を読む。
橋爪 紳也,『あったかもしれない日本―幻の都市建築史』紀伊国屋書店,2005
昭和15年の東京オリンピック,関東大震災のモニュメント,琵琶湖大運河,臨海東京市庁舎などなど,実現されなかった都市プロジェクトを淡々と紹介する「未建築史・都市計画未遂史」。淡々とした筆致が妙に印象に残るのは,研究対象になった様々な史料を満たしていたに違いない大袈裟で声高な調子とのギャップを想像してしまうからかもしれない。
慰霊塔,空港,オリンピック,万博などの大計画が次々と頓挫していく。見通しの甘さ,合意形成の失敗,技術革新による計画そのものの陳腐化。成功にドラマがあるように,失敗にもドラマがあり,そのいずれもが定型化されている。
たとえば,甲子園球場周辺は阪神電鉄の郊外開発によって作られた。スタジアムが完成した大正13年の干支の「きのえね」であったことから「甲子園」と名付けられたが,計画段階では「紅洲大競技場」と呼ばれ,実現したものよりもずっと大規模な一大遊興地であった。「紅洲」はベニスと読む。もちろんヴェネチアのことだ。「阪神の事業担当者は,アメリカ人が抱いた「イタリアへの憧れ」をそのままに,日本に輸入しようとしたのではないか。(中略)今日のテーマパークに通じる発想が,すでに大正時代には,アメリカから輸入されていたということだろう。(p.74)」
昭和15年の東京オリンピックの競技場建設をめぐる議論の迷走も興味深い。昭和11年,IOC総会で東京はヘルシンキに競り勝ち,昭和15年大会の開催地となる。帝都は熱狂。だが,会場が決まらない。埋め立てたものの使途の定まらないでいた月島を使う案は牛塚東京市長が強く推すが風が強いので無理。代々木練兵場を総合大運動場とする案は「陸軍に於いて譲渡不可能なる趣」で断念。スケールは大分小さくなって,神宮外苑の既存競技場を改築して対応する案におさまろうとするが,内務省神社局が「国民の浄財で造営された記念物」である外苑の改造に反対する。他にはもう場所がないのでなんとか頼むという組織委員会の訴えに対し,内務省神社局は「希望十項目」を飲めば認めるとタガをはめる。だが,計画を詰めてみると外苑の競技場の改修ではスタンドを大きく出来ずオリンピックスタジアムの基準を満たすことができない。結局外苑案は放棄され,最終案は世田谷の駒沢ゴルフ場跡地。資材確保が困難な中,一部木造でのスタジアムの設計などが試みられる。しかし,昭和13年7月,オリンピック返上が閣議決定される。盧溝橋事件からちょうど一年がすぎたころであった。
このように,昭和15年と昭和39年,ふたつの東京オリンピックは,会場計画について言えばほとんど双子なのであった。もう一度東京でオリンピックをやろうという話が出ている。東京が博覧会を放棄したのはついこの間のことだったけれども,また決まってから放棄せざるをえなくなる……というようなことにならなければよいのだが。