アメリカ人唯一のチェス元世界王者にして,なにかとお騒がせなボビー・フィッシャーが考案したチェスの新ルールが「チェス960」あるいは「フィッシャー・ランダム・チェス」。そんなのがあるんですねえ。
チェス960のルールは従来のチェスとほとんど同じだが、駒の配置に、かつてチェスにとっては忌むべきものと思われていた「偶然」という要素が取り込まれている。ポーン[将棋の歩兵に相当]が前列に並ぶのは普通どおりだが、その後列の白の駒はランダムに配置される。ただし2個のビショップ[同角行に相当]は、それぞれ白マスと黒マスに配置されなければならず、キング[同王将に相当]は2個のルーク[同香車に相当]の間に配置されなければならない。黒の駒は向かいあった白の駒と対称をなすように並べられる。
これにより開始時の駒の配置パターンは1通りではなく960通りになる。チェス960のポイントは、チェスを暗記という束縛から開放することにある。
(ルークは飛車相当じゃない?)
ともかく,この新ルールによって,解析しつくされてしまった,すなわち定石を覚えていないと勝負にならない序盤戦のありかたを変えようというのだ。実にフィッシャーらしいアイデアですばらしいと思う。
ただ駒の動かし方を知っている程度にすぎない私が,「フィッシャーらしい」などと偉そうに言えるのは,『ボビー・フィッシャーのチェス入門』でチェスのルールを覚えたからだ。
この本はとてもユニークな形式をしている。冒頭でごくごく簡単に駒の動きとルールを説明したら,あとはひたすら詰めチェスの問題を解かせるのだ。問題は相手のキングとごく少数の自駒だけのある盤面から,チェックメイトの一手を探すレベルのものから始まる。しかし,この詰めチェスの一問一問のステップアップのしかたが絶妙で,前問の解説を読んでよく考えれば必ず必要な手を見つけられるし,しかもその手を見つけたときには十分な達成感がある。問題を解いていくにつれて少しずつ,盤面に張り巡らされた駒のネットワークが見えるようになっていく。すばらしい入門書なのだ。この本は定石の解説めいたことにはほとんど言及しない。フィッシャーはひたすら,チェスの空間に内在する原理的な構造だけを鮮明に取り出してみせようとしているのだった。
だから,フィッシャーによって発案されたという「チェス360」のアイデアと,ずっと昔読んだ『ボビー・フィッシャーのチェス入門』の印象とは,すっきりと地続きで,とても「フィッシャーらしい」と思うのだ。