を読む。
ヒューバート・ドレイファスの『インターネットについて』の第4章で参照されていたので,読んでみのだが実に面白かった。キルケゴールってのは結婚できなかった婚約者のことをグズグズ思い悩み続けた軟弱な青白い哲学者だという偏見(それがいつどのように形成されたのかわからない)があったのだが,すっかりイメージが変わった。戦う実存主義者なのであった。
キルケゴール『死にいたる病・現代の批判』桝田啓三郎訳,中公クラシックスW31,中央公論新社,2003
以下はおおむねドレイファスの第4章の展開にそって,私の関心のあるところを増補しつつ書いてみたものだ。
キルケゴールは1846年にデンマークの「現代」社会を批判する「現代の批判」という論文を発表した。キルケゴールによれば,彼の時代は「無関心な反省と,身分と価値のあらゆる差異を水平化する好奇心」いわば「傍観的な反省」によって「すべての質的な区別を水平化」してしまう。あらゆるものは同等であり,そのために命を賭するような重要な意味を持つものは何もない(p.98,ドレイファス)。「束の間の感動に沸き立っても,やがて抜け目なく無感動の状態におさまってしまう」のだ(p.259,キルケゴール)。
「水平化」は「公衆 Publikum」によって引き起こされるが,水平化にむけて公衆を駆り立てているのは「新聞」だとキルケゴールは主張する。情熱を欠いた反省的な時代にあっては「新聞というものが,それ自体無気力なものであるにもかかわらず,その無気力な生活の中に一種の生気を保持する唯一のもの(p.303,キルケゴール)」となる。「ヨーロッパは新聞で行き詰まることになるだろう。そして人類は結局のところ自らを駄目にするものを発明してしまったのだと悔やむことになるだろう。」「私の人生がその他の点では無意味だったとしても,日刊紙が人々を堕落させるものであることを発見したことだけでも私は満足だ。」「実際,キリスト教を不可能にするのは新聞,それも日刊紙である(p.99,ドレイファス)。」と非常に厳しい口調である。こうした新聞批判の背景には「コルサル事件」があった。社会風刺の週刊紙『コルサル(海賊)』が戯画を交えてキルケゴールを嘲弄する記事を1846年の年頭から10ヶ月にわたって掲載し続けたのである。どこへ出かけてもキルケゴールは野次馬に取り囲まれ,敵意と侮蔑の視線にさらされた。結果,キルケゴールは田舎牧師となる道を断念し,文筆活動に専心することとなった。「現代の批判」執筆時,キルケゴールは33歳であった。(p.12,キルケゴール)
キルケゴールの時代をさらに100年ほど遡る18世紀の半ばのヨーロッパに,新聞を読みながらコーヒーハウスで政治的討議を行う習慣が生まれた。のちに『公共性の構造転換』においてユルゲン・ハバーマスが,新聞とコーヒーハウスが生み出したこの討議の場を「公共圏 public sphere」と位置づけたものである。この討議の場は権力行使の当事者が参加されていた古代の共和国のそれとは全くことなっている。公共圏で形成される「公論(パブリック・オピニオン)」は政治権力の行使ではないが故に,公共圏は合理的で公平で自由な討議の場でありえた。公共圏は自由な社会の本質的特徴であり,その前提となるのだと考えられるようになったのである。
しかし,ハバーマスの指摘によれば,公共圏は19世紀半ばには性格を変えていく。新聞が増え,公衆が拡大していくにつれて,公論の領域は「凡庸な多数者の領域」となっていくのである。衆愚による「公論の専制」を恐れ,ハバーマスはこの事態を「不幸にも順応主義への傾斜であり,そこから公共圏は救出されねばならない(p.100,ドレイファス)」そもそもの公共圏には道徳的政治的な価値があったはずだから,と考える。しかし,同時代の当事者であったキルケゴールは公共圏を新たな危険な文化現象ととらえた。それは原理的に,人々を傍観者とし,ニヒリズムに陥らせ,社会を水平化する源泉だからである。そして,公共圏を実装する社会装置であるところの情報メディア=新聞はけしからんというわけなのだ。
新聞は,情報を状況から切り離して即座に大量にすべての人々に提供する。こうした情報のほとんどは,直接自分には関与できないことがらばかりであるから,読者たちは傍観者たらざるをえない。しかし,この経験を繰り返すことによって,自分たちに直接関係のないことについて,地域や個人の閾を超えて,意見をもち,それを述べるようにと促されていく。公共圏の発生である。ハバーマスはこれを民主化の勝利とみなす。しかし,こうした公共圏は傍観的な世界になることを運命づけられていると,キルケゴールは批判する。「そこでは,誰もが公共的な事柄に意見を持ち論評するのだが,いかなる直接的経験も必要とはされないし,またいかなる責任も求められない(p.101,ドレイファス)」からである。
公衆は,ひとつの国民でも,ひとつの世代でも,ひとつの同時代でも,ひとつの共同体でも,ひとつの社会でも,この特定の人々でもない。これらはすべて具体的なものであってこそ,その本来の姿で存在するのだからだ。まったく,公衆に属する人はだれひとり,それらのものとほんとうのかかわりをもってはいない。(p.307,キルケゴール)
公衆は自分をローカルな実践とは切り離されて思案する。彼らは傍観者であるから,情報が次々と送られてくる限り,無限に反省を続け,際限なく決断を延期する。公衆はひたすら知識をつくりだし,いつまでたってもなにもしないのである。いつまでも続く反省は「行動の前提条件を逃げ口上に変えてしまって,退却へと誘う(p.315,キルケゴール)」
キルケゴールは次のようにいう。
一般的にいうなら,情熱のない,しかし反省的な時代を情熱的な時代と比較してみると,前者は後者が内包において失っているものを外延において獲得している,と言える。(広がりを得る代わりに,その強度を失うという意味)(p.315,キルケゴール)
だれもがたくさんのことを知っている。どの道を行くべきか,行ける道がどれだけあるか,われわれはみんな知っている。だが,だれひとり行こうとはしないのだ。(p.330,キルケゴール)
ここにはこの上なく恐ろしい災厄が二つあり,それは実際,非人間性をもたらす原動力となっている――すなわち,新聞と匿名性である。(p.103,ドレイファス)
新聞によって,人は可能な限り最も短い時間で,可能な限り大規模に,可能な限りやすい値段で,堕落するのである。(p.103,ドレイファス)
恐るべきことに,この不気味で不釣り合いなコミュニケーションの手段の助けを借りるならば,だれでm内誰かが……責任を取ろうという気もさらさらなく,何らかの誤りを流通させることが可能なのである。 (p.159,ドレイファス)
キルケゴールがインターネットをみたらなんというであろうか。
参考文献:
キルケゴール『死にいたる病・現代の批判』桝田啓三郎訳,中公クラシックスW31,中央公論新社,2003
ヒューバート・L. ドレイファス『インターネットについて――哲学的考察』石原孝二訳,産業図書,2002