を読む。
佐々木正人『レイアウトの法則—アートとアフォーダンス 』春秋社,2003
アートやデザインの領域と,アフォーダンス理論の領域とが,どのようにラップしうるのかを,対談やエッセーを通じて比較的カジュアルに書いた本だ。だから,デザインのことを考えている人にはとっつきやすい。建築関係なら,塚本吉晴との対談などもなるほどうまいこというなあなどと感心しながらサクサク読めてしまう。けれども,さらにもう少し踏み込んで呑み込んで考えようとすると,とたんに分からなくなってしまう。そういう種類の本だ。少なくとも今のわたしにとっては読むのがとても難しい本だった。
いつか,こんなようなことが,もっとスンナリと私の肚に納まるようになって,「アフォーダンス」のことを書く機会があれば,この本にちりばめられているたくさんの気の利いたフレーズを引用することができるだろうと思う。線もたくさん引いておいたし。でも,まだ難しい。有り体に言えば,経験不足なのだな,オレは。
「相撲と無知」と題された章で,佐々木は次のように書く。
三年ほどかけて靴下と魚を見てきた。物と身体とでどれほどのことが生じているのかについて,少しは知った思いである。ここまで書いてきたようにまとめてしまうと,行為を知るために何か一つの方法が用意されているように思われるだろう。しかし,逆である。物と行為を見れば見るほど,それらで起こることを方法に定着させることの困難を知る。
何せ,物と行為がつくりだす組織は知りえないことを餌にしている。身体に分割されていく物にも,物に分割されていく行為にも,そしてそれらが作り出す組織にも,その一回の行為でしか扱われないことが常に現れる。それが知りえないことである。その知り得ないことを,「無知」とよぶことにする。無知に行為は頓着せずに,果敢に物に挑んでいる。行為はそのようにしなければどの物も扱うことができない。というか,行為のエンジンは無知を燃料にしている。おそらく行為が知っていることの中心のことは,物など十全に知ることはできないということである。(p.201)
「無知に行為は頓着せずに,果敢に物に挑んでいる。」