p.211)」ことで効率的運用をはかる学級制は,トーマス・クックのパックツアーやフォード,マクドナルドにはるかに先駆けるチェーン・システムそのものだった。
本書は,この「学級」というシステムの歴史を,教育学の言葉でなく,社会学や経営学の概念で説明しようとする。
学校は常に改善されていかねばならない場である。しかしそのような議論を,高尚な理念やスローガン化された「決まり文句」から出発してはならない。常識的に,スーパーマーケットやファースト・フード店を見るのと同じ冷静な態度で始めないと,大混乱に陥る他はない(p.216)。
学級制学校という「ハードウェア」の限界を冷静に理解することなしでなされる理想論やタテマエにもとづく「教育言説」は有効ではありえないからだ。
ところで,「学校」システムのコアとして「学級」に注目するという枠組みは,私には実に興味深いものだ。まずは,コミュニケーションのための場のデザインに関わる者として。さらには,「学級」とはまた異なる「研究室」を運営する現場の教師として。