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『LaTeXユーザのためのレポート・論文作成入門』

を読む。

津野海太郎だったと思うけれど,パソコンのアプリケーションソフトは書物と同じで,それを使うことで作者らの思想を読み解いていくのが面白いのだ,というような説を読んだ。言い回しは全然違うと思うけど,そんなようなことであった。

それまで毎日のように新着オンラインソフトをチェックし,ちょっと使ってはなるほどなぁと言ってハードディスクの肥やしにし,バージョンアップしたとあれば前回のテストから一度も起動していないにもかかわらずすかさずアップデートし,環境設定やらメニューやらいじり回してまた肥やしに戻す,というようなことを繰り返していた私は,この「アプリ=書物」説に完全に共感し,そうなのだ,俺は「本」を読んでいるのだ,これでいいのだと自信を深めたのであった。そして,いまでも同じように新しもの好きのダウンロ〜ドやらマック アップ サーチを飽かず日に何度もチェックしている。Macを使っているのは,こっちのほうが面白い「本」があるように思うからでもある。

さて,横尾のこの本は,いわゆる「LaTeX入門」とは全く違う。いうなればLaTeXというソフトウェアに対する「書評」である。そして,LaTeXに込められたクヌースの思想に共鳴しながら,返す刀でうすらぼんやりとした論文のようなものを書いてよこす学生たちを斬りつけている。こんなデタラメな書き方じゃダメだ,LaTeXを見てみろ,というわけである。

論文は明快な構造をもっていなければならないという著者であるが,錯綜した構成を与えられた本書はおそらくは論文ではないということなのだろう。

横尾英俊,LaTeXユーザのためのレポート・論文作成入門 ,共立出版,2002

書物とソフトウェアの相同性について考えてみれば,ソフトウェアへの「書評」に相当するものももっとたくさんあってしかるべきであると思われる。そのような作業はあまりきちんと行われていないのではないか。

アウトラインプロセッサやカード型データベースについて論じた『思考のエンジン—Writing on Computer 』や『物書きがコンピュータに出会うとき—思考のためのマシン 』といった奥出直人の仕事はそうしたもののひとつであるだろう。

いずれにせよソフトウェア批評はソフトウェアの膨大さに比して数が少なすぎるのではないかと思うが,この事態は批評するにたるソフトウェアがそもそも多くないという理由によるのだろうか。あるとすると,MacOS,Mosaic,HyperCard,PalmOS,最近ではMovableTypeなどか。UNIX系のものについては寡聞にして不明。LaTeXなんかは結構読み物があるようだけど。

ソフトウェアは明瞭な機能をもつものであることが多いから,その評価も便利か否かにフォーカスしてしまいがちである。あれはできる,これはできない,軽い,重い,わかりやすい,わかりにくい。ユーザビリティや快適性評価といった新しい評価軸も,機能性評価の領域を拡張するものにとどまる。

ソフトウェア批評の可能性を考える際には,我田引水ではあるけれども建築批評の方法(そのようなものがあるとすればだが)が参考になるだろう。建築もまた,徹底的に有用性を基軸として建造されながらも,それをあふれ超える意味を担ってしまうものであるからだ。

ゲーム批評は映画評と通じていくであろう。それはエンタテインメントの作り込みを消費する商品であるからだ。
アプリケーション系ソフトウェアの批評は,建築批評に似てくるであろう。ともに活動を支える環境のデザインにほかならないから。
OSの批評は文化論に相当するであろう。マカーとドザの果てることのない対立は,文明の衝突といっていいかもしれない。

ところで,実装されていないソフトウェアに対する独特の冷ややかな態度がソフトウェアを作ってる人たちにはあるように感じることがある。動かないソフトはソフトではない,というわけだ。それは一面真実であるが,ソフトウェアのもつ可能性を狭めるものでもあろう。

建築におけるアンビルト・プロジェクトの価値は少なくない。
アンビルト・プロジェクトにおいては,予算と技術だけが建造できない理由ではない。

インプリメントされていないにもかかわらず素晴らしいソフトウェアプロジェクトのプレゼンテーションを見てみたい。それを擁護する批評家のすぐれた批評も読んでみたい。

ところで本論は科学技術論文ではないので一文一義ではないし構成も支離滅裂だがこれでいいのだ。

コメント (11)

もとなが:

ソフトウェア論って、入口というか取っかかりはいわゆる「奥が深い症候群」と同じで、その後奥深さを追求するんじゃなくてメタ方面になんとなく吸い寄せられただけ、みたいなものも多いですよね。そういう意志薄メタ論みたいなのを除くと、対象は何であれきちんとした批評なんてあんまり残らないのかも。

冷ややかな態度も複雑ですなー。
建築やプロダクトと同様の、職人のデザイナーに対する冷ややかな態度「考えるだけのやつがでかいツラするな」的なものもあるし、そもそもそのような弊害(?)を生む、中途半端な近代的分業化モノ作りと同じ轍を踏みたくないという意識がそうさせる部分もある。で、分業化そのものを嫌う。アジャイルなんかもちょっとそういうところがありますよね。

反対に徹底的に分業化するというのも一つの方向かもしれないなーとも思うのですけど、分業化の度合いはプロジェクトの規模によるところが大きいし。巨大化するものはますます巨大化していく一方で、小さいものも必ず存在するので、ややこしいです。

もとなが:

そういや「ベーパーウェア」なんて言い方もありますね。

もとえ:

「東京計画1960」やアーキグラムみたいな,その筋では誰もが意識しているような,すごい「ペーパーウェア」って,たとえば何?

もとなが:

完全に構想だけ、っていうのはなかなかないですよねー。建築に比べると、やっぱりそれはどうしても、つくろうと思えばつくれるから。予算や技術面が主なネックでないものとするなら尚更。つくる意味がないものでさえつくれますし。社会性があるのと同時に、全くないようにもふるまえる環境。そんなある意味めぐまれた(?)ものづくり環境の中でなおも「つくれない」ものを構想することは難しい。

つまり、それほどつくろうとは思っていない構想?。

それこそアーキグラムみたいに、つくろうとしているのはソフトウェアだけじゃなくて世界像、ってものならあるかも。

テッドネルソンのザナドゥとか。これも一応コードはあるみたいだけど。

この話題、深いなー。

もとなが:

ダイナブック!

もとえ:

正しく構想することができた時点で,ソフトウェアは出来上がっているといえちゃうのか? 

「アジャイル」を書いたときも触れたんだけど,
http://www.myu.ac.jp/%7Emotoe/text/KB_agile.html

マーチン・フォウラーみたいに「ソフトウェア開発では「施工」の工程は無視できるほど小さく、だとすればソフトウェア開発はすべてが「設計」なのではないか」という議論もあるな。
http://www007.upp.so-net.ne.jp/kengai/fowler/newMethodology_j.html

もとえ:

とことでサナドゥはWWWになったんじゃないの?
何か足りないのか?

それから,executable UML なんてのはどうなんだろ。
ありえねーよ,んなのって論調のものも見かけるけど。

もとなが:

ザナドゥは現在のWWWそのものってわけでもないですよね。

んー、昔テッドネルソンのインタビュームービーが入ったマルチメディアCD-ROM(遠い目)があって、そこでいろいろ言ってた記憶があるんですが、もうどっかいっちゃいました。見つからない。あのころはまだWWWは普及してなかったような気がするなぁ。

正しく構想できた時点で完成、とは思っていないからこそ実装を重視するんでしょうなー。あ、ループしちゃった。うーむ。

もとなが:

見つかりました見つかりました。1993年のマックランチという、CD-ROMに雑誌が付属したもの。

割と短いインタビューなので、テッドネルソンが何を考えていたのかは結局よく分かんない(笑)。
>オープン・ハイパーテキスト・パブリッシングであり、
>オープン・ハイパーメディア・パプリッシングでもある。
>つまり、コネクションを出版できるということだ。
って言ってます。

それにしてもこのCD-ROM、面白いなぁ。「Macとサブカルチャー」というテーマでインタビューを受ける面々は
・テッド・ネルソン
・ティモシー・リアリー
・横尾忠則
・奥出直人
・VERBUM
・MONDO2000
・BMUG
インタラクティブ・ミュージックの可能性というテーマの部分に登場するのはヒカシュー。

もとえ:

そのマルチメディアCD-ROM,おもしろそーだなー。
ヒカシューかぁ(遠い目)巻上公一の歌は結構好きだったなー。
連想ついでに書くと,しばらく前だけどゲルニカってCDないんだなぁと思ってたら戸川純のベストに何曲か入っていることがわかって入手。ひっさびさに聞いて,これって椎名林檎じゃんと思い,一度そう思うと,「りんごのうた」なんか戸川純にしか聞こえないんだよママン(笑)

さて,もちろんザナドゥが直接WWWになったわけじゃないけど,ネルソンのアンビルトなコンセプトのうち,まだ実現してないもの,WWWには納まっていないものって何?

もとなが:

http://xanadu.com/xuTheModel/

もっときちんとリンクと引用の管理をする、ってことなのかな。ザナドゥに比べるといまのWWWは、リンクは切れるは、リンク先のバージョンが変わってもわからないは、リンクされた側から逆に辿れないはで、ダメダメだと。

で、リンクがきちっと管理されてれば、例えば、そのリンクに対して課金もできて、著作権の形を変えることができる。

はてなダイアリーを見たとき、あ、これちょっとザナドゥかもと思ったんですが、あれはドキュメント間のリンクとして見ると、ある意味(半)自動的に生成されているので、ちょっとちがうみたいです。テッド・ネルソンは、「システムはコネクションを作らない。人がコネクションを作る」と言っています。関心空間は人の意志でリンクしますけど、はてな同様キーワードにしか絡めないので、これもちょっと足りない。

もう少し現実のWebに近いところでアンビルトなものといえば、現時点で「まだ」実装されていないだけですけど、セマンティック・ウェブなんてものもありますね。賛否両論みたいですけど。

W3Cの仕事やRFCには「Vapor」なものも多いかも。なにしろ先のことをこうしよう、ってものだから。

戸川純とか言い出すともう止まらなくなりそうですけど(笑)、戸川純と椎名林檎の類似性を指摘する人と激しく否定する人がいるみたいですね。でも似てるからしょうがないじゃん。

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2004年02月24日 04:25に投稿されたエントリーのページです。

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