« 「卒業設計日本一決定戦2004」予選 | メイン | なんでMacを使うの? »

『記号の知/メディアの知』

を読む。

石田英敬『記号の知/メディアの知—日常生活批判のためのレッスン』東京大学出版会,2003

著者自身による解題ビデオ:iiV Book Lounge

前半は記号論の教科書。パース,ソシュール,ヤコブソン,シャノン,マクルーハン。
中程は少々たるむけどケーススタディ。建築=場所,都市=?,欲望=広告,身体=権力,スペクタクル=象徴政治,いま=テレビ。(等号でむすぶのはあまりよい整理ではないかも)

最後,ヴァーチャルとサイバースペースの章はおもしろい。
ひたすら記号があるだけの世界。記号が二重に記号化されている世界。
「コンピュータを媒介手段としたコミュニケーション技術によって,世界の意味の経験が成立する条件は,大きく変化しつつある(石田p320)」

石田は,サイバースペースは〈ポスト・ヒューマンの問い〉をもたらすという。
「〈人間〉という形象において統合されていた,世界の経験とそれに意味を与える表象作用との関係が,もはや〈人間〉という統一体を経由しなくなっているのではないか」(石田p357)という問いである。カントの「経験的−先験的二重体」やハイデガーの「現−存在」としての人間が統一体としての〈人間〉だ。

本江は上記の問いには「ま,そうだろうな」と考える。
その時になお,身体性に立脚する建築の立場から環境情報デザインのようなことを問題にしようとするのは何故かと自問。
原理的にはポストヒューマンが開かれつつあるのだとしても,それでも身体はあるわけだし,身体性に立脚することで多くの合意が可能な環境をデザインできる。あくまでプラグマティックに有効。というのがさしあたりの回答か。ただ,その辺がビミョーだと思っているからこそ,煮え切らない環境情報デザインなどと口にしているのではある。

石田はまた,パースのアブダクション(abduction)=仮説形成という概念を重視する。
これは帰納(induction)とも演繹(deduction)とも違う推論形式である。アブダクションという推論形式とは,「事実から抽出できる一般則や前提としうる一般則をもたず,それ自体としては根拠を持つことはない仮説を立てることによって,前提にある事実を説明するような推論」であり,「それ自体は実定的根拠はないが,そのように仮設するとすべてがうまく説明でき,問題を解くことができるようなフレームを仮説として形成すること」である(石田p.354)。

パースが使っている例としては,内陸部で魚の化石が発見された時,この現象を説明するために昔はここは海だったのだと仮説をたてると,事態が了解される。これがアブダクションである。

「サイバースペースでは,ある世界がなぜ一定の規則的構造をもっているかということについては,その世界が,そのルールにもとづいて仮構されたからという以上の理由はない。いうならば,サイバースペースにおいては,すべての世界は仮説としての世界である」(石田p354)わけだ。サイバースペースは「アブダクションの絶えざる発展のプロセス」として展開していく。

だから,たとえばマイケル・ベネディクトが整理した「サイバースペースの空間原理」7か条(石田p348)もまた,アブダクティブなものにすぎない。このあたりなら皆が合意できるであろうという「ルール」がプラグマティックに設定されているにすぎない。

ちなみに,

マイケル・ベネディクト「サイバースペースの空間原理」

  • 排他の原理 principle of Exclusion
  • 最大排他の原理principle of Maximal Exclusion
  • 不偏の原理principle of Indifference
  • スケールの原理principle of Scale
  • 交通の原理principle of Transit
  • 個人の可視性の原理principle of personal Visibility
  • 共通性の原理principle of Commonality

(石田p348から孫引き)

しかし,プラグマティックな設定にすぎないからといって,無効だということにはならない。

「〈意味経験の一般性〉の地平から問いかけるような一般学は依然として有効であり,かつ必要である」。なぜなら「人間にとって,意味はけっして一元的な事象ではなく,つねに複合的で多次元的な人間の活動であって,それについて私たちはつねに仮説的に漸近するしかない」からだ。(石田p361)

この時の石田の姿勢は,ほとんどデザイナーのそれといってもいいように思われる。デザインのプロセスは否応なくアブダクティブでプラグマティックであるからだ。

また,「意味環境としての人間の文明は,〈記号〉・〈社会〉・〈技術〉という三つの次元のトポロジカルな相互連関において理解される」として,「〈記号〉と〈技術〉が結びつき,そのことによって〈社会〉がたえず変動し続ける世界」として今日の文明の状況をとらえる(石田p361)。これは「情報社会」の定義としてはとてもよくできていると思う。

ただなにしろ4200円なので学生は買いにくいけど,これが教科書になっている講義はきっと面白いだろうなぁ。

コメント (2)

もとなが:

いつも素朴に疑問に思うのは、せっかく身体があるのになんでそれをもっと使わないんだろう?ってことです。使った方が面白いのに。もったいない。
現実の一部を全く無視して先に進むことで初めて見えるものがある、んでしょうけど、とりあえずそういうのはいいや、って感じ。やっぱプラグマティックなのかな。

ところで「そのほうがうまくいくから」っていうより「そのほうが面白いから」っての、結構ありません?
こういうのもアブダクションなんでしょうか?

もとえ:

デザインのアイデアってのは、ほとんどの場合、アブダクティブなわけです。こんなのどう?って、論理的飛躍は気にせず仮説を提示する。よさげーとか、ありえねーとかいいながら、問題解決に寄与しうるかどうかを判定して、妥当なら採用しようってことになる。アブダクティブな推論形式という概念がデザイナーにとって重要なのは、それがいつもやっていることだからであるし、普通は「勘」といわれて科学的でないとされるアプローチを、定位させる概念装置として機能するからです。

ところで、「うまくいく」より「おもしろい」を重視するというのは「おもしろい」指摘ですね。「うまくいく」提案は、すでにわかっている問題に対する答えであって、問題自体をゆさぶったりはしないけれど、「おもしろい」提案は、問題そのものを変化させてしまうような答え方だ、と言っていいのではないでしょうか。つまり、前者は問題解決的な評価であるのに対し、後者は問題発見的な評価であるといえる。

デザインの問題の多くは、問題が何かよくわからない、というのが一番の問題であるので、「うまくいく」だけの提案よりも「おもしろい」提案を尊重しようという態度になるのでしょう。

アブダクティブかどうか、ということでいえば、まぎれもなくアブダクティブですけれども、それ以上に、「おもしろさ」の持つ問題の枠組みを変化させる力に注目するならば、単なる推論形式の問題ではすまないような気がします。まさしく、「うまくいく」より「おもしろい」ほうが「おもしろい」ですね(笑)

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

About

2004年03月11日 19:37に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「「卒業設計日本一決定戦2004」予選」です。

次の投稿は「なんでMacを使うの?」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。