『あったかもしれない日本』の流れで,青井哲人「紀元二六〇〇年の空間」を読む。
青井哲人「紀元二六〇〇年の空間——万博・オリンピック/神社・宮城」,『10+1 (No.37)』」, INAX出版, 2004
「何も生み出せずに「幻」になった」万博・オリンピックと,「無数の実現例を持ちながら語られることのない」神社・宮城(皇居)というふたつの空間の系譜をはじめて同時に扱おうとしたのが丹下健三なのではないか,という話。
昭和15年のオリンピック計画におけるオリンピック組織委員会と内務省神社局との対立を詳細に紹介したうえで,「外苑」という両義的な空間について論ずる。
明治神宮の「内苑」は「森厳荘重」なる聖域であるのに対し,「外苑」はもう少し自由で気楽な公園緑地として計画されたものであった。そして,力比べや流鏑馬,弓道,相撲などが神社境内で行われてきたのと同様に,外苑におけるスポーツは祭神に対する「奉納」であり,競技施設は「宗教施設」と位置づけられるというのである。
なんとヤクルトのホームゲームは奉納野球大会だったのだ。神宮球場ってのはただの地主の名前を冠しているだけじゃないんだ。
青井によれば,この「奉納」という概念は「「神聖」と「開放」をめぐる二元論を辛うじて調停する装置」であり,その舞台たる外苑は「神聖と開放の両者を担保すべき両義的な場所」なのである。
なるほどー奉納かあ。
言われてみれば「奉納」って,場所へのコミットメントだよなあ。
以前2002年ごろに仙台のサンモール一番町商店街にある野中神社という小さい神社の環境整備を地元の方々や学生たちとやったことがある。アーケードで結婚式をしたり,参道や本殿の整備にあわせて,おみくじをつくったり,いろいろとイベントをやった。恥ずかしい話だが,このときは「奉納」という考えは全然なかった。神社から商店街のお客さんたちにどんなサービスを提供できるか,という視点しか持っていなかったように思う。
お客さんが「神社」にお金じゃない何か——それこそ相撲などの行為でいい——を「奉納」するという構えで考えられると何か違うことができそうだ。もちろん,「神様」を共有してないと「奉納」しようがないわけで,これが信仰の共同体を擬制するようなことになるんじゃうまくないんだけど。