を読む。
菅谷 明子,『メディア・リテラシー―世界の現場から』岩波新書,No.680,2000
このテーマを扱ったものの中ではよく知られたもの。イギリス,カナダ,アメリカでの現地取材をもとに,メディア・リテラシー教育の現場をレポートしている。
ふたつの点が印象的だった。ひとつは,メディア・リテラシー教育が,「国語」の問題として位置づけられていること。もうひとつは,リテラシー教育は批判的な分析だけでは不十分で,自らのコンテンツ制作体験を通じて理解することが必要であると考えられていること。
読み書きができるということは,文化が理解できるということです。メディアを理解せずに,現代の政治・社会・文化を真に理解することは困難です。(p.26)
二〇世紀初頭には,子どもを大衆メディアの悪影響から守り,文化的な施行を洗練させることを目標に出発したメディア教育は,時代ごとに段階を追って発展し,今ではメディアが社会の重要な意味を作り出し,また子供を取り巻く文化の中心であるとして,メディアを理解し,検討を加えてみることの重要性が,広く認識されるようになったのである。(p.32)
メディア・リテラシー教育は,一言で言えば「鵜呑みにするな」と教えることである。その教えは我が身をも刺すのであって,パラドックスを引き起こし,ダブルバインドとなるよりほかない。
ある種の無菌状態の中で,メディアが「公式」にそって一方的に読み解かれることで完結してしまい,生徒の自由で主体的な思考を育むはずのメディア・リテラシーにダイナミックな学びの要素が欠如し,メディアの学習が形骸化しているように思えた。(p.131)
とりわけ文章の読解でなく,テレビなどの映像を理解するためには「制作プロセスにおいてどのような選択がなされていくかを知ること」がカギであり,「出来上がった作品を一方的に批判するだけでは真に映像を理解することにはならない」という(p.184)。そのためのマルチメディア教材や,子どもジャーナリストの活動,テレビCMやミュージックビデオを実際に制作してみる演習などが紹介される。
分析だけではダメだというのは私にも経験的によくわかる。メディアに限らず「リテラシー」を身につけるためには,わずかでも自分でやってみることが必要だ。プログラミングや設計製図の初歩的な演習が本学科でともに必修とされているのも,そのためなのである。
リテラシーの先に,そのまままっすぐにプロフェッショナルへの道が続いているわけではない。リテラシー教育はむしろ,やっかいなアマチュアを生み出すものだ。だが,やっかいなアマチュアこそが成熟したマーケットを形成するのであり,その層なくしてプロが成立することもないのだ。