マイクロ・テロリズムとシステムを俯瞰する力
一種のテロのようなもの。そう、マイクロ・テロリズムとでも言えそうなもの。対象を選ばず、だれかを害すること。対象を選ばず、なにかを破壊したり、汚すこと。放火、軽微な盗み、公共の場所でのゴミ・汚物の投棄、投石による人家への破壊、抵抗力のない子供/老人/女性への虐待など。すでに始まっていることばかりである。マイクロ・テロルは対象を選ばない。マイクロ・テロルに走る側の人間(マイクロ・テロリスト)は、なにかに復讐したいとは思っているのだろうが、そもそも彼/彼女の敵が見えないので、手近な、抵抗力のない者/物を対象にする。自分の側にも抵抗力がないため、深く潜行して、ひそかに実行される攻撃。人ごみの中というよりは、周囲にだれもいない個室の中や深夜の屋外、逆に、加害者が特定できないほどの極端なひとごみの中。
「マイクロ・テロリズム」というのはぞっとさせられる考え方ではあるが,われわれの不安と不満をうまく掬い上げている概念だ。
蔓延するマイクロ・テロリズム。
どうしてこうなったのか。
負の行動によって閉塞する社会をどのようにして開きうるのか。
下記では,実学重視を旗印に大学改革を行った首都大学東京をとりあげて,この問いを大学の使命と関連づけている。非常に迫力のあるエントリーであるので,ぜひ全文を読まれたい。
経済活動において重要な技能を重点的に叩き込む場であってこそ大学の存在価値がある。それ以外の非経済的な知を追求する学問などは効率化=切り捨てられて当然だ。などの意見が多く語られる状況の背景には、当然のことながらすでに長長期にわたる経済不況がある。職をもつ身からは「社会人の常識」として、職のない身からは「大学への怨嗟」として、その非効率の砦たる人文学は十字砲火を受けている。
しかし、先の「テロリズム」の背景を見たときには、そこに現行の経済システム・社会システムそのものへの疑問・不満・苛立ちが見えている。
さらに言えば現在の経済的効率の追求こそが、それらの問題、「少子化」「フリーター」「失業者」を生んでいるという事実がそこにある。
にもかかわらず、誰しもが「負け組」という強迫観念に背中をつつかれ、「ゆとり」のない競争を自明視しなければならないというその状況を、意図的に気づかないようにしている。目を閉じ、口をつむぎ、耳をふさいで、同遇の他人の存在を障害としか見ずにバスに乗ろうと小突きあっている。
そして「システムを俯瞰する力を得る場」としての「人文学」への支持が表明されるのだが,これは記事にもあるとおり,「大学」の「人文学」だけでなく,「教育」全体の問題として考えなくてはならないだろう。
ただし,「システムを俯瞰する力」を得るためには,相応の「実学」を要することもまた事実だろう。足下を固めなければ,高く跳ぶことはできない。その点,人文学の現場がどうなっているのかは私は知らない。私の持ち場であるところに,デザインの学というものがあるとすれば,現場の実践を繰りかえしながらシステムを俯瞰する力を指向していくものでしかありえないだろう。
とまあ言ってはみるものの,これがなかなかねえ。
コメント
引用していただきありがとうございます。umetenです。
おっしゃるように、コアとなり足場となるような「したたかさ(並河氏@埼玉大経済学部)」の作法(実学としての教育の作法)を身につけてこそ、研究者が自らの存在価値を効率化論者に対して示すことが出来るのだとは思いますが、やはり、
「言うはやすし」(自戒を込めてw)
またかなしい現実として、
文学系(国文・英文など)の先生方の多くは、もう嵐が過ぎる定年を黙って待っているだけのようにも見えました。
(その怠慢のツケか、私の出身学科は数年内に消滅しそうな勢いです。効率化恐るべし。)
PS
宮城大のHPものぞいてみましたが、ナローにやさしくないPDFが使われていたので、「事業構想学部」というのがどんなものなのかよく分かりませんでした。せめてHTMLと並存していれば…(ああ、エラソウなことを言ってすみません。)
投稿者: umeten | 2005年02月04日 23:32
umetenさん,こんにちは。
「言うはやすし」ですねえ,ほんとに。
システムを俯瞰する力を得るために,何をどう学べばよいか。その「カリキュラム」を完全に形式化できるといえば欺瞞だし,原理的に不可能だと切り捨てるのも怠慢。とりあえずこんなとこじゃないかと思うけどどうよ,とプラクティカルにやっていくしかないんでしょうが。
宮城大の公式ウェブサイトの惨状はご指摘のとおりで,「紺屋の白袴」とうそぶいていられる体のものではありません。おはずかしい限りです。新しいのを今つくってるはずです。お見せできるのはまだ先になってしまうかもしれませんが。
投稿者: もとえ | 2005年02月05日 01:17