についての本を二冊読む。
石川 九楊,『縦に書け!―横書きが日本人を壊している』祥伝社,2005
和田 哲哉,『文房具を楽しく使う (筆記具篇)』早川書房, 2005
現代社会の汎的情報化を危惧する書家によって書かれた前者は,コンピュータに近しい者からすると言いがかりだと言いたくなるような話の運びも散見されるものの,縦書きを前提として文字を作り言葉を鍛えてきた日本語の重みをあらためて考えさせられるものであった。
文房具のネット通販業を営む筆者による後者は,パソコンとケータイの時代であるからこそ,あらためて手で書く筆記具の意味について考えようとするものだ。最近の文房具ブームに便乗した「ブランド文房具紹介本」とは一線を画するアプローチで書かれている。シャープペンシルを「削られの筆記具」とよぶ感覚は,石川と遠く響き合うものだと感じられた。
コンピュータは極めて純粋な記号処理機構であるからこそ,言葉に敏感な人々に憧憬され,憎悪されもする。コンピュータの本質的な可能性の豊かさに比して,あまりにも貧しいその「身体」のありよう——キーボードやディスプレイにとどまり続けるインタフェイスの極端な乏しさ——に,我々は苛立たずにはいられないのだ。
だが,コンピュータの「身体」が新たな文字や発話のスタイルを作り出す契機となることは原理的にはありえるはずである。反動でも逆ギレでもない方法で,それを考えたいと思う。
このことは,菊地 成孔, 大谷 能生,『憂鬱と官能を教えた学校』(河出書房新社, 2004)にある「音響と音韻」の対概念とも関わるように思う。まだ読み始めたところなのだけれど。