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パターン・ライティング

はてなダイアリー - 結城浩の避暑(?)日記より。

デザインパターンと,アレグザンダーのパターン・ランゲージとの関係について,物語風にまとめてある。

たとえば,「技術系メーリングリストで質問するときのパターン・ランゲージ」や
絵本を読むときのパターン・ランゲージ」は,アレグザンダーの形式を借りて書かれたという。

結城は次のように説明する。


ミラノ「結城さんは絵本のパターンとかをお書きになっていましたよね。」

結城「ええ。絵本を読むときのパターン・ランゲージのことですよね。あれは、パターン・ランゲージで有名な建築家Alexanderのフォーマットにならって書いたものです。文脈と問題の提示があって、その問題に対する解法がある。そして関連する解法への参照がある。だいたいそういう形ですね。」

ミラノ「パターンとパターン・ランゲージは違うんですか。」

結城「個々のパターンを「単語」とみなしたとき、パターン・ランゲージは「言語」とみなすことができます。つまり、複数のパターンを組み合わせて、より大きくて有機的な解法の連鎖を生み出すことができるもの。それがパターン・ランゲージですね。「絵本を読むときのパターン・ランゲージ」の場合には、子供に絵本を読み聞かせるときに直面する複合的な問題(こまったこと)にどのように対処したらよいかを、私なりに提示したものです。このパターン・ランゲージを読むと、個々の問題を解決するだけではなく、子供に絵本を読み聞かせるというのは、いったいどんなことなのかがほのかに浮かび上がってくるような文章になるように心がけました。」

ところで,難波和彦が,7月9日づけの日記に設計方法論者について次のように書いている。

建築における設計方法研究のパイオニアは僕の師匠である池辺陽だが、晩年の池辺は設計方法論研究の限界に気づいていた。「方法」に注目すると「内容」についての検討がおろそかになる。「何をつくるか」という問題抜きに「いかにつくるか」を研究しても意味がないとまで言っていた。しかし方法論者は、この問題を「何をつくるかを、いかに決めるか」という手順の問題としてとらえ直し、池辺の死後も研究テーマの延命を図った。つまりデザイン対象の問題をデザイン主体の問題にすり替えたのである。住民参加デザインやコラボレーション研究は、そういう類の研究である。そこには研究者がデザインに直接コミットしようとする視点はない。しかし研究者であっても、主体的にデザインにコミットし、具体的な「何か」を提案しなければ、そもそも参加やコラボレーションの方向は定まらないし「何をつくるか」も決まらない。要するに、方法論者はプロセスを楽しもうとしているのであり、ゴールには興味がないのだ。それは明確な目標を失った時代に、対象から身を引き離し、自己が相対化されるのを避けることによってエゴを守ろうとするアイロニカルな態度であり、ニーチェにならっていうならルサンチマンのデザイン論である。
難波和彦+界工作舎


パターンを書くという仕事は,「「いかにつくるか」をつくる」という仕事であって,いわばメタ方法論だ。ここに紹介した結城の寓話は,「いかに「いかにつくるか」をつくるか」を論じている。この寓話を書く時には結城は,「いかに「いかに「いかにつくるか」をつくるか」をつくるか」を考えていたはずである。(入れ子の括弧の対応を確認するのはコーディングの基本だ。)

メタ論は無限後退する。やむをえない。こうした態度を「対象から身を引き離し」ていると言われてもしかたないかもしれない。

かといって,難波のいう「具体的な「何か」の提案」を特権的な“はじめの一歩”として,絶対視することにも私は違和感がある。そのようなものはありもしないタマネギの芯を仮想するにすぎないのではないか。

絵本をつくることだけでなく,絵本の読み方をつくろうとすることからもまた,つくることをはじめることはできる。絵本はもうここにあるからだ。原初の絵本を問うことはロマンティックではあるけれども,さしあたり大事なことだとは私には思えないのだ。

何を作るか と いかにつくるか は,対置されるものであると同時に,互いに相手をメタレベルで包含しあうものなのであって,それこそが「つくること」のダイナミズムの源泉になっているのではないか。

(むー,あまりうまく言えてない…)

コメント (3)

結城浩:

結城です。興味深い文章をありがとうございます。
無意味な無限後退から逃れるためには「読者のことを考える」のがとてもよいことだと思います。「何を作るか」と「いかにつくるか」を対置させるだけではなく、「誰のために」という視点を入れることで、無限後退や衒学趣味に陥るのを防げると思っています。(^_^)

いりえ:

方法と内容のどちらが大事かという話は、手続きと理念のどちらが大事かという話だと読み替えてもいいのでしょうか?

理念は計測し得ないから、方法を考えようという立場は一つの見解ではあるけれど、偽の理念のためにすりかえられる可能性も強いということ(例えば、対等な対話の実現を目指した茶道が、教養おばさんのアクセサリーとして定式化されるとか)は、よく理解できます。

「自己を含む集団」にその方法を適用できるかで、その方法の欺瞞性をテストできると鶴見俊輔は言っています。
建築で言えば、自宅は何って話でしょうか?

客観性と当事者性の話になりますが、「方法・手続き」だけを分離して客観的に扱えるのが<科学的>という態度だけでは解けない問題が多いため、当事者の行為と分離はできないが他者に向かって開かれていて、かつ構築物の設計として使える「パターンランゲージ」が重要なのだというような話なのかなと思いました。まとめすぎなのかもしれません。
なかなかうまく書けている気がしません。
「開かれている」というのがミソだという点は、結城さんの「絵本を読むときのパターン・ランゲージ」を読むととてもよくわかるような気がします。

初めまして。
非常に面白い話をよまさせていただき、ありがとうございました。

¥方法と内容のどちらが大事
昔から、よく話題になる「目的と手段がひっくりかえる」話でしょうか? それともよく業務で言われる「ディレクション(方向性)」がはっきりしないから、最適な方法論が決定できないというような話でしょうか?。。。だから、「ディレクション」を決めるための方法論が出てくると?で、そのやり方を決めるための方法論が……
(イレコにしないとわかりにくいですね)

……この辺は自分の意見を強く押し出さない”一般的な”日本人に特に適用されそうな話ですね?カリスマ的なリーダシップが起きにくい土壌だと。。。

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例えば、今住んでいるIrvine市(Irvine company が都市設計)で、市が構築されつつある段階で、もしある人が御店を
設計したと仮定しますと

Irvine市の
理念:自動車事故を少なく、渋滞が少ない町を作ろう
方向性:すべての店をショッピングモールに入れよう
   御店が道路に直接道路に接するのを基本的に禁止しよう。

という背景があって、初めて「どういう御店をデザインしたらいいか」という話が始るということでしょうか?(ちょっと違いますでしょうか?)

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*Starプロジェクトのマウスベースのアプリの場合?
理念:キーボードアレルギーの人間にもつかいやすく
方向性:マウスを導入して
方法論:それを生かしたアプリ
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*ブーケ等(少女漫画雑誌。。。漫画マニア的な要素もある)
理念:現役の学生の感覚を生かしたコンテンツを提供したい
方向性:広く読者(現役の学生か、近い年代)から投稿応募
方法論:投稿しやすい、漫画家にメリットがあるような雑誌を
    あらたに発刊する。

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よく言われることですが、方法論を弄くるより理念から弄くった
方が面白い結果が出てきそうですね?もっとも、「論文で評価」する、アメリカ式学問体系では「方法論を弄くった方が論文になりやすい」という背景もあるでしょうから、現実的ではないのかも知れませんが。。。
 でも、本来は企業が方法論を弄くり、大学が理念を弄くるという
形が理想的だとおもいますが。。。

雑文・乱文失礼しました。

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2004年07月22日 02:04に投稿されたエントリーのページです。

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