を読む。
ジョルジュ・アガンベン『開かれ—人間と動物 』岡田温司,多賀健太郎
政治哲学のアガンベン。初めて読む。
これなら薄いし,ベンヤミン,ユクスキュル,バタイユと知らないではない名前が出てくるので,おつきあいできるかも,と思って恐る恐る近づいたのだが,いや正直,全然歯が立たなかった。
そもそも,なぜ人間と動物の境界を問題にするのかがピンとこないし。
アガンベンの文脈をわかってないからだろうけど。
おそらく人間化した動物の身体(奴隷の身体)とは,観念論の遺産として思考に遺された解消し得ない残余(レスト)なのであり,今日における哲学のさまざまなアポリアは,動物性と人間性とのあいだで還元されぬままに引き裂かれ張りつめているこの身体をめぐるアポリアと符号するのである。(p.25)
あたりが導入で示される主たる問いなんだろうけど,人間と動物の境界があいまいだなんてことは,そんなのあったりまえじゃーないのかなあと思ってしまったので,そういうふうに構えることがもうわからない。
アガンベンの本筋じゃないのかもしれないけど私が反応したのは,ベンヤミンの「技術というものもまた,自然を支配することではなく,自然と人間のあいだの関係を支配することなのだ」ってのを引用している部分(p.125)。
「自然と人間のあいだの関係を支配することなのだ」とはどういう意味なのか。人間が自然を支配することでも,自然が人間を支配することでもない。まして,両者が第三項へとしかるべく止揚されることでも,弁証法的な綜合がかたちづくられるだろう,ということでもない。むしろ「静止状態の弁証法」というベンヤミンのモデルにしたがうなら,ここで決定的なのは,二つの項のあいだの「あいだ」,距たり,いうなればそれらのあいだの隙間=戯れ(ジョーコ)だけなのであり,合致しないままじかに配された星座(コンステラツイオーン)だけなのである。ここでは人類学機械は,もはや自然と人間を分節化することはなく,人間ならざるものの宙づりと捕捉をつうじて人間を算出する。人類学機械はいわば停止しているのであり,「静止状態」にあるのだ。そして,両項がたがいに宙づりにされるなかで,おそらく我々がまだ呼ぶべき名を持っていない動物でも人間でもないようなものが,自然と人類の間に横たわり,救われた夜という支配された関係のうちに身を置くことになる。(p.126)
このイメージはグッときた。全編,この調子の修辞が炸裂してます。「人類学機械」というのは「動物と人間を区別してきたさまざまな概念装置」のこと(p.190)。医学とか生物学とか解剖学とかの言説。
この節を遠く受けて,訳者の多賀健太郎は解題で,アガンベンは「人間と動物のあいだの関係を新たな形で問題化しようとする」のだという(p.157)。
もうひとりの訳者の岡田はあとがきで「動物的なものと人間的なものとの葛藤の場,両者の切断と文節の場としての人間とは,いったい何者なのか。この問いが,一方で,死の判定や臓器移植をめぐる医学的・倫理的な問題と,他方で,強制収容所ならびに諸種の収容所,難民などをめぐる政治的・法的問題と,密接につながるものであることは,もはや言うも待たないであろう」という(p.186)。
ふうむ。それはわからないでもないような。
この本だけだとなんとも衒学的な感じだけど,政治哲学者としてアクチュアルな問題提起をしているのだそうだから,『ホモ・サケル—主権権力と剥き出しの生 』も読んでみる気にはなった。高橋源一郎も「めまいがするほど素晴らしい本だ」と褒めているし。
この「〜と〜のあいだの関係を新たな形で問題化しようとする」というフレーズは気に入ったので,どっかで使うつもり。