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『アフォーダンスの構想』

を読む。

佐々木正人,三嶋博之編訳『アフォーダンスの構想—知覚研究の生態心理学的デザイン 』東京大学出版会,2001

様々な研究対象をもったギブソニアンの論文アンソロジー。古いのは1933年のものから,1996年のものまで,6編が解説付きで載っている。訳者等による解説がそれぞれとてもいいので,まず解説から読むのがいい。

アフォーダンスってものが,いまだにすんなりと肚に納まらないので読んでいるのである。『デザインの生態学』を紹介したときにも書いたように,アフォーダンスは,わかったりわからなかったりする。これを読んで,わかるようになったかというとそうではない。読みながらも,わかってきた気がしたりさらにわからなくなったりした。しかし,アフォーダンスという概念の厚みは感じられた。


序章にあたる佐々木正人の総論はギブソンの第二の著作『知覚システム』を参照しつつ彼の知覚理論の枠組みを整理する。注に『知覚システム』は佐々木らによって翻訳がすすめられているとあり期待しているところ。

以下,わかってきた気がしたところの断片。

ウィリアム・ガーヴァーの「日常の聴こえ(everyday listening)とは,音自体が聞こえる,というよりも身のまわりの事象(event)が聞こえるという経験のことであ」って,音それ自体を聴く「楽曲の聴こえ」とは異なるという立論(p.127)。ドタドタいう足音だとか,近づいてくる車のエンジン音だとか,ふだん我々は音そのものではなくその音を生成している事象を「聴いて」いる。確かに妙な物音が聴こえると,どんな音?とは訊かず,なんの音?と訊くではないか。

E.S.リードのダーウィン論を解説する細田直哉によれば,

ある「個物」の「種」を,それをつくった人の「意図」やそれを見る人の「主観」に帰属させるのではなく,それが実際この環境内でおこなわれる行動のなかでどのような機能を果たしうるかということから考えてゆくなら,それは生態心理学のアフォーダンスの考え方に接近する。そしてダーウィンの「種」の考え方の革新性もそこにある。(p.270)

この先に,日常の建築の「機能」や「プログラム」,ビルディング「タイプ」の影を捕まえられないか,とかね。

追記(2004.6.8)
知人の音楽家に,「日常の聴こえ」と「楽曲の聴こえ」について話したところ,彼にとっての音楽もまた,笛に息を吹き込む息づかいやギターの弦に指がかかる瞬間の摩擦音,そうした所作を開始する演奏家と楽器の諸動作の全体として,つまりは「事象」として聴こえているという。電子音によって生成されるような,演奏の所作を含まないような音であれば,抽象的な音そのものとして聴こえるという。
わたしは音楽に不案内で演奏もできないから,必ずしも「日常の聴こえ」として音楽が聴こえているわけではないが,演奏行為が日常であるような人には,当然音楽も「日常の聴こえ」なのだろうな。

コメント (2)

「ギブソン心理学の核心」境敦史,曾我重司,小松英海・著
勁草書房 (ISBN:4-326-15364-4)

デザインの分野で一定の支持を得ている「アフォーダンス」ですが、理論の難解さとともに、ある種の‘腑に落ちなさ’を感じていました。
この本で著者らは、アフォーダンスという概念が‘間違った解釈’や‘あいまいな理解’のまま広まり理解されていることを指摘しています。読んだ当時、「あぁ、違和感のもとはこれだったのか」と納得し、アフォーダンス‘信奉’ともいうような流れからは、自分自身は少し距離を置くようになりました。

もとえ:

こんにちは。
わたしもなかなか「腑に落ちない」ので,あれこれ渉猟しつつ考えて見ているところです。決して魔法の呪文ではないですから,信奉するってわけにはいかないですね。

ご紹介の本も読んでみたいと思います。ありがとうございます。

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2004年06月04日 02:00に投稿されたエントリーのページです。

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