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『時間と物語 I』

を読む。といっても「第一部 物語と時間性の循環」だけ。特に「第三章 時間と物語 三重のミメーシス」に集中。

ポール・リクール『時間と物語〈1〉物語と時間性の循環/歴史と物語 』新装版,久米博訳,新曜社,2004

全三巻の大部と知り,いったんは萎えていたリクールだが,書店で新装版を見かけ,私が読むべきは第一部のみとわかったので着手。

荒っぽい読みだが,


  • 2ではなく3
  • 静的な構造ではなく,力動的な操作
  • 螺旋状の循環

が確認されたので私としては満足。


さて,リクールの「解釈学」は,「テクストの記号論」と対立するものとして語られている。

テクストの記号論は「テクストの前過程や後続過程を顧慮せずに,文学作品の内的法則だけを考察することができる,とする」ものであり,「唯一の操作的概念は,文学テクストの操作的概念だけ」であるという。この時,テクストは閉じた静的な構造として了解されている (p101) 。

こうしたスタンスをもった「テクストの記号論」に対し,リクールの「解釈学」は,中心的な過程の前と後にある過程を加え,三つの段階,すなわちミメーシスI,ミメーシスII,ミメーシスIIIを導入する。テクストの記号論が扱うのは,ミメーシスIIだけだという。


ミメーシスIとは,「まず人間の行動がその意味論,その象徴論,その時間性においてどういうものであるかを先行理解すること (p117) 」であり,これを「実践的領域の先形象化(préfiguration) (p.101) 」と呼んでいる。あらかじめ存在する読者の世界でもって,作品の中の出来事をひとつひとつを受け止め,経験していくプロセスのことだ。

続くミメーシスIIにおいては,テクストのなかのひとつひとつの小さな事件や出来事の経験が結び合わされて,一つの全体としての話が構築される。つまり「出来事を理解可能な全体として編成して,つねにその話の「主題は何か」とたずねられるように (p119) 」することから,ミメーシスIIは,「テクストの統合形象化(configuration) (p.101) 」と呼ばれる。

ミメーシスIIの後続過程であるミメーシスIIIは「テクスト世界と,聴衆または読者の世界との交叉 (p.127) 」を示している。つまり読者は構築された作品の世界をふたたび読者自らの世界へと接続し解釈するのであり,「作品受容によるその再形象化(refiguration) (p.101) 」のプロセスだといえる。

作品は,ミメーシスI(先形象化)をうけて読者に経験され,経験はミメーシスII(統合形象化)をへて構築され,構築された世界は,ミメーシスIII(再形象化)をへて読者によって解釈された世界に帰っていく。リクールのミメーシスのプロセスは,こうした循環をなしているといえる。

ミメーシスのプロセスは「その力動性によってめざす終点を詩のテクストの中だけに見いだすのではなく,観客や読者の中にも見いだす (p80) 」のである。

このようにして,リクールの解釈学は,ミメーシスIIに加え,前過程であるミメーシスIと,後続過程であるミメーシスIIIを導入することで,テクスト作品の世界を読者の世界へと開いていこうとする。「作品が著者によって読者に与えられ,読者はそれを受け入れて,自分の行動を変えるように,生き,行動し,苦悩するという不透明な背景から,作品がくっきり浮き出るようにする一連の操作を再構成する」ことが「解釈学の務め」だとするのである (p.101) 。

このとき「読者」とは「読む行為によって,ミメーシスIからミメーシスIIを経てミメーシスIIIにいく行程の一貫性を引き受ける,すぐれた意味での操作者」である (p101) 。ミメーシスは「構造としてではなく,操作として理解されねばならない。 (p.60) 」そこでは作品は開かれて力動的な場となり,読者は操作する者として登場し,テクスト世界と読者の世界を交叉させるのである。

ミメーシスIからミメーシスIIをへてミメーシスIIIにいたるプロセスは,前述のように循環的なものとして構想されている。だが,この連鎖は「到着点は出発点にひきもどされるように見え,もっとひどい場合には,到着点が出発点に先取りされているようにみえる」危惧がある。ミメーシスの循環は前進を示すことのない「悪循環」なのではないか,という非難にあらかじめ答える形で,リクールは「考察が同一点を,ただし違った高さで何度も通過するような無限の螺旋」というイメージを提示している。 (p.129)

表象の危機

ウヴェ・フリックは『質的研究入門』において,こうしたリクールのミメーシスの理論を,「表象(represent)の危機」を克服しようとするものだとする。「表象の危機」とは,既存の世界のコピーとしての表象は成立しうるのかという疑義のことであり,「現実」に対して「その表象」を対置したうえで両者の照合は可能かと問う事態のことである。フリックはこのような問いの立て方は「狭隘で生硬(45)」だとし「表現,研究,テクストなどの中に現実は鏡映されるという考え方は危機に陥る他ない」とする(48)。

そして,「事実は選択と解釈を通してはじめて事実となる」というアルフレッド・シュッツの見解やグッドマンの「世界製作の方法」や「世界のバージョン」という概念を引きながら,「表象(representation)の危機」の陥穽にはまらないようにするためには,「事象をさまざまなレベルでつねに表現/提示(presentation)されたものであると前提」して,リクールの多段階のミメーシスの循環という態度を取るべきであるとする(48)。

リクールのミメーシスは文学作品の理解に関わるものであったが,ゲバウアーとヴルフが次のような形で,認識全般の問題に拡張しているとフリックは述べる。

「人はミメーシスの過程を通して自身を世界に「同化」させる。ミメーシスによって人は自身から踏み出して,外界を内界へと引き込み,そして自身の内界を表現することが可能になる。(p.43)」そして,「世界は「別の世界」から作られる」。

この言明は,リクールの「聞き手または読み手はその世界を,それぞれの受容能力にしたがって受け取り,その受容能力もまた,世界の地平で限定されていると同時に開かれている状況によって定義される。(リクール,p.138)」と共鳴するものであろう。

「われわれは世界内におり,状況から影響を受けるゆえに,われわれは理解の様態で世界のほうにむかって進もうと試み,そしてわれわれは言うべきことをもち,言語にもたらして共有すべき経験を持つのである。(リクール,p139)」

リクールの,ミメーシスIからミメーシスIIをへてミメーシスIIIへのいたる,この三者からなる螺旋状の力動的な循環のモデルは,二元論のもつ閉じた静的な「構造」をやぶり,その「読者」を,操作者として,その世界=環境へと積極的にコミットメントすることを促すものだといえる。

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2004年10月13日 03:00に投稿されたエントリーのページです。

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