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『ネガティヴ・ホライズン』

を読む。

ポール・ヴィリリオ『ネガティヴ・ホライズン—速度と知覚の変容 』丸岡高弘訳,産業図書,2003

訳出は最近だが,原著は1984年の刊行。

丸岡が訳者あとがきで書いているとおり,最近あいついで訳書が刊行され再評価がなされているヴィリリオの魅力は「速度による世界の縮小・老化・貧弱化というかれの基本的テーマが情報科学技術の発達で現実味のある危機として実感されるようになった」ことと,「地政学的戦争から時政学的戦争への転換というヴィリリオの指摘が冷戦以降の政治状況と奇妙に符合していると感じられるため」だろう。(p.304)

たとえば,次のような指摘。書かれたのは20年前である。

核兵器・通常兵器一式が完璧にそろって以来,いかなる武器も,いかなる軍隊も,国家間紛争を解決する力をもたない。ただ,政治的不安定さの領域をひらくことができるだけである。それはおわることがない戦争に似ている。ただその戦争がおわらないのはなにかの権力への意志のためではなく,だれもおわらせることができないからである。(中略)あたらしい兵器の破壊力があまりにも絶大なために「全面戦争」でさえ空間的にひろがることができなくなったが,その退化形態である局地紛争なら無際限に時間のなかに展開することができる。こうして偉大なる平和の時代が到来した。しかしそれはひとびとが主張しているように「通常兵器による戦争」が実現する平和ではなく,非通常的超犯罪による平和である。つまり(国内的にも外交的にも)あらゆる政治的形態をこえた国家テロによって平和が実現される。国家テロは外国人も自国民も区別なく抑圧する。「現実の戦争」はブロックされ,ただ戦争的傾向のみが発展し,統計学的虐殺が日常化する。世界大戦は不可能になる,偶発的事故でもおこらないかぎりは。こうして,実際に戦争をおこすことはできないからひたすら包括的兵站術が準備され,それが本当の世界戦争のかわりになる。(pp.275-276)

ここでいうヴィリリオの「平和」は普通の意味での平和ではない。

徹底抗戦の名のもとに敵の民間人を犠牲にし,敵による自国の民間人の犠牲を容認することはやめる。そのかわり,徹底平和(国家の安全)の名のもとにますますおおくの自国民をみずから犠牲にすることを決定するのである。核抑止の現代,軍人はもう民間人にたいしてしか宣戦布告しない。軍人にとって,直接軍隊に関与していないものすべてが国家の内的安定のための潜在的脅威である。(p.240)

というような意味での「平和」である。戦争と平和は反対概念ではない。同じことなのだ。

本書の主題は,またしても速度である。

人は原始の走行から,他者の速度を奪いはじめる。

乗り物の歴史。
国家もまた走行体制を実現する「乗り物」である。

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2004年08月17日 00:29に投稿されたエントリーのページです。

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