江渡浩一郎さんがドコモの『モバイルソサエティレヴュー未来心理』に「なぜそんなにもWikiは重要なのか」という文章を書いておられるのだが,これがとても面白い。
江渡 浩一郎, "なぜそんなにもWikiは重要なのか", Mobile Society Review 未来心理, Vol.7, pp.50-57, モバイル社会研究所, 2006.
Wikiの起源をさかのぼると,そこにはアレグザンダーのパタン・ランゲージがあった。のちにWikiの開発者となるWard Cunninghamらが,「ユーザは,自分自身のプログラムを書くべき」だとして,パタン・ランゲージをオブジェクト指向プログラミングの分野に導入しようという論文を発表した。1987年のことである。アレグザンダーのパタン・ランゲージはなかなか理解しにくいものなのだが,江渡さんはこうまとめる。
建築はソフトウェアと違って、一度建ててしまったものは そう簡単には変えられない。そのため、設計と施工を行き来するような手法はそう簡単には実現できないように見えるが、建築という世界においてなんとかして設計と施工を行き来することができるように工夫したのが、パタン・ランゲージなのだ。
しかしその後,この建築家のアイデアが,デザインパターンとしてプログラミングの世界において受容されていくプロセスにおいて,当初の「ユーザは,自分自身のプログラムを書くべきである」という理念や,ユーザとプログラマの間の共通言語となるのだという理念は失われてしまったという。
パタンランゲージがオブジェクト指向プログラミングの分野に導入されたのと同じ1987年にはHyperCardが発売された。Ward CunninghamはHyperCardを使ってパターン・ブラウザを作っていたという。これがもとになって1995年にWikiがWebにのる。
Wikiはただのシステムではない。ある特定の機能が実装されているからこれはWikiだなどと断言することはできない。プログラムで実現されたインタフェースと、それを利用するための方法論とが一体になって、はじめてWikiなのだ。
パタン・ランゲージのプログラミングでの利用はエクストリーム・プログラミング(XP)になっていく。このXPは,ほかならぬWard Cunninghamらによって提唱されたものなのだった。
WikiもXPも,「利用者が開発者でもある」というコンセプトを共有している。そのもとはパタン・ランゲージにあるのだ。このように,プログラミング分野では積極的に受け入れられたパタン・ランゲージだが,建築ではある意味失敗したと理解されている。そこで江渡さんは次のように問う。
この次に考えるべきことは、この逆の展開なのではないだろうか。つまり、WikiやXPといったコンピュータ分野におけるパタン・ランゲージの成功を元に、それを建築に逆輸入することである。WikiやXPを基盤とした建築、それはどのように存在しうるのだろうか。
これは重要な問いだなあと思う。江渡さんはある程度比喩的に「建築」といっておられるのかもしれないけれど,決してそこにとどまるものではない。「利用者が開発者でもある」ような建築の作り方=使い方は,真摯に構想されなければならないリアルに建築の問題なのである。
たとえば厚生労働省が介護に導入した「小規模多機能拠点」というのがある。
認知症に限らず転居にはショックをともなう。そのリロケーション・ショックを最小化するためには,遠くの大きな施設ではダメで,居住地に近い小さくて多機能な住宅のような施設がいいのだという。事例をみるとほとんどただの住宅であって,建築計画や建築家の出る幕はほとんどないようにみえる。いわば「施設なき建築」である。小野田泰明さんはこれを「半建築」と呼んでいた。
しかし,車いすをやめれば柔らかくて座れる床にできることや,居間のかざりつけ次第で居心地がぐっとよくなることや,街に200mごとに休めるベンチがあるといいことやらなにやら,細々した空間の使い方の工夫によって,その場所の価値はグッと高めることができる。これはまぎれもなくデザインの仕事である。そして,そのデザインを誰がやるのかといえば,利用者=開発者がやるのである。
それは「WikiでXPな建築」ってもののイメージに近いのではないか。そう思ったら,とてもすっきり腹におさまった。それは「使い方のデザイン」であり,「ファシリティマネジメント」そのものだといえる。FMと設計は利用者が開発者であるという回路で結びつくのだ。
まだまだ机上の話で,どう実践に接続するかはこれからだけれども,いろんな考えに着火させられた。ぜひ読まれたし。