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チュートリアル

今年のM1グランプリを制した。
抜群におもしろかった。満票の結果も納得。(Wikipediaの記載がこの結果を受けてすでに更新されている!)

「華麗なる妄想族」をキャッチフレーズとする彼らの芸は,新しい冷蔵庫を買ったとか,自転車のベルを盗まれたとか,友達どうしの話題にはするものの,軽く流して終わりそうなごく日常的な他愛ない出来事に対し,その細部に異常に関心を示しながら,妄想をエスカレートさせていく「キモい妄想男」を笑うというものだ。(もちろんYouTubeで見られる

もちろん漫才だから,妄想男は異常な存在として笑われている。

しかし,私は彼らのネタを聞く間ずっと,「キモい妄想男」に共感していた。
同時に,近ごろの私はこういう「食い付き」方をしていないのではないかと反省しはじめていた。

日常的な出来事の細部に違和感を見いだし,事の委細を確かめつつ,想像力を駆使して,その意味を掘り起こしていくという,この妄想男の能力は,デザイナーに不可欠な想像力であり,創造力そのものなのではなかったか。

たまたま今日読んだ『問題がモンダイなのだ』(山本貴光+吉川浩満,ちくまプリマー文庫,2006)に次のような印象的な一節があった。

十九世紀の心理学者ウィリアム・ジェイムズは,「自由」の対義語は「不自由」ではなくて「自動化」だと考えた。
自動化とはなにか。それは動作や言動がひとりでにオートマティックに決まってしまうことだ。
(中略)
自動化された言動には自由が顔を出す余地は少ない。逆に言えば,自由とは選択の余地をもっていること,自動化にさからうことだと考えてよいだろう。
(中略)
問題に迫られたとき,その問題が課してくる前提やルールにしたがって解答を与えることは,いわば社会的に自動化された解決の仕方であるとも言える。もちろん世の中には,そうしたやりかたで解決できる問題もたくさんある。けれども,しばしば人はにっちもさっちも行かない状況,他に選択肢がないように思えるような,出口なしの状況に陥ってしまう。
そんなときに必要なのは,そうした自動化から身を引きはがして,問題そのものをつくりかえること,あるいは新たに問題をつくりだすことだ。それは,自分の未来を自らの力で切り拓くこと,つまり自由に生きることなのである。(pp.122-123)

チュートリアルの舞台では,「自動化」に長けた人々が,「自由」な妄想男を笑っている。しかし,それは自動化されたおしゃべりしかできなくなった不自由な自分を笑う,自虐の笑いにほかならない。

私は妄想男でありたい。

そう改めて思うクリスマスイヴである。

コメント (1)

ryuichi:

妄想男が一体どのようなモノをイメージしているか探るというのも、彼らの漫才の面白さだと思いますね。

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2006年12月25日 01:40に投稿されたエントリーのページです。

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