を読む。
ポール・ヴィリリオ『瞬間の君臨—リアルタイム世界の構造と人間社会の行方 』土屋進訳,新評論,2003
原題は L'inertie Polaire,直訳すると『極の不動』。
このタイトルからして撞着語法で,全編ヴィリリオ節爆発。相対性理論や不確定性原理後の技術と社会に内在する問題を扱う。土屋訳は丁寧な解説付きで理解を助ける。いちいち注でひっかかるのはヴィリリオっぽくないじゃんという向きは表面を滑走してもよろしい。
びゅんびゅん突っ走るヴィリリオのいうことも分からないではないのだが,本当にそうなのかなあ,ついていけねえぞおという気がしてしまうのもいつもの通り。突っ走る部分と動かないでいる部分との間で,強い剪断力を受けながら引き裂かれそうになっている部分にこそ,問題があるように思われる。
フッサールの現象学に大きな役割が与えられているのが,意外だったが興味深いところだ。
訳者あとがきで,土屋がおこなっている整理をさらに端折って紹介するとこういう感じだ。
フッサールの現象学は,普遍的な真理は「生きている現在」なしには,つまり自己の身体や知覚を抜きには成り立ち得ないと考えていた。それに対して,近代科学は「具体的な生活世界に基づく認識構造から完全に身を切り離し,抽象化したもの」を真理とし,観察者が誰であれ世界は絶対的に存在し,法則は絶対的に成り立つと考えた。
自らを現象学者と規定するヴィリリオは,現代物理学のなかに,この「生きている現在」を発見する。相対性理論にせよ量子力学にせよ,観察者によって世界像が変わってしまうのである。
ところが,近代科学を越えて現象学的な人間中心原理が回復されましたメデタシメデタシとはいかない。現象学もまた基盤をうばわれる。
ヴィリリオの描く「瞬間」が君臨する現代,宇宙旅行とビデオの世界においては,フッサールのいう「意味の原基盤」たる大地は消失し,「今ここ」という存在の枠組みは失われ,世界を構成する私は「さまざまな場所に,同時に」存在してしまう。
ヴィリリオは,ここに個人の肉体と意識に刻まれた大きな「時空の事故」を見て取ります。この「絶対的な世界の中心」に座っているのは,「私」でありながら,もはや「肉体」を持った私ではありません。それは「生ける現在」が世界の中心に座りながら,本来の「固有の肉」を追放し,まるで「神のように遍在する肉体」を持ってしまった姿として立ち現れます。(p.231)
土屋は続いて,
私たちの目の前に繰り広げられている風景を直視すれば,科学を人間の手に取り戻し,「肉体が住まうことのできる場」を再構築し直すことは,何よりも優先されるべき緊急課題ではないでしょうか。(p232)
とまとめてしまうのだが,私にはヴィリリオがこんな人間味あふれる,すなわちフツーな問いを残しているようには読めなかった。
本書の最期の節に登場するのは,1986年の,無給油無着陸で地球を周回することに成功した飛行船ボイジャー号である。エンジンによって地球の重力に抗しながら=地球を参照基軸としながら飛ぶ航空機とは違って,無重力状態で,衛星のようにただようボイジャー号は,「もはや人間を鷲のようにするのではなく,人間を完全に天体や流星と同じものにする」計画だという。ヴィリリオは続ける。「それは,人間の身体の質量が無重力の惑星の質量と等しくなったときに現れる不動性に,自力で到達するというものだ…。(p.222)」
ヴィリリオは突き飛ばす人なのだ。当事者性もへったくれもなくて,ひたすら悲観的で,思いがけないところから話を持ち出してきては想像以上に世界は深刻だということを述べるのだ。身近な友達にはしたくないタイプだけれど(笑),だからこそ,ヴィリリオを読みたいと思う。そういう因業爺のヴィリリオに,そりゃそうなんだろうけどさ,と切り返しながら,なにほどかポジティブな世界像を提示することができるようになりたいと思うのでね。