中西正司, 上野千鶴子『当事者主権 』岩波新書 新赤版(860), 2003
を読む。
これは,事業体として非常に大きな成果を挙げてきた障害者の自立生活センターの事業を具体的に紹介している。
この「自立」の意味,パラダイムを転換した点が重要である。普通考えられているように「だれにも迷惑をかけずに,ひとりで生きて行くこと(p7)」が「自立」なのではない。「自分のニーズは自分で決める」ことが「自立」であって,「そのニーズを満たすために他人の力を借りなければならないからといって「自立」していないとは言えない(p8)」というわけだ。だから,介助無しでは夜を越せない『こんな夜更けにバナナかよ』の鹿野氏であっても「自立」しているといっていいのだ。
さて,私的には,「当事者」という概念については,まちグラフィティ研究会でお世話になっている三菱総研の入江さんらの論文「当事者性を持ったコミュニケーション空間実現のための携帯電話・Web-GIS連携に関する一考察」(公開準備中のはず)のドラフトで読んで以来,環境内存在であるところの我々は,その内部から環境のデザインを行なうよりほかないということと関連づけて考えたいと思っているところ。環境デザインは否応なく当事者性と向き合わざるをえない。
「当事者」と対比されるのは「専門家」である。
当事者主権の考え方は,何よりもこの専門家主義への対抗として成立した。 専門家とはだれか。専門家とは,当事者に代わって,当事者よりも本人の状態や利益について,より適切な判断を下すことができると考えられている第三者のことである。(p13)
典型的には,医者が専門家である。当事者である患者をさしおいて,病気を告知するかどうかなどと悩んだりする。こういう態度をパターナリズム(paternalism, 温情的庇護主義ないし家父長的温情主義)という。よかれと思って,当事者の意を無視した決定をする,というような意味だ。本人はよかれと思っているところが味噌。
「客観性」や「中立性」の名のもとで,専門家は,現在ある支配的な秩序を維持することに貢献してきた(『当事者主権』p17)
まさしく支配的な秩序の維持が業務であるところの,制度設計者すなわち政策立案者も「専門家」である。
Zaiya Project の「政策作成マニュアル−アドバンスド0:当事者性の政策術」では,「青写真モデル」と「当事者モデル」が対比的に整理されている。政策立案の現場において,青写真モデルの限界に自覚的であるとしても,「それなら当事者モデルで」とは簡単にいかないというジレンマがある。形式的な「住民参加」が当事者性の担保には必ずしもならないことは経験的によくわかっているし。
建築家も典型的な「専門家」であり,ややもすればパターナリスティックに振る舞う。「おまかせください」などという。よかれとおもって勝手なことをする。しかも本気で「よかれ」と思っている。それがうまくいかないと,わかってねえなぁなどというのである。
いうまでもなく教師も「専門家」である。プロフェッサー・アーキテクトなどというものは,二重に「専門家」なのであって,これがパターナリティックに振る舞う自己を批判的に反省する契機をもたないでいると,それはそれは面倒なことになる。
デザイン行為においてパターナリズムはどのように発現するのか,は考えておかなければならないテーマだ。たとえば,ユーザー中心主義のデザインは,ある意味でパターナリズムであることを否定できない。アップルのユーザ・インタフェイスを「大きなお世話」だと考える人は少なくないだろう。
ユーザの自律性にまかせうるように,あらかじめデザインしておくということ自体,パターナリスティックである,なんて言われると,まぁそう言ってしまえばそうかもしれませんねぇ(苦),ということになる。
もっとも,パターナリズムそれ自体はニュートラルな概念であって,パターナリスティックであるからといって全部ダメだってことにはならない。また,パターナリズム批判は,「父」だけに向けられるのではなく,同時に「父」の言いなりになることを自ら望む「子」にも向けられていることを忘れてはいけない。
パターナリズムを批判し,当事者性を重視する態度は,当事者に「自立せよ」と迫る厳しいものでもある。
パターナリズムの対立概念はオートノミー(autonomy, 自律)だ。
このあたりは,「パターナリズムについて」に詳しい。
また,同じ著者の,当事者性とコミュニケーションの様態についてより一般的な議論として「当事者性について」も参考になる。「思弁的コミュニケーション」と「経験的コミュニケーション」とを対比させて,当事者性を共有しない相手とのコミュニケーションに常に存在する壁について論ずる。
# んー,もうちょい整理しないとダメだな。
コメント (3)
本江先生に、深いところで理解いただいたようで大変うれしいです。
それだけでも、給料があがるわけでもない論文を書いた甲斐があったというものです。
プロフェッショナルの条件が、スペシャリティ(外部存在としての専門性)から、ホスピタリティ(内部存在として、「もてなす」ところ)に移行しつつあるのは、様々な「プロ」に当てはまることのように思います。
なかなか、ぼくじしんも答えがでていることではないのですが、ずっと考え続けるに値するテーマのようにおもっています。
投稿者: いりえ | 2004年04月22日 14:09
日時: 2004年04月22日 14:09
私が深く理解できているかどうかわかりませんが,「当事者性」がいろいろな分野に飛び火しうる論点であることは確かですね。論文書いても給料は上がらないのはどこでも一緒です(笑)
スペシャリティからホスピタリティへ,というのは面白い語法だと思いました。宮城大学のスローガンが,ホスピタリティ&アメニティっていうんですよ。アメニティってのも「その場所だけの」ってぐらいの意味ですから,やっぱり内部性とかかわってますね。
投稿者: もとえ | 2004年04月26日 10:21
日時: 2004年04月26日 10:21
この話題、おもしろいですねー。面白さにキリがない感じです。
・全員が相互にパターナリスティックに振る舞うとどうなるのでしょうか。いわばパターナル返し。
・子が言うことを聞かず、対立が起こることをあらかじめ認めつつ、しかも最後には負けるかもしれないと思いつつも、それでもあくまでも父として振る舞うしかないと肚を括るのもパターナルな態度なのでしょうか。
・当事者としてのホスピタリティをもてなしと理解することに、少ししっくりしないものを感じることがあります。なんというか、それこそパターナルに、相手をもてなしてしまう。でも相手は失望を感じている。そういう状況をよく見かけるので、気になってます。こういうのはそもそももてなしとは言えない、ということなのでしょうか。
投稿者: もとなが | 2004年04月29日 03:38
日時: 2004年04月29日 03:38