を読む。
松原隆一郎『失われた景観—戦後日本が築いたもの 』PHP新書No.227, 2002
郊外,神戸,真鶴,電線地中化。四つの事例を題材としつつ,歴史的な遺産としての景観ではなく,日常的に生きられる景観に注目し,その喪失への怒りを示す。
私も,その違和感と怒りには共感するものであるが,こういう時の怒りの示しかたは難しい。松原がそうだというのではないが,倫理的に断罪してわめくだけでは誰にも怒りは届かない。それはちょうど松原も指摘する,乱暴だが実効性のあったチャールズ皇太子の異議申し立てと,デュープロセスは妥当だが効果の薄い真鶴「美の条例」との対比(p.151)に則していえば,乱暴なうえに効果が薄いやりかただ。
「日常景観は,それを有する「場所」の「内側」に長年定住する住民によってこそ,存在意義を確認されるものであろう」ことから,「その場所の「内」に住んだ時間によって,評価する資格に差があるはず」である。現行法では都市計画審議会に提出される住民の意見書へ応答する義務はないが,「たとえば在住歴十年を超える住民が提出した意見書には,審議会は応答義務があるだろう」という見解(p.90-93)には,なんだか考えさせられた。
私は子どものときから引っ越してばかりいるので,景観を評価する資格を有する場所をもたないってことになるのかなあ。ま,そうかもしれん。