「建築とロボティクスの融合」での議論で、一番印象的だったのは、山中俊冶さんが言われた、あらかじめ開かれたロボットの話だった。
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擬人化されたロボット、生物をなぞり直したようなロボットのイメージは不自然である。
ロボットは、本質的にネットワーク化されているものであって、あらかじめ開かれている。
ロボットは、体内と体外の区別がない。ロボットの体内のLANと体外のLANは同じプロトコルで動作しているから、そのような変換を経る必要はなく、直接データを交換すればいい。音声で会話するロボットなどというものはナンセンスである。
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これにたいして、人間は体内と体外とでプロトコルがまったく違っている。人の身体は閉じている。情報を交換するためにはプロトコルを変換しなければならない。ここに表現行為の余地が生まれる。テレパシーで直接気持ちを伝えあうことができたならば、表現を複数するなど必要ないのだ。
コラボレーションのために特別な道具立てが必要なのも、表現=プロトコル変換が必要であるからだ。
グレッグ・ベアの『ブラッドミュージック』やスタニスワフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』も、互いに溶け合ってネットワーク化している集合意志に対する、閉じて孤立する人間の物語だ。『2001年宇宙の旅』のディスカバリー号=HAL9000ネットワークと孤立した乗組員の対決という同じ構図で理解できる。