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『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』

を読む。

ジョージ・マイアソン『ハイデガーとハバーマスと携帯電話 』武田ちあき訳,岩波書店,2004

こんなタイトルの本があるのかあ!とまずおどろいて手にとった。
ハードカバーだが,とても小さな本である。

内容は図式的といってよいほどクリアである。モバイル化はコミュニケーションを再定義しようとするが,それは二人の哲学者,ハイデガーとハバーマスが考えてきたコミュニケーションとはかけ離れたものであるという主張である。

解説で大沢真幸が整理しているとおり,マイアソンの議論は,ハバーマスの行為の二類型,すなわち「コミュニケーション的行為」と「戦略的行為」の二者の対比にもとづいている。

大沢によるマイアソンの議論の整理を一覧表にすれば次のとおりである。[pp.107-108]

問い ケータイ,モバイル化 ハイデガー,ハバーマス
コミュニケーションとは何か? 個人の自由の極大化,私的 われわれという関係を志向
なぜコミュニケーションをとるのか? 功利的な目的を充足させるため 会話それ自身が享受されている
誰がコミュニケートするのか? 装置 生活世界に内属する声
何がやりとりされるのか? メッセージの交換 意味の共有にもとづく理解の達成
コミュニケーションがうまくいくとは?即座の応答 合理性の相互批判の可能性や相互の接触
コミュニケーションから何を学ぶか? 情報が学習される 知識の獲得の過程が重要であって,世界は理解可能だという感覚が得られる
コミュニケーションがめざすユートピアは? 貨幣の獲得を指向する商取引へ漸近 システム\footnote{ハバーマスの用語としてのシステム} から独立した生活世界に固有の価値

こうした問題の本質は,技術そのものにあるのではなくて,その理解のされ方にある。マイアソンが批判するのは,技術そのものというよりは,ケータイのキャリアやメーカーの宣伝文句,あるいは政府の発表など,ケータイに関する言説のありかたである。

ケータイはとても重要になってきているため,ケータイに思想がどう結びつくかはやはり重要なのだ。社会はこの技術を採用する際,それに結びついた概念やイメージや考え方をどうしても撒き散らすことになる。目下そうした考え方の焦点は,コミュニケーションを機器そのものの可能性として定義し直すことにある——それと並行して,知識を「情報」として定義し直すことも進むが,それは機器のとるコミュニケーションの流れに入り込むと,そんなふうに思えるからだ。言い換えると,これから起こりそうな悲劇は,この技術開発の最も貴重な富が,こんなにも貧弱な未来像で包装されていくことである。[p.67]

この指摘は,なにほどか技術開発にかかわり,その説明をおこなう責任のある人びとにとって非常に重要である。新しい技術の説明は難しくて面倒だ。さらに,お金や権限を持っている人はほとんどの場合,技術への理解にとぼしいから,その詳細とポテンシャルを理解してもらうのはとても面倒だ。丁寧に説明しようとすればするほど,クダクダしていてわからないなどと言われ,それが何のために役立つんだ,などと凄まれたりする。だからつい,耳なじみがよくて誰にでもわかりやすい(ように聞こえる)単純な説明に飛びついてしまいがちだ。「貧弱な包装」で,せっかくの努力の結晶をだいなしにする愚は避けなければならない。

本書の解説で,大沢真幸は,マイアソンとはまったく逆の角度から,ハイデガー=ハバーマス的なコミュニケーションと,ケータイのそれとの関係を論じている。マイアソンは,もっぱらケータイの道具的使用に着目し,そのコミュニケーションが「戦略的行為」の方へと逸脱していると指摘するのだが,大沢はもっと内面に近いところでのケータイの作用だ。

ケータイにのめり込む人々の,始終送信されている内容のないごく短いメールや,極端な場合は「ワンギリ」は,ひたすら「他者への近接性」の感覚を満たすためだけの,コミュニケーションそれ自体を指向したコミュニケーションであるとして,そこでは,「コミュニケーションへの指向があまりにも強いがゆえに——情報内容を背景化してしまうほどに強いがゆえに——ハバーマスが念頭においていたコミュニケーション的行為の範囲を越えてしまっている[p.112]」というのである。


また,他者への近接性を切実に希求する若者たちは,「存在」の了解のために「近さ」=「遠さ−除去の運動」を求めたハイデガーと,同じものを求めているのではないか。

しかし,ここでもまた,「ケータイの場合には近接性を確保しようとする指向が強すぎて,遠さ−除去の過程が消滅してしまう」のである[p.116]。ハイデガー的コミュニケーションを特徴づける「近さ」の性質が極端に強化されたときに,それが逆転して,ハイデガー的な了解が否定されてしまうという事態が起きるのだ。

こうしてみると,ケータイのコミュニケーションは,単にもうひとつの新しいコミュニケーションにとどまるものではなく,「コミュニケーションの一般的な形式そのものを転覆させてしまう(ことを指向する)ようなコミュニケーション[p.118]」にも見えてくる。つまり,「一般にコミュニケーションは,言葉の送り手と受け手が,ともに閉じられた内面を構成していることを前提にしている」が,「ケータイのコミュニケーションが目指しているのは,本来は直接アクセスできないはずの自己の内面に,中間的な通路を経由せずに,他者が直接的に参入してくるような形式[p.118]」だからである。


こうした大沢の議論はケータイの示しているひとつの異様な側面を的確にとらえたものではあるが,いささか極端な使用例に偏りすぎているようにも思われる。日本の若者に顕著に見られるアディクティブなケータイの使い方は,世界中で普遍的に行われているのだろうか。同じ疑問はマイアソンのケータイ論にも言えて,日本でのケータイは必ずしもマイアソンの引用しているようなトーンの語法で宣伝されているわけでもないように感じられた。国際的な比較ケータイ論が必要であろう。ありそうだけど。

いずれにせよ,コミュニケーション論の地平に,異様な形相で登場してきたケータイ的なるもののインパクトを理解するには,さらなる継続的な観察と記述,検討が必要であるだろう。

ケータイはまだまだ新しい装置であって,世代によって「前ケータイ的コミュニケーション」の経験の蓄積がまったく異なっている。私が物心ついた時には,まだ電話がない家庭はたくさんあり,隣に電話して呼び出す,という場合が珍しくなかった。大学に入って建築を学んでいるころに,(携帯電話ではなく無線の子機のついた)コードレス電話の登場が住宅のプランニングを変えるであろうという議論をしたのを鮮明に覚えている。そして携帯電話である。

たぶん,私たちの世代は,こうした急激におきるコミュニケーションの様態の変化に対して,いたずらに恐れることはなく,しかし違和感は覚えながら,でも面白がって,相対してきているのではないか。この「サーフィン」はきっとまだまだ長く続くであろう。

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2004年10月14日 22:18に投稿されたエントリーのページです。

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