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ヤマハが自社のデザインを紹介するサイト。単に作品紹介にとどまらず,哲学から語りおろしている。
なによりおもしろいのは,ナビゲーションをマウスオーバーだけでやっていて,クリックをさせないこと。
クリックしないで見てまわるとカチカチいう音が全然しない。それだけでいつもと全然違う体験だった。
これは音をさせないデザインなんだ,それでクリックを嫌ったんだなあ,さすが楽器の会社だあとすっかり感心してしまったのだが,私のPCの音量がゼロになっているのに気づいた。
ありゃりゃとボリュームをあげてみると,ボタンの反応にあわせて音が出ている。悪い音ではないし,ユーザへのフィードバックを多重に行うのはインタラクション・デザインの基本ではあるが,なんか拍子ぬけしちゃったぜ。
Tour de France : bienvenue sur le site officiel
いよいよはじまる大レース。
今年はウルリッヒがなんと1秒差でスイスを制した。
昨年の大接戦の記憶がよみがえる。
アームストロングの前人未到の6勝はなるか!?
を読む。
ジェスパー・ホフマイヤー『生命記号論—宇宙の意味と表象 』松野孝一郎+高原美規訳,青土社,1999
パースの三項図式の記号論を用いて,「記号過程のネットワーク(p.155)」としての生命を論ずる。西垣通の『基礎情報学:生命から社会へ』のネタ本のひとつ。
第9章の意識論が興味深い。
意識とは身体の実存的環世界を肉体が空間的物語的に解釈したものである。(p.196)
つまり,環世界:sign/意識:object/身体:interpretant という三項図式。
「環世界」はユクスキュルの用語。この意識論は,参考文献にも上がっているが,ノーレットランダーシュ『ユーザー・イリュージョン』(柴田裕之訳,紀伊国屋書店,2002)にも接続する。
やっぱり面白いのはパースだな。
パースは3の人。
鈴木直美の「Webでみる航空写真地図」に,いろいろ紹介されている。
こういう新しいサービスはどうしても東京ばっかり,Winばっかりになりがち。
ファシリティの評価,期末レポートの課題
FM1_2004_11.pdf
firetunes.org weblog: Tokyo Picturesque ver.alpha経由。
「時空間ポエマー」に近い狙い。
テクニカルな詳細はdetailsに。
apeirophobia: Tokyo Picturesque ver.alphaにて討議展開中。
スムースな動きで美しい。
背景になっている東京の航空写真も素晴らしい。どっから入手したのだろう。
これにしてもULSEにしてもポエマにしても,この「ちょっとおもしろいかも」のレベルからもう一歩どう先へ進むかが問題なのだと改めて思う。「カキコまっぷ」みたいに,かなり具体的な目的をもってGPS写真にアプローチしてきたものとは,ちょっとノリが違うし。
現在企画準備中の「卸町ポエマー(仮称)」では何かしらのブレークをしたいものだ。
子どもがペットボトルをキーボードの上に落としたら,iBook 600 Dual USB の V と B のキートップがもげた。内側のパンタグラフの爪が折れてしまったので,もとにもどせない。胡麻粒より小さい爪の先が折れただけだが,これでキーボード全体がパァである。
アップルに電話して,在宅自己交換修理のキーボードを依頼。¥6,300なり。微妙な値段だな。あさってには届く予定。破損したキーボードは返却せずともよく,こちらで処分せよとのこと。
電話の途中,こちらの電話の子機の電池が切れて通話が途絶えるという馬鹿なミスをしたが,書け直したところ,アップルは電話が切れる直前までの状況を保っていて,電話番号を再確認しただけで元の状態に戻ることができた。昔のアップルのコールセンターは非常に態度が悪くて何度かキレそうになったことがあるのだが,かなりよくなっているように思われた。ひいき目かもしれないが。もうちょっと早く繋がるとさらによい。
追記:7月7日,さっそく届いたので交換。iBookのキーボードは簡単に外せる。工具もほとんどいらない。PowerBook 2400のクリックボタンが接触不良に陥るたびに,バラしまくっていた昔の日々を思い出す。
さて, 見るからに分解の難しそうなPBG4-12はどうかといえば,自己交換の対象となるのは,AirMacCardとメモリ,それにゴム脚(トホホ)だけなのであった。ていうか,ゴム脚も頼めば買えるんだな。もうひとつも残ってないけど,要らねーし。
ITmedia エンタープライズ:成長続くデプロイメントソフト市場
deployment は「散開」と訳される。もともとは軍事用語で「火兵戦で、敵の銃砲からの損害を少なくするために、各兵の間隔をあけ、傘形·横広·縦長などの隊形をとること(広辞苑第5版)」だ。以前,建築学会のTNCWGでシンポジウムをやったときにも「散開」をキーワードにしたのだが,もっと一般的で抽象的な空間像を意味していた。
IT用語辞典: デプロイ 【deploy】によれば,「ネットワークアプリケーションやWebサービスなどを利用可能なように準備すること」とあり,「インストール」との違いは,独立した単体のアプリケーションではなく,ネットワーク経由の利用や,他のソフトから参照されるコンポーネントとしての利用を念頭においている点にあることのようだ。なるほど,このような場合はネットワークの中にソフトウェアを「散開」させるというイメージは納得がいく。(ところで,ネット上にいくつかある日本語IT辞典の「デプロイ」の項はほとんど同じ文言であることに気づいた。なんだこれ。)
GPSカメラケータイの普及も,ある意味「散開」的な様相だといえそうだ。
クラッカーがウィルスをネットに放つ時にも,デプロイっていうんだろうか。
pBook G5 - Apple Design & Prototype - The Apple Collection
市場から一定の期待を集めながらも, Power PC G5 CPUの物理的寸法および発熱の問題から開発が遅れている PowerBook G5 について,デザイン上の解決策を示すモデルの提案。なかなかよく考えられている。造形的には, レム・コールハースやブルース・マウの影響下にあるといえるだろう。
firetunes.org weblog: pBook G5経由。
宮城大学では,デザインマネジメントとコミュニケーションデザインの教員を公募しております。
ガチンコです。ふるってご応募ください。
愛用のICレコーダー,三洋のICR-S290RMの動作がおかしくなった。ボタン操作への反応が異様に遅いのである。ボタンを押してから15秒ぐらいするとピと反応する。全然動かないわけではないが,もちろんこれでは仕事にならない。リセットボタンを探すが,それらしい穴は開いていない。
三洋のFAQを見て,メモリのフォーマットをやりなおす。メニューをひとつずらすのに15秒ずつ待ちながら(笑)
また,この過程でファームアップデートが出ていることを知る。ダウンロードするのは.exeファイルだが,自己解凍形式で圧縮されているだけのようで,MacでもStuffItExpanderで必要なファイルを取り出すことができた。
でもって,元通りになった。
と題された記事がTidBitsの最新号に出ている。TidBitsは,Macintoshのコミュニティに対して,長く様々な知識を提供してきているメディアのひとつだ。
ここでは,数多く行われる業界カンファレンスの「成否を左右する要因」を,観衆,出展者,講演者,マスコミ関係者それぞれの視点からチェックしている。豊富な実体験にもとづく具体的な指摘は非常に参考になる。
「会議」という字面を見ただけでなんとなく不愉快な気持ちになるのは,愉快な会議があまりにも少ないからだ。集まって議論をし,成果を参加者同士でわかちあうというイベントを会議と呼ぶのであれば,それは面白くあってしかりである,にもかかわらずこれほどにつまらないものが多いのは,やはり参加者の態度も含めて会議のやり方がよくないからなんだろう。
直接対面する会議ってのは,IT業界のカンファレンスに限らず,遠隔コミュニケーション技術がいかに進もうとも,ますます盛んに行われていくことだろう。私も頻繁にそうしたイベントに参加するだろうし,少なからず運営側の立場に立つこともあるだろう。楽しい会議をやりたいものだ。
楽しい会議の実現には,あれこれ気を使う必要がある。
そのリストが,たとえばこの記事だ。
KDDI 会社情報: ニュースリリース > 「CDMA 1X WIN」に新たに3機種のモデルが登場
三洋,ソニエリ,京セラ。
どれも冴えねーな。WIN端末は開発が難しいのかね?
京セラは,ジョン前田デザインの時計アプリを入れているらしい。渋い。筐体もやけに地味。小さいってのはいいけど。
オレはカシオに期待しているが,秋まで待ちってことか。
半透明のデスクトップ画面にビデオ映像を重ねる新技術『フェーストップ』
地味だけど使えそう。
これを学会で発表すると,技術的な新規性に欠けるって言われそうだが(笑)簡単で安くてちゃんと使えるなら,それ以上のシステムはない。オレはこういうのが好きだ。
画面に透明な顔とデスクトップとが重なり合うことになるので,少々見づらいのは確かだが,実用上問題はないことはEyeToy Playで実証体験済みだ。
「人間の脳というのは、その人が今、注意を向けている内容を表示した箇所を、画面の中から見つけ出すのが非常に得意だ。ちょうど、あちこちで会話がなされている部屋にいながら、その1つに集中することに全く苦労しないのと同じように……。このシステムには、誰もが何の無理もなく適応できる」とスミス氏。
こういうフィルタリングは,音の認識ではよく聞くが,視覚でも同様なのだな。
最終回。ディベートと授業評価アンケート。
ディベートの論題:
1. 宮城大学は大講堂を他の用途に転用すべきである。
2. 宮城大学は4階研究ラウンジの座席数を倍増すべきである。
ディベートの結果と審判のコメントは"more..."から。
このMovableTypeは,PowerBookG3(Pismo)で動かしてきたのだが,とうとうシステムが死んだ。システムの再インストールふくめいろいろやったが起動できない。残念。もうハードディスクが物理的にヤレてきたということなのかもしれない。
iMac DV ブルーベリーという年期の入ったマシンに代役をまかす。もちろん液晶じゃないやつ。
blogのコンテンツについては,バックアップから戻したので,直近のいくつかのエントリやコメントは失われた。消えちゃったコメントを書いてくれた皆さん,ごめんなさい。よろしければ思い出してまた書いてください。
これを機にMTのバージョンを2.661にすることも考えたが,一度に複数の変更をするとろくな目に遭わない数々の経験を思い出し,「これを機に」と考えるのをやめることにする。
を読む。
茂木健一郎『脳内現象 』NHKブックス1002, 日本放送出版協会,2004
「クオリア」の茂木健一郎の本。初めて読む。日記はときどき見たりしていた。
おもしろかったのは,p190ぐらいからの認知モデルの展開のところ。弁証法。
正:通常の認知モデル:観察主体と客体が分離している。
反:すべては自己のうちの擬似的主体による擬似的客体の「メタ認知」だとするモデル
合:「通常の認知のモデルは,このようなメタ認知において仮想的に立ち上がる「客体」(実際には自己の一部である)を,自己の外側に外挿して得られるに過ぎない(p192)」という「メタ認知ホムンクルス」モデル
「メタ認知」が全体のキーワードだが,他にも,「哲学的ゾンビ」や「感覚的クオリアと志向的クオリア」,錬金術ならぬ「錬心術」,「説明されるべき事実」と「事実それ自体」などなど,どれも明日の職場ですぐに使える(笑)キーワードばかりであった。
これを読むと,よくわからないということがよくわかる。よくわかったり,すぐできたり,サルにもわかったりするような,誰かに習えばすむようなことじゃなくて,こういう誰にもまるでわかってないことを悶々と考えるってのが,辛いけど楽しいのだな。
読後感に独特の既視感があり,なんだこれは?とずっと記憶をさぐっていたのだが,栗本慎一郎の『パンツを捨てるサル—「快感」は、ヒトをどこへ連れていくのか 』であると思いいたった。当時としてはそれなりに先駆的にドーパミンなどの脳内伝達物質について触れていた。けっこう興奮しながら読んだ覚えがある。薬学部の友人にドーパミンとかどうなの?って議論をふっかけたような気もする。
で,クオリアとかどうなの?
「プログラマのダイエット」というのは、 「プログラムの高速化技術」を「体重の軽量化」に応用する方法のことである。ポイントは3つある。
鉄則1. 計測ツールを使え
鉄則2. やたらに直すな(主要因を見極めてから直せ)
鉄則3. 度を越した改善を約束するな
すばらしい。プロフェッショナルなダイエット方法論だ。
建築家のダイエットを考えてみた。
鉄則1. ビジュアルなプロポーションを重視せよ。
鉄則2. 壊れてもいいが潰れてはいけない。
鉄則3. 街並に調和せよ。
やせられそうもない……orz
という語が使われているのだな。「地理的位置」といったところか。
ジオロケーション技術の発展で、ユーザーの属性に合わせた情報提供が可能に
原文は,Wired News: Geolocation: Don't Fence Web In
geolocation という語が geo-location とハイフンで区切られることもなくスラリと使われているのに,ちょっと驚いたのだった。「地理的位置」だなんて,トートロジーじゃないの?
ググってみた感じでは,ネット上のマシンが地理的にどこにあるかという情報のことを geolocation という概念でとらえているようだ。いまのところ期待したほどの哲学的広がりがあるわけではないらしい(笑)
Internationalization (i18n) Gurus: Geolocationなど。
「地理的位置」などと迂遠な言葉遣いが必要になってきたのは,もちろん「情報的位置」と区別するためであろう。コンピュータの世界を表現する空間的な比喩の体系はすっかり定着してしまったようだ。これは,ただのたとえなんかじゃないのだ。
ところで,"locus"という概念もある。ジェフ・ラスキンの『ヒューメイン・インターフェイス』(村上雅章訳,ピアソン・エデュケーション, 2001)では,「所在」と訳されている。「場所 place」や「在処 site」を表す概念である,主に「注意の所在 locus of attention」として使われ, 動詞的な focus とは区別される。(前掲書 p19)
日本の戦後文化の古典たるサザエさんは,その名前からして,あらかじめマニエリスムを胚胎してしまっているのだといえよう。
思いがけず私の眼前でシンクロしたサザエさんネタをふたつ。ネタ的にすぐに消えるかも。チェキラウライナウ!
を読む。素晴らしい箴言集。箴言というと表現が凝っている感じだけど,これはストレートだ。
大橋禅太郎,倉園佳三『すごいやり方 』扶桑社,2004
僕にはとても難しいけれどやれたらきっとすごいと思えたのは,
あ,いま,ちょっとむかついた。だな。やってみるかなあなんていっていると,こういうのもある。
それやるんだ。いつ?
まじすか?
場所
雨の中なれど大入りにて
を読む。
平田オリザ『演技と演出 』講談社現代新書 No.1723,2004
演出論であり,コミュニケーション論である。素人向けの演劇ワークショップをなぞる形で展開する。ワークショップ論としても面白い。
「どうして俳優たちは,私の素晴らしい戯曲を,こんなに下手にしか言えないのだろう(p215)」という切実で臆面もない疑問から,平田は,演出家と俳優,そして観客の,気がつけば些細な「コンテクスト」のずれが問題の中心にあることに気づく。「演出家の仕事は,この関係のイメージ,コンテクストを明瞭にしめしていくことであり,俳優の仕事は,そのイメージを的確につかんで,他者との関係を織り上げていくこと(p114)」だという。本書が,コンテクストを摺り合わせること,イメージを共有することを軸とした,コミュニケーション論としての一般性をもつのはこのあたりにある。
演出家に要求される資質として,平田は次の5つをあげる。
世界観
方法論
構成力
説得力
リーダーシップ
(p13)
こんな資質がとりそろった人なんていねえだろ,スーパーマンかよ,と思いもする。
演出家というのは,いつも,簡単なことを難しそうに言って,自分をえらく見せようとする人種ですから,たいてい 「内面の掘り下げが弱い」 とか, 「戯曲の解釈が甘い」 と言って怒りだし,俳優を責めます。(p108)
あるある。ていうか,これって大学の研究指導の話だなあと,我が身を振り返る。建築家やデザイナーの仕事も,まったく同様の面があるだろう。「なんでこんなことがわかんねえんだよゴラァ」とか内心思ってるわけ。時には口にも出す。しかし,こういうときは,言う方も言われるほうも,どうしていいか全然わからないわけで,なかなか状況は打開されず,もう最悪なのである。
こういうとき,「演出家」の仕事は何なのか?
演出家の仕事は,大きく分けて,演劇作品を構成し観客に届けることと,その構成に沿って,俳優の演技を指導することの二つに大別されると考えるようになりました。そして,この二つは,時に一緒になるにしても,論理の筋道としては,混同しない方がいいことにも気がつきました。なぜなら,この混同が,演出家が俳優に対して権威的になる源泉となっているからです。 世界観,構成,戦略なしに,ただ闇雲に方法論だけをかざして,俳優の演技を指導していたのでは,俳優は,なんのための演技なのか,まったく理解できません。しかし一方で,構成や戦略だけを話されて,実際にそれをどう演じればいいのかという方法論や,それを説明する言葉がなければ,俳優は荒野に放たれた羊のように戸惑ってしまうでしょう。そのような集団では,その集団を導く方針がないために,逆に演出家はいたずらに,権威的にふるまいます。 おそらく,すぐれた演出家ほど,構成の力と,それを実現する演技指導の二つのバランス感覚をしっかりと持っているのです。それが演出家にとって,リーダーシップの源泉にもなります。(p216)
「演出家」として言うべきことがわからないとき,権威的に振る舞ってみてもどうにもならない。積極的に一歩引いて,コンテクストのずれがないかどうかを考えてみる。構成と戦略を,具体的な方法論とともに,言葉で説明しなくてはいけない。まったくそのとおりだと思うが,簡単じゃないなあ。
その点,さすが平田の話は具体的な事例と抽象的な議論がバランスよく進む。脱線も多いが,ちゃんとたくさんの情報を含んでいる。平田オリザの本は初めて読んだけど,他のも読む気になった。機会をつくって芝居も見てみたい。
前半はラツィオが圧倒。仙台も何度か大きなチャンスはあったが,決められず。後半はラツィオはずいぶん選手を変えたし,疲れてきていたようで,こっからは仙台も押しかえして,結局2-2の引き分け。
蒸してはいたものの夕立は避けられた。仙台スタジアムは手頃な大きさで,ピッチにも近く,ボールが腿にあたる音や選手の気合いを入れる声なんかもよく聴こえる。ラツィオのコーチはすげーオーバーアクションでバカでかい声だった。ここでみるサッカーはとても楽しいのだ。
ラツィオ応援サイト Tifo per la LAZIO!!などにもあるように,全国のラツィオのファン(けっこういるんだね)も仙台に集結していたようである。選手たちの滞在したホテルはうちの近くなのだが,そういや追っかけらしい人に囲まれている選手らしい人を何人か見かけたな。
そんなこんなで三連休はもうオシマイ。
明日から仕事…暑っ。
森山和道の「ヒトと機械の境界面」:人生を記録するVR〜記録と記憶、記憶は情報処理できるのか
東大の相沢先生や美崎薫さんなどが登場。
いろいろ考えたいことはあるが,とりあえずブックマークと。
海外ボツ!Newsより,あ!コンクリートが透けてる……
ネタもとは, Yahoo! News - Museum Hosts Translucent Concrete Display 。
こいつを展示してる展覧会はLafargeがスポンサーのNational Building Museum: Liquid Stone: New Architecture in Concrete。
透けるコンクリもいいが,展覧会サイトの"The Future of Concrete"にある"ULTRA HIGH PERFORMANCE CONCRETE"ってのもすごいな。鉄筋なしで十分な強度を出すんだって。これを使ったプロジェクトのCGにあるような,薄いコンクリートの「脂身の網」みたいなスクリーンは綺麗だなあ。Lafargeが開発したDuctalっていうものらしい。
これだ。LAFARGE: Ductal® なんだ,もう商品なんじゃん。
Fiber-reinforced なので,曲げに強く,弾性変形が大きいとある。表面も摩耗に強い。ワーカビリティが高いので細かい模様も転写できる。骨材が均質だ。これは砂利って言わないだろ,もはや。コンクリートというよりセメント系の新素材って感じだ。
ダルダルのFlashがうざいが,Ductalの詳細を紹介する専用サイトもある。
ImagineDuctal.com
土木系の実績が多いようだ。
しぼってググると,太平洋セメントが日本語のサイトを作っていた。やっぱり建築の施工例その1, その2を見ると,まだ上記展覧会作品のようなすごいのはなくて,薄肉だってことと,転写性の高さを活かした微細な表面という表現にとどまっているみたいだ。
こいつは燃えないプラスチックなのだから,もっといろんな表現の可能性があるだろう。
今年1月まで行われたモニター試験において、電話をしながら改札を通過できない問題点が指摘されたため、耳の高さに読みとり装置がある改札機を新設し、専用レーンとして運用することで対応するとしています。
スイカ本番の季節です。
東京はひどく暑いようですなぁ。仙台は爽やかよ。
さて,このスイカバー,上記のエピソードも含めて非常によくできているので, ぼーっと見てると本気にしそうだ(笑)
売り出されたら買っちゃうよママン。
デザインパターンと,アレグザンダーのパターン・ランゲージとの関係について,物語風にまとめてある。
たとえば,「技術系メーリングリストで質問するときのパターン・ランゲージ」や
「絵本を読むときのパターン・ランゲージ」は,アレグザンダーの形式を借りて書かれたという。
結城は次のように説明する。
YOMIURI ON-LINE / サイエンス / 理科・数学の先生、修士以上…文科省審議会が提言
「子供や若者の理科離れを食い止め、理科教育の質を向上させるため」には「「子供たちに、理科や数学を学ぶ楽しさを教えることが重要」と指摘。」
ここまではまず同意。
「理数教科の教員は理工系の大学院で学び、高い専門性と最新の知識に裏打ちされた、魅力ある授業を展開すべきだとした。」
問題は,「魅力ある授業を展開する」能力と「理工系の大学院で学」ぶこととの間に有意な相関があるかどうかだ。
無くね?
平成17年度の修士課程学生募集要項が公開されています。
今回から定員が10名から20名に倍増,担当教官も拡充され,本江も大学院を担当することになりました。
申請締切は8/30,試験は9/24,合格発表は10/6の予定です。
詳しくは,宮城大学ホームページ 入試情報から,「平成17年度宮城大学大学院事業構想学研究科(修士課程)概要」と「平成17年度宮城大学大学院 事業構想学研究科 修士課程学生募集要項」でご確認ください。
Ambitious Lovers, Lust [FROM US] [IMPORT]
なかなか売ってなかったが,やっと入手。うれしい。
ウマバラウマーオーメインゴー♪
ルックス(ジャケット左)はともかく,アート・リンゼイの歌とギター,かっけー!
オレは80年代に大人になったからさ,こういうのが好きなのよ。
アマゾンの在庫はないが試聴はできる。聴け!
を読む。
平田オリザ『演劇入門 』講談社現代新書 No.1422,1998
『演技と演出 』を読んだので,旧著にさかのぼってみた。両著では話がかなりかぶっているが,こちらは劇作のプロセスを腑分けして説明している。決定すべき事項の順序の指摘は面白い。
まず場所を決め,背景を決め,問題を決める。これは空間.状況,運命と言ってもいい(p80)。
でもって,テーマはあとまわしである。
私の講座(引用者注:平田が開催している戯曲執筆講座)では何を書くかは問題とされない。いかに書くかだけが問題とされる。
誤解されると困るのだが,書きたいこと=テーマ(主題)が要らないと言っているわけではない。書きたいことがあるのは当たり前で,ただ,それは戯曲を書くという技術の問題とは切り離すべきだということだ。
(中略)
おそらくテーマはすでに,あなたの精神にいくつも内在しているのだ。
(中略)
私たちは,先にテーマがあって,それを表現するために作品を創るのではなく,混沌とした自分の世界観に何らかの形を与えるための表現をするのだ。(p32)
テーマはすでに内在しているというくだりは,ポランニーの「暗黙知」に通ずるものがある。テーマは後から発見される。
ここで私が示そうとしているのは,戯曲を書くという手順のひとつのモデルであり,基本的な理念型だと思っていただきたい。 ただ,この理念型は,ある種の普遍性を持ったものであり,何か戯曲を書くときに迷いが生じた場合の,その迷いの原因を探るチェック機能を果たすことはできると思っている。 (中略。野村克也監督曰く「負けに不思議の負け無し」を引用。) おそらく,私のこの戯曲創作法も,「ダメな戯曲」の理由を検証するのには,適した方法なのだろうと思う。こうして,ダメな戯曲を書かないための基本的な概念を系統立てて学ぶことによって,「いい戯曲」を書ける確率を高めていこうちおうのが,私の講座の基本的な考え方だ。戯曲の書き方を教えるというのは,本質的にこのような方向でしか考えられないものではないだろうか。いい戯曲の書き方は教えられないかもしれないが,悪い戯曲を書かない方法は教えられるはずだ。(p81)
このあたりは「パターン・ライティング」で触れたことに通じる。方法論は「ルサンチマンのデザイン論」だと難波がいうのも,こうした構えへの不満からかもしれない。
p119の図「話し言葉の地図」もおもしろい。話し言葉の種類を,演説や談話などの公的で意識的なものから,叫びや独り言にいたる私的で無意識的なものへと並べたうえで,それぞれの特性を発話者,その数,相手,その数,聞く意志,知己か否か,場所,最初の言葉,長さ,結果,冗長性などの観点から整理したものだ。
これらの話し言葉のうち,平田は,演劇を支える一番大きな要素は「対話 dialogue」であるとし,特に「会話 conversation」との違いを重視する(p121)。「対話」は他人と交わす新たな情報交換や交流のことであり,「会話」はすでに知り合っているもの同士のおしゃべりのことである。「会話」では「自分たちが知っている情報については,わざわざ喋ることがない」という大原則がある(p47)から,戯曲においては,「会話」だけでは何の情報も共有していない観客には,まったく物語の状況を説明することができない。観客に近い存在である外部の人間を登場させ,「対話」を出現させることが必要だというわけである。
だが,日本語は対話に向いていない,と平田は指摘する。知らない人に話しかけるということがとても難しいというのである。近世以降の極端に流動性の低い社会の中で,人口の大半は他者とは出会うことなく一生を過ごしてきた。「村の中で,知り合い同士が,いかにうまく生活していくかだけを考えればいいのであって,そこから生まれる言語は,同化を促進する「会話」のためのものが発達し,差異を許容する「対話」が発達してこなかった(p128)」というわけだ。
日本語は対話の苦手な言語である。日本人は対話の苦手な民族である。だからこそ,私たちは,本書の中で,注意深く,対話の苦手な日本人が,それでも他者と出会い,話さざるを得ないような「場所」や「背景」を探してきたのではなかったか。
私がこれまで示してきた戯曲の手続きは,突き詰めれば「対話」を産み出すための手続きだったと言っても過言ではないだろう。(p140)
情報デザインの重要なテーマの一つが,インタラクションのデザインだ。これは対話のデザインにほかならない。そこでは見知らぬもの同士の新たな情報交換が行われるからだ。ダメな対話のデザインを日本語のせいにしてはいけないのだが,対話的な発話を,しかし慇懃になることなく自然に行うことの困難の理由が,日本語そのものの特性であるという指摘は覚えておいていい。日本語で行うインタラクション・デザイン。細野晴臣か(笑)
「対話」を描いた日本語文芸作品の希有な事例として,夏目漱石の『三四郎』が出てくる。そこでは,近代化が進んだ明治日本で,以前なら決して出会うことのなかった人たちが出会い,対話し,離れていく。しかし,その後日本語における「対話」の形式は深化されることなく,ファシズムの時代が戯曲の言葉を「演説」と「ひとり言」に二極分化させてしまうのだ。(p138)
そういや『三四郎』って読んでないなあと思って,手に取ってみた。かつて見知った景色がたくさん出てくるので,私には対話よりも景観描写が気になってしまうのだった。
Passion For The Future: GPSで宝探し、時空間写真アーカイブ
ポエマーも取り上げてもらっている。
ぱっと見て,「ジオキャッシング」を「オヤジキャッシング」と読んでしまい,ちょっと驚いた(笑)
「大して役に立たないかもしれない。でも、GPSデバイスは着実に増えている。実用性云々というよりも……」という指摘はあるが,それはそんなに心配ないのではないかな。
卸町ポエマーの企画をすすめなくては…
グランプリは栗本隆介のTape Stcoker。
短く切ったセロテープを仮留めするための突起がついたテープカッター。
左腕やら机の縁やらを短冊状のテープでいっぱいにすることってありますもんね。
他の作品もみなユーモラスでよいなあ。
はがきにあらかじめ「書き損じ模様」などが印刷されている Relax もイイ。
asahi.com : ネット最前線 : ASAHIパソコン NEWSより,
ユーザー置き去りの著作権攻防戦
iTunes Music Storeは始まらず、規制は世界一、パソコンやiPodにも新規課金の動き
これはかつての大型店出店規制の問題と似てるところがあるな。消費者に無理をさせるシステムは遠からず瓦解するであろうよ。
を読む。
千住博『千住博の美術の授業 絵を描く悦び 』光文社新書 No.147,2004
「何を」と「いかに」を考えるシリーズ。これは平田オリザとは正反対に,ひたすら「何を」を問題にしている。
5つある章題はこうだ。
ひたすら「何を」を問題にしているのだけれど,それは「何を」と問い続けることの困難に「いかに」立ち向かい続けるかを述べているものだと思われた。