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『街場の現代思想』

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内田樹『街場の現代思想 』NTT出版, 2004

原稿の半分くらいはwebの「内田樹の研究室」にあるものなので,すでに読んでいたが,独特の節回しをまとめて読むとまた違う味わいがある。

冒頭の文化資本論は,『浪費するアメリカ人』の話とぴったり繋がる。ショアはダウンシフターを引き合いに出したが,社会の階層化を回避しようとする内田の戦略は甚だ屈折しており逆説的だ。

文化が「資本」になると聞くと,目端の利いたガキは「おっとこれからは教養で勝負だぜ」と算盤をはじく。「これからは読書量が出世のカギらしい」と聞かされれば,『世界文学全集』の読破を企て,ぐいぐい読み進む。ぐいぐい読み進むうちに,うっかりサドとかニーチェとかバタイユとかを読み出し,気がついたら出世なんかどうでもよくなってしまった……というような逆説は文化資本主義ならではの味わいである。 文化資本へのアクセスは「文化を資本として利用しようとする発想そのもの」を懐疑させる。 必ずそうなる。 そうでなければ,それはそもそも「文化」と呼ぶに値しない代物である。(p.47)

内田は大学のセンセイでもあるので,教育論というか大学論も多く書いている。たとえば新都立大学が検討しているという語学の授業の英会話学校へのアウトソーシングは,「「英会話のスキルの習得」という短期的な教育目標に限って言えば合理的な判断かもしれない。だが,「知的センターとしての大学」の幻想性を取り返しのつかない仕方で毀損するという点で,きわめて不利な経営判断である(p194)」と批判していう。

高等教育においていちばんたいせつなのは,学生が「すでに知っている知識」を量的に拡大することではなく,学生に「そんなものがこの世に存在することさえ知らなかったような学術的知見やスキル」に不意に出くわす場を保障するということなのである。
(中略)
いま行われているあちこちの大学の教育改革のほとんどは「受験生がそれをほしがっていることがすでに自明であるところの,実定的な資格や能力」の提供を前面に押し出している。しかし私はほんとうの教育改革は「受験生たちがその名を知らず,その漠然たる『オーラ』だけを感知し欲望しているような知見やスキル」に焦点しなければ奏功しないであろうと思っている。(p.197-199)

これにはまったく同感だ。

受験生が暗黙のうちに「漠然たる『オーラ』を感知し欲望している」かどうかを入試判定の基準とすることできればよいのだが。大学に限らず,学ぶ場ってのはみな知への欲望によって駆動する空間であるから,その原動力を持っていないと来ても意味がないのだ。技術的にどうやるかが難しいのだけれど。

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2004年08月18日 21:14に投稿されたエントリーのページです。

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