寝屋川の小学校で死傷事件が起きた。犯人は17歳の少年で,同校の卒業生であった。
学校の安全については,建築計画的な問題であるという側面もあり,授業のディベートの論題にもしてきた。
こうした事件に際しては,学校施設の管理体制が問題視され,「危機管理」を徹底せよ,という指摘が出てくる。
しかし日本では,学校は部活動をやったり,文化祭や運動会をやったりして,地域のコミュニティの核となる施設だと考えられている。だからこそ,学校は(物理的にも気持ちのうえでも)開かれてあるべきだという信念と,「危機管理」との矛盾がおきているのである。
内田樹によれば,フランスでは授業が終わると,生徒も教師もとっとと学校を出て行き,学校は施錠され閉鎖されるのが当然であるという。そのような文化の社会においては,「学校構内」で起きる事件は確かに少ないに違いない。
日本の学校もフランスと同様な運用を心がけ「危機管理」を徹底するならば,「学校構内」で起きる事件は減らせる。文科省と教育委員会は安堵するであろう。だが,生徒本人と親からすれば,子どもが危険にさらされないことが本質なのであって,事件が校門の内で起きたか外で起きたかは問題ではない。
学校に「危機管理」強化を求めるのは,学校の管理者からの立論であればよくわかる。しかし,親や子を含む地域社会からの立論としては妥当とはいえない。本質は,学校施設の運営の問題なんかじゃないからだ。にもかかわらず,学校の危機管理を求めてしまうのは「間違った問題」を見ているのだ。地域社会が,安易に学校の責任ばかりを追求し,「危機管理」を求めるとすれば自らの首を締めることになる。これはミーガン法の議論と同型なのではないか。
内田樹の研究室: 危機管理の陥穽:
「危機管理」というのは身も蓋もない言い方をすれば、「やるならよそでやってくれ」ということである。
フランスやアメリカ(も映画を観る限り多分そうだろうと思う。ゾンビやシリアルキラーに追われて学校の扉を破って逃げ込んできた高校生がどの教室も施錠されていてピンチ!というのはよく見るシーンだから)における危機管理は、教室も校舎も原則的に施錠してあり、鍵は担当教師だけが持っており、授業以外の時間、授業以外の目的には決して使用してはならないという先方の「学校観」と込みで受け容れるのでなければ実効性はない。
(中略)
日本において「学校」は、江戸時代の「寺子屋」以来、教育機関であると同時に、遊び場であり、擬似的な家庭であり、癒しの場であり、アジールでもあった。
私はこの固有の学校観は日本社会にはかなり深く根づいていると考えているし、軽々に放棄してよいとも思わない。
むしろ、私たちがその伝統を放棄しつつあることが、このような事件の遠因にあるように私には思われるのである。
もちろん,プラクティカルな水準でいえば,脆弱な子どもをたくさん預かっている学校には,かかる事態を水際で食い止める責任がある。現場教師の勇気に頼っているだけでは,今回のような犠牲はなくならないだろう。
来校者の目や表情で少しでもおかしいと思ったら、距離を置き、複数で対応するように伝えた。事件後、校門に防犯カメラやセンサーをつけ、職員室を校庭や門が見える場所に移している。「人を信用しなさいと教える学校で、人を疑ってかかるのは矛盾するが、仕方がない」と坂野校長はもらす。
学校の現場は,いまのところ矛盾を抱えながらも,開かれた学校であることを是とし,その上で安全を確保するためにどうすればよいかを考えている。排他的な施設運営による「危機管理」を不用意に要求することは,こうした学校の「ふんばり」を掘り崩してしまうことになりかねない。
「もう学校には誰も入れません。よそでやってください。」
学校がそう言い出したとしてもそれを留めることはできないし,何も問題が解決していないことは明らかだ。
追記(2005.2.17):
15日に開かれた保護者集会に出席した父兄が「学校も教育委員会も一言も謝罪しない。悪いのは犯人だが、管理責任だってある。腹が立つ」と話したという報道があったそうだ。これをうけて,スーさんの熱血うなとろ日記: 学校を責めるメディアと親たちに,現場の先生のコメントがある。
「別の父親」さん、あなたが言っていることは、今回の犯人が供述していることと通底しているということに気づいてほしい。伏流しているのは、常に他罰的に思考する「被害者意識」である。
そうではなくて、「私たち保護者にもできることがあるとすれば、具体的にどんな協力をしていけばよいのでしょうか」と、学校と手を携えながらこれからのことを考えていく姿勢を示してほしい。
そうしなければ、無念の横死を遂げられた先生も瞑目されまい。